福音書には、イエス様が宣教に先立って、荒れ野で断食を行い、悪魔からの誘惑を経験したことが書かれています。読んで見ましょう。
マタイによる福音 4:1-11
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
この「悪魔」というのは、実在の権力者であって、イエス様を懐柔するために誘惑したのだ、という解釈を聞いたことがありますが、山上の説教前、つまり、まだ認知度が不十分な状態では、だれも懐柔しようとは思わないでしょうね。
キリスト教徒は「悪魔」が大好きです。ちょっと嫌なことを言われでもしたら、すぐに「あの人は悪魔よ」などと平気で言います。
ですが、悪魔が実在するかどうかということは、実はどうでもいいことなんです。悪魔というものが実在する、という聖書の読み方、即ち低次元的な読み方、それから、何かを象徴的に例えながら表現しているのだ、と理解しながら読む、高等批判的読み方があります。イエス様は、実在の悪魔であれ、自分自身に潜む負の意識にであれ、どちらであったにせよ、楽なメソッドへの誘惑と戦った、という事実を見れば良いのです。
悪魔とは、ヨブ記に見る通り、神の手下として表現されているものなのですから、神を誘惑するはずはありません。ですから、福音書において、イエス様は神では無い、と表現されていることになります。しかし、荒れ野で断食をし、誘惑と戦い、「神に成った」と説明されているのです。イエス様が神に成ったとき、悪魔が去り、みつかいたちがみもとに来て仕えた、とあります。
お釈迦様は、死ぬほどの苦行を行った後、菩提樹の下で悟りを得られましたが、イエス様も修行と誘惑を経験しながら、仏教で言う悟り、涅槃へと入られたのだと説明しているわけです。大切なことなのに、随分あっさりとした説明で済ませていますよね。
これが、キリスト教で言う「神成」です。以前の記事でも説明しています。
福音書は、イエス様は、神になることができた初めての人間なのだ、と説明しているのです。この理屈を理解することができれば、今まで福音書やキリスト教に関してモヤモヤしていた色々な事柄が、一気に解決するように感じると思います。
その理解を踏まえた上で、三位一体、を考えるのであれば、神秘などといった子供だましの説明ではなくて、実に科学的である、とさえ評価することができると思います。
教会は、イエス様が悟りを得て神と等しい者となった、神成を達成した、ということを、「神の子」と表現したわけです。
ですので、「神成」の教義を捨て去っていない、正教会だけがキリスト教として唯一正しいのだ、と言えるわけです。
また、正教会の聖人とは、イエス様に倣って「神に成る」をなし得た偉人達、仏教で言うならば、お釈迦様に倣って阿羅漢となることができた人たち、ということになるでしょう。
それが正しいというのであれば、なぜそのことをはっきりと教えないのか、と思いますよね。教会の言い分は「誤解されたなら危険な結果招いてしまうから」というようなことなのですが、そうではなくて、もしそう言ってしまうと、教会の存在意義が変わってしまうからでしょう。パリサイ人とは、変化を恐れる人たちのことです(笑)。