過去記事「水引のこと」でも触れましたが、キリスト教徒は仏教式の葬儀を敵視しています。引用してみましょう。
葬儀といえば、キリスト教徒は仏式の葬儀を忌み嫌います。どうやら、日本の仏式の葬儀は物故者を崇拝するところの儀式である、と教会で教え込まれているようです。極端なプロテスタント教会だけでそのような傾向が見られるのかと思っていたのですが、知り合いの葬儀に参列したとき面白いことがありました。葬儀社の会館での式だったのですが、焼香の列に並んでいますと、少し前に並んでいた若い女性が、焼香のときに、左手に持ったロザリオを遺影に向かって振りかざし、遺影を睨みつけながらゆっくりと右手で十字を切ったのです。そのご遺族に弔意を示すこともせず、足早に退出して行きました。ロザリオに十字を切る習慣といえばカトリックですが、カトリック教会でもそのような迷信を信者に植え付けているということなのでしょうか、ちょっと驚きました。
物事の見方には、当然ながらいろいろな方向からのものがあって、決めつける言い方をするべきでは無いと思うのですが、あえて私なりの説明をしてみるのであれば、キリスト教は、公式に死後を定義していますので、キリスト教が行う葬儀には宗教的な意味を持つ宗教行為であると言えると思いますが、過去記事「お釈迦様の来世感」で申し上げた通り、仏教は公式には死後を定義していませんので、仏教式の葬儀は宗教行為ではありません。僧侶を交えて行う、世俗の迷信的な行事だと言えると思います。これも引用しておきます。
釈迦は死後に無関心だった、とか、仏教は現世利益至上主義だとか言われる場合もあるようですが、そうではなくて、単に、お釈迦様は嘘を言わなかっただけのことでしょう。死んだことがないのに、自分で確認できないようなことを説明のしようが無い、というだけのことです。
仏教は中国から伝えられた外来宗教で、日本における当初の様態は奈良仏教、または南都六宗といわれますが、現行では、法相宗、華厳宗、律宗の三宗が存続しています。
これら、奈良仏教は、宗教というよりも学術研究機関であるため、僧侶による葬儀は行わないのだそうです。
つまり葬儀は、仏教の本質には関係しない、ということであって、「冠婚葬祭」とも言う通り、人生の節目を記念する世俗的な行事の一つであるのです。
キリスト教徒は仏式の葬儀に参加することを怖がっているようですが、一体なにが怖いのでしょうか。葬儀が怖いのであれば、お七夜も誕生祝い、成人式、還暦、結婚式、月見、花火、縁日、全部だめですよね。
キリスト教に入信して増えるものは、いろいろな「タブー」と、そのタブーに振り回されて苦しんでいる自分を人に見せる楽しみぐらいのものでしょう。笑