キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

プロテスタントの葬式理解

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カトリック教会には、「煉獄」という死後観があることはご存知でしょう。Wikiから少し引用してみましょう。

カトリック教会の伝承では、煉獄は「清めの火」というイメージで語られ、その由来は教会の古くからの伝承だけでなく、『コリントへの第一の手紙』3章13-15節 や『ペトロの手紙一』1章7節などなど聖書のいくつかの箇所に基づいたものだと説明する。また、『マタイ福音書』12章32節 の記述から「ある罪はこの世で、他のある罪はあの世でゆるされ得る」と解釈できることが、煉獄の存在の根拠だとしている]。

さらに、煉獄の教えは、旧約聖書(第二正典)の『第二マカバイ記』12章45(-46)節の、罪のうちに死んだ死者達のための祈りの習慣にも見られるとしており、カトリック教会は初期の時代から、「死者の記念を深い敬愛の念を以って尊び」、罪から解かれるよう、死者のために祈りを捧げてきた。

しかしながら、「煉獄」の存在を認めているのはカトリックだけです。正教会には類似した死後観があるのですが、プロテスタント教会はこのような死後観を否定しています。

例えば、「英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)」というサイトをみますと、「第22条 煉獄について」として、

煉獄、免罪(贖宥)、聖像および遺物の礼拝と崇敬、また諸聖人の執り成しに関するローマ教会の教理は、虚しく作られた勝手な盲信であって、聖書に根拠をもたないばかりか、むしろ神の御言に反するものである。

とあります。

次に、米国の「保守主義福音派根本主義、そして無宗派です。」と自称している「Gotquestions.org ミニストリー」というサイトの「死者のために祈ることについて聖書は何と言ってますか?」から少し引用してみましょう。

死者のために祈るのは聖書的な考えではありません。誰かが一度死んでしまったら、私たちの祈りには何の意味もありません。現実は、人が死んだ時点で 、その人の永遠の運命は確、定します。キリストに置く信仰によって救われて神の御前で安息と喜びを経験する天国にいるか、または 地獄で苦しんでいるかのどちらかです。 金持ちと乞食のラザロの話はこの真理を鮮やかに描写しています。イエスは単にこの話を用いて、死後、不義な者は永遠に神から離され、福音を拒んだことを彼らは覚えていて、苦しみに会っているが、その状況を変えることはできないと教えておられます。(ルカ16:19-31)

愛する人を亡くした人は、死者とその家族のために祈るようにと励まされることがしばしばあります。もちろん悲しみの中にある人たちのためには、祈るべきですが、死んだ人のためには祈れません。誰かが人のために祈ることで、その人の死後、その人の行き先をある程度でも良い方に変えることができるなどとは、誰も信じるべきではありません。聖書は、人間の永遠の運命は私たちが地上で生きている間の行いで決定すると教えています。 「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル18:20)

いずれの教会も、死後の世界は天国と地獄だけであって、その他には何もない、と理解していて、残されたものが死者の冥福に寄与するための有効な方法は何も無い、と説明しています。

 

なるほど、そうなのかもしれません。しかしちょっと待ってください。それならば、プロテスタント教会は、信徒の死に際して、なぜ葬式の礼拝を行うのでしょうか。

Gotquestions.org ミニストリーの同じページから、別の部分を引用してみましょう。

聖書は救い主の御心に従う者は(へブル5:9)死後、すぐに主の御前に行くと教えています。(ルカ23:43;ピリピ1:23;2コリント5:6.8)それでは、彼らに地上にいる人の祈りに、何の必要があるのでしょう?愛する人を失った人たちに同情する一方、私たちは、「確かに今は恵のとき、今は救いの日です。」(2コリント6:2)と言うことを頭に入れておかなければなりません。この文脈では福音時代全体のことを言っているのですが、この節は避けられないこと∹―死と死後に来るさばきに直面する準備のできていない人の誰にでも適用できます。(ローマ5:12;1コリント15:26;へブル9:27)死は終わりです。そのあとは、どんなに多くの祈りでも、生前に拒んだ救いを得させることはできないのです。

それでは、一体どういう理由で葬式を行うのでしょうか。「それでは、彼らに地上にいる人の祈りに、何の必要があるのでしょう?」こちらが聞きたいぐらいです。少しでも神にコマンドを送って、個人の冥福に寄与したいから、という気持ちの現れが、葬式を行う、という行為にあらわれているからなのではないのでしょうか。

 

日本キリスト改革派いずみ教会、のサイトの、「葬儀についての心構え(クリスチャン向け)」というページから少し引用してみましょう。

キリスト教葬儀の目的は、神への礼拝、遺体の葬り、地上に残る者への慰めです。

従って、死者のための祈り、供物、また死者への語りかけなど、異教的風習を排除する事が大切です。

(中略)

このように、主にあって死ぬ者の慰めと幸福を思うとき、残された者がいたずらに嘆き悲しむ理由はもはや無いと言うべきであります。

嘆き悲しむ理由が無いのに、なぜ葬式を行うのでしょうか。僕は今まで何回か教会の葬式に参列しましたが、嘆き悲しまない葬式を経験したことは一度もありません。

 

いかがでしょうか。プロテスタントの信徒が、全員Gotquestions.org ミニストリーの記述通りに死後を理解しているのであれば、とっくの昔に葬式は廃止されているはずなのではないでしょうか。人が死ねば、行政手続きを済ませ、遺体は焼却して灰や骨は斎場に頼んで捨ててもらうか、細かく砕いて海にでも散骨すればいいだけの話です。

なぜ泣きながら教会で葬式を行って、骨は後生大事にお墓へ収めるのでしょうか。その理由は結局、人間誰でも、たとえプロテスタントのクリスチャンといえども、実際には迷信に振り回されて生きているから、ということでしょう。それから、見栄です。誰一人として理屈だけに従順にはなれません。たとえ神であっても世間体には勝てないわけです(笑)。