キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

体の中の光

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小知识:到底什么是碧玉猫眼? - 文集 - 藏玉网-专注传统和田玉

 

マタイの福音書を読んでみましょう。

マタイの福音書 6:22-23

目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。

直感的でない、というか、 一体何を言いたいのかよくわかりませんよね。

エス様当時のイスラエル辺りでは、生物の体の中には光の塊があって、ものを見るときには、眼からその光が出て対象を照らし、その反射を感じることによって、視覚が生じるのだ、というように考えられていたようです。

ギリシャ語を理解することができないので残念ですが、おそらくこのような箇所はギリシャ語原文を読んで理解することができれば、本来の意味を良く理解できるのでは無いかと思います。

そして、今回の記事で言いたいのは、その次の箇所です。

マタイの福音書 6:24

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

 前回記事で引用したルカの福音書にもよく似た表現が出てきましたが、これは、マタイの福音書19章に現れる資産家の青年に対する提言と同じことです。

重要なことは、どちらの箇所においても、イエス様は「今すぐ財産を捨て去って、神だけに仕える人生を選択しなさい」とは言っていない、ということです。そういう考え方もあるから、もし、実践したいのならやってみなさい、と言っているのです。

別に、財産や名誉にこだわって生きることが悪いわけではない。ただし、神に仕えて神の国を実現しようとするのであれば、まずすべての持ち物を捨ててからにせざるを得ませんよ、と指導しているわけです。

「教会」という組織そのものが「富」であることに気づくべきでしょう。欲得まみれの団体に所属しながら、イエス様の勧めに従うことはできません。「キリスト教徒である」という自覚さえ、眼の光を曇らせるマンモンの一部でしかありません。

神はオレオレ詐欺被害者を罰するか

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“Buying the Needy for a Pair of Sandals” (Homily for September 18) | Church of the Holy Trinity

ルカ福音書に「不正な管理人のたとえばなし」という説話があります。長くなりますが引用してみましょう。

ルカ福音書 16:1-13

「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」

最期まで諦めずに、力を尽くして最善の道を探りなさい、とか、神の恵みを有効に利用する知恵を働かせなさい、とかいうような教訓が含まれていますが、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。」という表現は面白いですね。この金持ちの主人は、自分の富が不正によって成されたものであることを、自ら認めているのです。全く不正なことをしないのであれば金持ちにはなれない。これが真理なのです。

話は変わりますが、「オレオレ詐欺」、最近深刻な問題となっていますね。その手口、中には色々あるのでしょうが、たとえば、このたとえ話のように、会社の金を使い込んでしまって、バレたら大変だから助けてくれ、という場合、それは大変、ということになって、実際に大金を渡してしまった、としましょう。

悪いのは詐欺犯であって、騙し取られた方はあくまで被害者です。お気の毒だと思います。ですが、仮に詐欺ではなくて本当の話だった場合、それは大変、と言って金を渡すのは正しいことでしょうか。違法行為にはならないでしょうか。仮に露見せずに上手く収まったとしても、もし神がいるのであればすべてお見通しだということになるでしょう。

神は、オレオレ詐欺被害者を笑って許すでしょうか、あるいは罰するのでしょうか。

LGBTとキリスト教

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news.yahoo.co.jp

 

また自民党議員が余計なことを言って叩かれていますね。自民党の議員は、なぜ言わないほうがよさそうなことを言ってしまうのでしょうね(笑)。

livedoorニュースの次の記事

blogos.com

によれば、杉田氏は、「LGBTの背景にあるのは左翼思想」であると考えているのであって、彼がLGBTを叩くのは、結局、保守思想のなせる業だと言えるのではないか、とあります。

まあ、いずれにせよ、叡智がつくされているかどうかと言えば、ちょっとそうとは考えにくい、というところでしょうね。

過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

などでは、冷静に聖書を紐解けば、キリスト教の神が同性愛を禁じたり、忌み嫌ったりしているとは考えにくいだろう、ということの説明をしたのですが、今回の自民党議員の発言中にある「LGBTは『生産性』がない」についてはどうでしょうか。議員の発言としてふさわしいかどうか、などの問題を度外視すれば、「LGBTは『生産性』がない」は「真実」です。彼らからは生命が生産されません。聖書を見てみましょう。

創世記 1:27-28

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 

聖書の神は、人間の男と女が愛し合い、子を成して地上を潤すことを希望しています。同性愛や性的な障害は禁止したり刑罰の対象であったりすることは無いでしょうが、この記述を見る限り、秩序に反するところであり、神の希望からは遠ざかる所以であると理解せざるを得ないでしょう。

 

古事記と三位一体

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過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

などでは、「三位一体」が必ずしもキリスト教のオリジナルではないのだ、ということを説明したのですが、日本の神話にも三位一体を彷彿とさせる物語があります。

まずは、『別天津神(ことあまつかみ)』という天地開闢のときに現れた五柱の神々のうち、『造化三神』と呼ばれる三柱の神々、

次に思い起こすのは、イザナギから生まれた『三貴子』と呼ばれる神々

 

これらの神々は、ただ三柱で一組のように扱われている、ということばかりではなく、キリスト教の三位一体との類似性を認めることができます。

造化三神の場合は、タカミムスビカミムスビについての業績はいくつか説明されているのですが、天之御中主神については、全く何の説明もありません。ただその名前が出現するだけです。

三貴子の場合も同様に、ツクヨミについての記述は何もありません。名前が現れるだけなのです。

これは、キリスト教において『聖霊』の業績が語られていないことと似ていると思います。

神が二体でも四体でもなく、三体に落ち着くのは、人間が感じるバランスなのでしょう。二体では、善と悪、ということになってしまって質感が損なわれますし、四体ではごちゃごちゃして落ち着きがなくなる。三体がちょうど良いのですが、三体ともに別の個性を与えてしまうと、神秘性が希薄になってしまいますので、内一体には何も語らせず、何も行わせずに、『秘密』というハッタリを含ませることによって、宗教的な価値を高めようとしているわけです。

世界中同じことを考えるのですね。びっくりしてしまいます。

聖霊さま」などと言いながら、泡を吹いて倒れる系統の教会をご存知だと思いますが、もし福音書聖霊が現れて福音を語っていたら、あの系統は存在しなかったでしょうね(笑)。

なぜイースト菌が「罪」の象徴なのか

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ja.wikipedia.org

 

キリスト教聖餐式で用いられるパンには二種類あります。一つは聖書で「パン種」と呼ばれているイースト菌(実際にはイースト菌とは限りませんが)を使わないで作った「種無しパン」、もう一つはイースト菌を用いて作った、「普通のパン」です。

正教会では「普通のパン」が使われますが、カトリックプロテスタントでは「種無しパン」が用いられます。カトリックは種無しパンを用いる決まりがありますが、プロテスタント教会にはカトリックほどの厳格な決まりがありませんので、食パンやロールパンを使う教会もあるようです。

この違いは、福音書の「最期の晩餐」が、「除酵祭」期間中の食事であったのか、「過ぎ越し祭」の食事であったのか、の解釈の違いにより生じているようです。

ところで、福音書などでは、パン種が「罪の象徴」として扱われる場合が結構あります。たとえば、マタイ伝福音書 16:11には、

わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。

とあります。「パン種」が、「謀略」や「悪い計画」のようなことを示す、聖書における隠語、符牒、のようなものであることがわかります。

では、その根拠となった出エジプト記の該当箇所を見てみましょう。

出エジプト記 13:6-7

七日のあいだ種入れぬパンを食べ、七日目には主に祭をしなければならない。種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない。

この箇所もそうですが、聖書には、ある行動を禁じるが、その理由が明確に述べられていない、という事柄がたくさんあります。パン種を置くことさえ禁じるところの理由は何なのでしょうか。例えば、

種を入れないパンの祭りの意味 - 牧師の書斎

というサイトでは、つぎのように説明されています。

なぜ、イスラエルの民たちは「パン種」の入らないパンを食べなければならないのでしょうか。それは、聖書においては、「パン種」は常に「罪の象徴」だからです。ヘブル語で「パン種」のことを「ホーメツ」(חֹמֶץ)と言いますが、その語彙には「酸っぱい」「苦い」という意味があります。私たちを「酸っぱく」し、「苦い」者としてしまうのが罪の性質です。逆に、「マッツァー」、すなわち「種の入らないパン」は「酸味のない甘いパン」という意味になり、罪のない生活の喜びや健全さを象徴しているのです。つまり、過越の祭りを通して、イスラエルの民が神によってエジプトから贖い出されたのは、傷もなく汚れもない小羊の血によったのであるということを確認した後に、罪から離れて神の民としてふさわしく生きるための方向づけとして、七日間にわたる「種の入らないパンの祭り」が制定されたということです。「パン種」はわずかの量でもパン全体に大きな影響を与えます。「七日間」というのは、「完全に」という意味が込められています。

この文章からは、『聖書においては、「パン種」は常に「罪の象徴」だからです。』が答えのようにも読めるのですが、結局、「パン種」が「罪の象徴」であるところの理由はわからないままです。

私の個人的な考えですが、パン種を使わないで作ったパンのほうが、使って作ったパンより酸味がなくて甘く出来上がるのであれば、世の中にパン種なるものが存在する必要がないのではないかとおもいます。わざわざ手数を費やして、美味しくない状態にするというのはおかしな話です。パン屋で売っているパンもほとんどはパン種で膨らませて作ったパンだと思います。酸っぱいとか苦いというのは、パン種を使って出来上がったパンのことではなくて、パン種そのものをそれだけで口にすると、ということではないかと思います。

さて、いつまでも引っ張らないで、その理由を説明しましょう。上で写真を引用したWikiマッツァー(種なしパン)の説明文中に答えがあります。引用しましょう。

トーラーの出エジプト記によれば、イスラエル人がエジプトから脱出するとき、パンを発酵させ膨らませる時間がなかったため、マッツァーができた。

ということなのです。 

つまり、「出エジプト」を成功させるためには、イスラエル全体が充分な緊張をもって状況を把握し、必要を感じたらすぐさま行動できるように準備していなければならないよ、ということだったわけです。

そのためには、パン種で粉を発酵させるような余裕は無いはずでしょ、ということですね。美味しくなくとも、腹持ちが悪くても、発酵過程を省略して非常の備えをしなさい、という意味が含まれているわけです。そんなことで一家族がもたついたのでは、出エジプト計画そのものが頓挫し、イスラエル民族は永遠にエジプトに閉じ込められてしまうことになってしまうかもしれません。

そのような前提に立てば、パン種を用いることは、空気読めてない、非常時の贅沢、出エジプトの成功を妨げる国賊、ということになり、犯罪の象徴となったことの理由を納得することができます。

こういう理由があって、パン種が罪の象徴になったわけです。聖書の記述には、不思議な、意味の通らないような暗喩や呪文のようなものがあるように思えても、じっくりと解析を重ねれば、納得できる理由が現れてきます。

キリスト教徒は差別主義者

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旧ブログでも記事として書いたことなのですが、旧ブログでは、あるプロテスタント教会での出来事、として書きましたが、既にその問題発言をした当人も亡くなっていることでしょうから、この際、できるだけ事実通りに書かせていただこうと思います。

大学生のころ、僕はまだキリスト教徒として生活していました。いろいろな教会のイベントや活動などにも参加して、同年代のクリスチャンの知り合いもたくさんいたのです。

そんな中で、ある正教徒の友人がいたのですが、彼が、学校で知り合いになった黒人の友人を教会へ連れていったとき、教会の神父が、

「もう二度と連れてきてはいけない」

と彼に言ったのだそうです。

理由は、もし、その黒人男性が教会を気に入って、洗礼を受けたい、と言い出した場合、教会としては拒否することはできない。そんなことになったら、同じ聖杯から領聖(聖餐)することになってしまう。そうなると他の信者の迷惑になる、ということなのだそうです。

正教会聖餐式は、ぶどう酒の入った金属製の大きな杯に細かく割ったパンを浸し、一つづつスプーンですくい上げて、信者の口に入れる、という方式ですので、正直なところあまり清潔とは言えません。それに、どこの馬の骨とも知れない黒人が加わったら迷惑になるだろう、とその神父は考えたわけです。

さすがにちょっと気が引けますので伏せ字にしますが、神父はさらに、

「◯◯人とか◯◯◯◯◯の人とかも連れてきちゃいけないよ」

と言ったのだそうです。

僕はその話を聞いて、心底びっくりしました。でも、実際そんなものなんでしょうね。そういう僕だって、まるきり差別意識が無いのか、と言えばそれは言い切れません。「ああ、やっぱりな」などと考えてしまうこともあります。しかし、聖職者がそんなこと、とも思いますよね。果たしてどうなんでしょうか。

その友人、彼も幼児洗礼ですが、「教会は悪いところ」ということになってしまったようです。でも、考えようによっては、キリスト教の教理が差別そのものですよね。神父はキリスト教的には正しかったのかもしれません。

民族と宗教

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オーストリア人の神職だそうです。珍しいですね。國學院神道を学んで神職になった、とありますから、神道世界のキャリア、とでも言うべき、いわばエリートですね。しかし、いかに日本が好き、といえども、外国人に日本の神職が務まるものでしょうか。

寝ても覚めてもつまらない迷信に振り回されながら暮らしし、大戸には注連縄、大神棚を始め、仏間には仏壇、不浄には烏枢沙摩明王、久度(竈)には愛宕神社の札があり、季節季節にはうぶすなの祭りがあり、冠婚葬祭を報告する。そのような神との関わりがあってこそ、初めて神職足り得るのではないのか、と思われたのではないでしょうか。

 

同様のことをもっと強く感じるのはキリスト教徒のようですよ。米国人の知人が日本観光に来られたとき、カトリック信者だということでしたので、日本風建築で有名な、ある教会へご案内したのですが、

「きれいな建築で、珍しいミサを見ることができて、とても良かったが、日本人の神父に告解したり、日本人の神父から聖体を拝領しようとは思わない。」

と言っていました。日本人のキリスト教徒は、まるでカルト信者のようだ、とも、ミサが終わったのに、若い人がいつまでも教会から立ち去らないのが不思議、とも言っていました。

日本には日本の文化があるのに、どういう理由でキリスト教にハマってしまうのか、がわからない、のだそうです。

宗教は文化の一端でしかない。本場のキリスト教徒はそのことをよく理解できているのです。

 

日本人は、金髪の神職をみても、彼からは祓えを受けたくない、とか、御籤を受けたくない、とかは、おそらく思わないでしょう。そもそも日本の神は、入会儀礼前の人はお断り、とか、教派が違う人はダメ、なんてことはいいません。どの国の民族であれ、子供でもオトナでも、穏やかな心で、安寧な一日を過ごせるように、と願う人を拒否しない存在です。