ツイッターに、アメリカのロック・ミュージシャンであり、保守的なキリスト教を批判することでも知られた、フランク・ザッパの言葉がツイートされました。以下の言葉です。
キリスト教の神髄はエデンの物語に表れてる。あなたのあらゆる苦しみの根源は物事を知ろうとしたことだ。黙って問いを発することなく大人しくしてれば良かったと。賢くなったら痛い目に合わせるぞなどと主が語る宗教はなんと反知性的だろう?―ザッパ
神は、人を創造し、彼らを無知な奴隷のように扱おうとしていたのであるが、アダムはそれに反したので神の罰を蒙り、その結果「原罪」という印が与えられ、以降、子々孫々に至るまで、その罪過が否応なく受け継がれている。
正教、カトリック、プロテスタントの間で多少の違いがあるかもしれませんが、原罪の理解としては、概ねこのように纏めて大きな間違いではないだろうと思います。
では、旧約聖書の本家本元であるユダヤ教においても、これと同じような理解なのでしょうか。実は違うのです。
というサイトから、ユダヤに伝わるアダムについての民話を引用してみましょう。
アダムがまだ楽園にいた時は、欲しい物が何でも手に入りました。しかし彼は神の言いつけを破ったので、楽園を去らなくてはなりません。神は彼を無下に追い出すのはかわいそうだと思っていました。
「どうしたものか。」
と考えながら歩いていると、神は園の中でアダムとばったり出くわします。神はアダムを、最高のごちそうと、最高のお酒が並んでいる場所に招待し、酔わせた後にこんなことを言いました。
「なあアダムよ、外を旅して、世界を見たいとは思わないか?」
アダムは
「そんなことはしたくない。」
と断りました。説得に失敗した神は怒ってこう言いました。
「お前の好きな物、欲しい物をなんでも持って行って良い。だからとにかく、ここから出ていくのだ!」
そこで神は、楽園の中にある最上の宝を彼に見せました。その中には、金や銀。真珠や青銅。家畜や動物。ぶどう畑など、たくさんの物がありましたが、彼はそれらに見向きもしません。しかし最後にスイカほどの大きなダイアモンドを見ると
「こんなに大きなダイアモンドが1つでもあれば、私は生涯何の不自由もしないに違いない。」
と考え、それを持って行くことにしました。
神は「全知全能」なのですから、アダムが言いつけを破ってしまうことを事前に承知していたはずです。神は、最初から、アダムに楽園から出て社会の厳しい現実で生きる力を育てることを望んでいたのです。
注目したいのは次のアダムの打算です。
「こんなに大きなダイアモンドが1つでもあれば、私は生涯何の不自由もしないに違いない。」
アダムは、楽園の外に、すでに社会が存在していて、経済活動が行われていることを知っていたことになります。
続きを読んでみましょう。
そして彼は、天使に付き添われながら楽園の外までやってきます。歩いていると川に行き当たったので、アダムはこの川をどうやって渡ろうか悩んでいました。すると天使が
「何をぼんやりとしているのだ。」
と迫ります。
「さあ、渡るのだ!」
と天使がアダムを小突くと、アダムは手をすべらせ、ダイアモンドを川の中に落としてしまいました。
「なんということをしてくれたんですか!」
とアダムが怒ると、天使がこう言います。
「どうした。さっさと水の中から拾うのだ。」
そう言われてアダムが水の中に潜ってみると、なんとそこには何千、何万というダイアモンドがあるではありませんか。 アダムが水の中であたふたしていると
「なぜそんなに時間がかかるのだ。」
と天使が聞いてきます。
「どれが自分のダイアモンドかわからないのです。」
アダムがこう答えると、天使は言いました。
「お前は園を追われて、ダイアモンドを手にした第1号の人間だとでも思っているのか?何千、何万という人間が、お前より先にここに来ているのだ!」
アダムは、二回に分けて失敗を犯します。一回目は楽園の中央にある生命の樹から、神の定めを破ってその実を採って食べてしまったこと、二回目は、神から貰った宝石(叡智を始めとするあらゆる美徳)を川に落としてしまったことです。これらは、人は、悪いものに与しやすく、良いものに与しにくい性格を基本としてしまったのだ、ということを言っている(に過ぎない)のです。「原罪」などという暗澹としたお話では無い、ということです
おわかりでしょうか、ユダヤ教には、人間が元来汚れているもの、などという考えは無いのです。
また、次の天使の発言に注意してください。
「お前は園を追われて、ダイアモンドを手にした第1号の人間だとでも思っているのか?何千、何万という人間が、お前より先にここに来ているのだ!」
前半ではアダムが、楽園の外にすでに社会が成立していることを知っていましたが、後半では天使が、同じ失敗をしたものがすでに無数に存在することをアダムに告げたのです。
このような民話は、おそらく口伝律法(今日のタルムード)から派生したものだろうと推測できますが、成文律法である聖書からも、そのことを知ることができます。読んで見ましょう。
創世記 4:16-17
カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。
創世記の冒頭からこの箇所のまでの間を、神はその記述以外に何も創造していないのであれば、この時点において人間は、アダムとイブとカインの三人だけのはずなのですが、カインはどこからか奥さんを連れて来てしまいます。また、同4:14にある「私を見つける人はだれでも私を殺すでしょう」という記述も不思議ですよね。
つまり、創世記にその創造の説明が行われているアダムとイブはユダヤ人の祖であり、アダムとイブが創造されていた時点ですでに存在していた他の人間は非ユダヤ人である異教徒の祖である、と理解されているわけです。
いかがでしょうか、
キリスト教の神髄はエデンの物語に表れてる。あなたのあらゆる苦しみの根源は物事を知ろうとしたことだ。黙って問いを発することなく大人しくしてれば良かったと。賢くなったら痛い目に合わせるぞなどと主が語る宗教はなんと反知性的だろう?
という感想は、そもそもユダヤ人と非ユダヤ人を分けて考える ユダヤ教からみれば、
ああ、やっぱりゴイム的理解だな、さもありなん。
ということになるでしょう。そもそも、口伝律法を捨てては、聖書の真意を読み取ることができませんよ、ということです。