過去の記事、
christian-unabridged-dict.hatenablog.com
などでは、「三位一体」が必ずしもキリスト教のオリジナルではないのだ、ということを説明したのですが、日本の神話にも三位一体を彷彿とさせる物語があります。
まずは、『別天津神(ことあまつかみ)』という天地開闢のときに現れた五柱の神々のうち、『造化三神』と呼ばれる三柱の神々、
次に思い起こすのは、イザナギから生まれた『三貴子』と呼ばれる神々
これらの神々は、ただ三柱で一組のように扱われている、ということばかりではなく、キリスト教の三位一体との類似性を認めることができます。
造化三神の場合は、タカミムスビとカミムスビについての業績はいくつか説明されているのですが、天之御中主神については、全く何の説明もありません。ただその名前が出現するだけです。
三貴子の場合も同様に、ツクヨミについての記述は何もありません。名前が現れるだけなのです。
これは、キリスト教において『聖霊』の業績が語られていないことと似ていると思います。
神が二体でも四体でもなく、三体に落ち着くのは、人間が感じるバランスなのでしょう。二体では、善と悪、ということになってしまって質感が損なわれますし、四体ではごちゃごちゃして落ち着きがなくなる。三体がちょうど良いのですが、三体ともに別の個性を与えてしまうと、神秘性が希薄になってしまいますので、内一体には何も語らせず、何も行わせずに、『秘密』というハッタリを含ませることによって、宗教的な価値を高めようとしているわけです。
世界中同じことを考えるのですね。びっくりしてしまいます。
「聖霊さま」などと言いながら、泡を吹いて倒れる系統の教会をご存知だと思いますが、もし福音書に聖霊が現れて福音を語っていたら、あの系統は存在しなかったでしょうね(笑)。