キリスト教は「理性的」である必要があるのでしょうか。僕はあると思います。どのようなことであれ、世の中の行いの中に、理性的でなくても良いものがあるとは思えません。
音楽や絵画には理性的である必要は無いのではないか、と思われるかもしれませんが、「旋律学」や「和声学」、「対位法」といったような「理性」を理解しないまま作られた楽曲は音楽としての体を成さないでしょうし、演奏についても、絵画や造形であってもまた同様です。理性に反するもの、不合理であるものは世の中に受け入れてもらえないし、どのような局面においても、何の価値も存在しない、ということができるわけです。
さて、それでは、キリスト教の理性的では無い点とは何でしょうか。それは「神の存在を証明できない」ということです。
そう言うと、神の存在なんて証明できなくて当たり前だ、そこを信じることが信仰だ、と反論するでしょう。しかし、それこそが、キリスト教が反理性であることの原因であって、神が存在するというのであれば、神が創造した世界が理性によって組成されていることと相反するという事実が即ち、キリスト教が矛盾であり、不合理であることの表白となってしまっているわけです。
キリスト教が、個人的な思い込みに過ぎないものであるならば、証明する必要はありませんし、理性的であろうとなかろうと、別に気にする必要はありません。しかし、経済性や社会性を有し、産業としての様態を示している以上、確固とした理性をもって、その本体の説明が可能であることが求められます。
キリスト教が、「理性」を神の創造によるものでは無い、と説明するのであれば話は別ですが、逆に、理性は、神の創造による最も高いものである、と考えているように思います。それであれば、理性によって神を説明しなくてはならないでしょう。当然のことだと思います。
実際のところ、せいぜい「神はいるかいないかわからない」と考えているか、「多分神はいないだろう」、できるだけ好意的にかんがえても「神はいたほうがいい」、「きっと神はいるだろう」と、キリスト教徒はそう考えているはずです。そうでは無い。神の存在を確信している、と主張する人でも、人に対して神の存在を明確に証明することはできないはずです。それでは「確信」と言うことはできません。
キリスト教徒が神を信じる、と言うその理由は、もし神が実在したときに、信者であればそのほうがトクだし、未信者であればソンをするから、という程度の話でしょう。実際、本当に神を感じて、福音書の説諭に感銘を受けて、というなら、そんなことは発言しないでしょう、と感じてしまうような人ばかりが自分はキリスト教徒だと主張したがる人であるように感じます。
結局、キリスト教という文化は、不合理を売り物にして金儲けをする産業なのだ、ということではないでしょうか。そうではなくて、キリスト教は理性的な正しい教えだといいたいのであれば、『実際のところ、神はいるかいないかわからないが、もしいたらこう言うであろう、だからこのようにしうよう』と指導するべきだと思います。
「ロゴス」とは「理性」という意味の言葉です。ヨハネの福音書の冒頭にはこの「ロゴス」が使われていますが、「言葉」と訳されています。これを「理性」に置き換えてみると、次のようになります・
初めに理性があった。理性は神と共にあった。理性は神であった。この理性は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この理性に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
これであれば、文句なく納得することができます。神は存在するとかしないとか、そういう絵空事では無いということです。理性そのもののことを、仮に「神」と呼ぶならば、ということで、色々な物事を理解してみよう、という提言。これが、福音書記者の思惑であったならば、と考えてみるのはどうでしょうか。