上に貼った写真は「宗教改革記念碑」です。左からファレル、カルヴァン、ベーズ、ノックスの巨大な彫像で、同上のサイトには、
幅100メートルの巨大な記念碑の主な責任者は、カルヴァン生誕400周年を記念した設計コンペで優勝したスイスの建築家アルフォンス・ラヴェリエールです。
という説明があります。
今回記事では、「聖徒の堅忍」について考えてみましょう。
過去記事「キリスト教のチューリップとは」でも説明したように、聖徒の堅忍とはドルトレヒト会議で示された五つの信仰基準の一つで、
いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。
という意味である、と説明されています。改革教会や長老教会など、カルヴァンの影響を受けている教会で受け継がれている事柄です。
「聖徒の堅忍」とは、神に予定された聖徒は、入信してから死ぬまでの間、何の問題もなく、模範的な生活を送る、という意味です。
入信したからと言って、必ずしも神の予定に入っているとは限りません。予定に無いものが表面上入信を装ったとしても、死ぬ前に必ず破綻する、というわけです。予定されている者であれば、一旦道を外れたとしても、最終的には聖徒としての模範に立ち返る、とも言います。
しかしこれ、単なる脅迫でしかありませんよね。教会というこのコミュニティの一員としてうまくやっていこうと思うのなら、教会の言う事をよく聞いて、逆らわず、飛び出さず、穏健にやっていきなさい、という「押さえつけ」なのです。
自分が聖徒として予定されている、ということを証明するためには、他のコミュニティメンバーと衝突することなく、穏健で無難な態度で生活する必要があります。また、一度の失敗で切り捨ててしまっていては教勢が衰退してしまいますので、実際そういう人は少なくないでしょうから、戻って、また真面目にやり直すのであれば、再び予定へ回復した、と認めてあげよう、というわけです。
神が実在するのであれば、人を「内心」で評価するはずです。態度や協調性を問題視するのは神ではなく、人の評価でしか無いわけです。なんとか無事に生涯を閉じることができた人を、神の予定にあった、できなかった人を予定になかった人である、と、人が人を評価するための指針であるわけで、意にかなう人を贔屓し、嫌いな人を蔑むために用いられることも、きっとあるでしょう。「おまえなどは神の予定からはみだした汚らわしい人でなしだ」といった具合です。
また、自分が予定にあることについてはエビデンスを示して証明せねばならないのに、神の実在は何一つ証明してもらえない。そんな馬鹿げたことがあるでしょうか、考えてみてください。
一度、神に頼んでみてはどうでしょうか、「私はアブラハムのように盲信することはできません。ですから、あなたが実在する証拠を見せてください」とお願いするのです。神が実在するのであれば、喜んで見せてくれると思いますよ。また、よく言った、と、高く評価するはずです。