キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

キリスト教は人間に必要か

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Got Questions Ministries. という団体のサイトに、

なぜ神は、地震、ハリケーン、津波などの自然災害が起こるのを許されるのですか?

というページがあります。答えとして、最初、

神は、宇宙全体を創造し、自然の法則を定められました(創世記1:1)。ほとんどの自然災害は、これらの法則が働いていることの結果です。ハリケーン、台風、竜巻は、様々な天候のパターンが衝突することの結果起こります。地震は、地殻の組成がずれることによって起こります。津波は海底地震が原因です。 

 と述べているのですが、次には、

人類が罪に陥ったことは、私たちが住んでいるこの世界をも含め、すべてのものに影響を及ぼしました。被造物のすべてが「挫折感」と「衰退」の影響を受けています。死と病気と苦しみの原因がそうであるように、自然災害の究極的な原因は罪なのです。

と言っています。自然災害は、神の定めた法則に従って、機械的に発生しているに過ぎないのか、人間が神に逆らって罪を犯すから、法則には無関係に神がわざと起こしているのか、どちらなのでしょうか。

過去の記事、

では、ヴェスヴィオ火山噴火は、麓の同性愛者を懲らしめるための神の罰だった、と考えている人がいることをご紹介しましたが、今回の記事からも、キリスト教徒は、『神は自然災害を利用して犯罪者を処刑している』、と考えていることがわかります。

そうならば、イエス様は何のためにこの世に来られたのでしょうか。教会の理屈で言えば、全人類を、原罪を含むすべての死の軛から解放するために、人の世に生まれ、人の手によって死んで、復活した、つまり、そうであることを誰にでもわかるように証明した、ということであるはずです。その理屈通りであるのであれば、罪が原因で発生する自然災害は、今はもう発生しない、ということになるはずですよね。

宗教なんてそんなもんさ、目くじら立てなさんな、とおっしゃる向きには何も言いませんが、「神の業が人間ごときに正しく分析できるはずがない」と真剣に考えてているあなた、それなら「キリスト教」が存在する必要はありませんよね(笑)。

ガダラ人の地

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Gadarene Demonic Archives - Orthodox Church Quotes

マタイ伝 8:28-34 には

それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。

 とあります。また、マタイ伝 21:18-22 には、

朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。

とあります。これらの記述は、おそらく事実を抽象化しているのでしょう。豚もいちじくも、イエス様を批判する勢力で、おそらくは国家権力のようなものであったのではないでしょうか。

「世の中すべてが俺を否定している」、そのような妄想に苛まれ、

世の中なんてぶっ壊れてしまえばいいんだ、

そう考えたイエス様は、弟子をコントロールして、毒を撒き、多くの人を殺戮したわけです。それで、「早く出ていけ」と言われたのでしょうね。やがてアジトに隠れていたところを引きずり出されて捕縛され、死刑になってしまいます。

しかし、彼を支持する弟子たちは、どうにかしてその過激思想を温存しようと目論んで、悪行であっても抽象化、美化して後世にまで伝えようとしたのでしょう。これこそ「洗脳」がなせる業です。

おわかりでしょうか。どんな陳腐な凶悪犯であっても、エネルギーさえあれば神に祭り上げてしまうことが可能なのです。300年ほども経てばテロリストが神になる。これが宗教の正体です。

インド正教会の司祭が女性信徒をレイプ

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インドといえば、使徒トマスが自ら宣教した、ということになっていて、いわば筋金入りのキリスト教国でもあるわけです。

インドにおける非カルケドン派 - Wikipedia

によれば、インドにはシリア正教会の庇護下にある非カルケドン派があって、この報道が言う「正教会」はいわゆる正統教理の正教会では無いのかもしれません。

しかし、キリスト教キリスト教です。むしろ、非カルケドン派の教会でもそんなことが起こるの? という意外性を感じてしまいます。

記事を引用しておきましょう。

【7月3日 AFP】インド警察は3日、1人の女性に対しおよそ20年間にわたってレイプと脅迫を繰り返した疑いで、キリスト教の司祭4人の取り調べを行っていると発表した。

 氏名非公表のこの女性が警察に明かしたところによると、南部ケララ(Kerala)州の正教会の司祭1人に初めて性交を強要されたのは、女性がまだ未成年だった1990年代だという。

 これを別の司祭に告解したところ、今度はその司祭に脅され、性交渉を求められた。その後さらに2人の司祭がやはり同じ女性を脅迫し、性行為に及んだという。


 報道によれば、女性の夫が教会関係者に抗議する録音がソーシャルメディア上で広まり、被害がようやくようやく明るみに出たという。

 世界各地同様、インドのキリスト教界も性的虐待容疑に揺れている。昨年には同国東部の牧師が、悪魔払いの名目で女性2人をレイプした容疑で逮捕された。また2016年にも、12歳の少女をレイプした聖職者に対し、禁錮40年の有罪判決が言い渡されている。(c)AFP

 

「アーメン」の正しい使い方

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聖典​中​の​場所​の​写真​ ゲリジム山​と​エバル山​

 

過去の記事

で、「不思議なキリスト教」という著作を叩く、日本ハリストス正教会の神父が運営しているブログがあることを紹介しましたが、今回は

大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」

 という記述に対する、神父の感想を見てみましょう。

神父の意見としては、

まず単純に過ぎる。少なくとも「かくあらんことを(そうありますように)」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」となるのである)
「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。
なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。

とあります。

さあ、「アーメン」を説明するぞ、揚げ足取ってやるぞ、という意気込みは素晴らしいのですが、残念ながらどちらのご意見も今ひとつです。聖書を読んでみましょう。

申命記 27:9-26

またモーセとレビびとたる祭司たちとは、イスラエルのすべての人々に言った、「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」。
その日またモーセは民に命じて言った、「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。

これを読むと、「アーメン」は、強制的に言わされる「合意宣誓文言」であったことがわかります。しかも「同意しなければ罰則がありますよ」という意味合いを含んでいることが明白です。これが「アーメン」の本来の意味であるわけです。

誓約書に署名捺印するかのような、従順の姿勢を表白するための「呪文」のようなものであったのだ、ということなのです。宗教的ではなくて実務的な符牒です。

「お前、今「アーメン」と言ったよな、俺は聞いたぞ。神も聞いてるぞ。もう取り消せないからな。いいな。」ということですね。

橋爪氏は

「「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」 

と言っているようですが、正解ではないとしても、まだ近いかも知れません。日本ハリストス正教会の神父は「八木谷涼子」という人の著作を例に挙げて反論しているようですが、どういう根拠でそれが正しいと思ったのでしょうか。「不思議な神父」ですよね(笑)。

 

同仁キリスト教会について

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同仁キリスト教会

 

過去記事

 

で、最も危険度の低い(安全という意味ではありません)教会はユニテリアンだろう、と結論付けて、しかし残念ながら日本にはありません、と締めくくったのですが、日本には「同仁教会」がある、とご指摘いただきましたので、ご紹介させていただくことにしました。

幸い、教会のサイト があるようですので、ご覧いただければ一番よろしいでしょう。

同サイトの説明によれば、

1890年、アメリカ、ユニテリアン・ユニバーサリスト教会からベリン牧師他2名の宣教師団が来日し、クリスマスに九段下飯田町に教会堂建設。

とあり、既に100 年以上の歴史があるようです。また、戦時、一時的に日本キリスト教団に合併されたようですが、戦後再び独立した、という経緯があるようです。

ユニテリアン・ユニヴァーサリズム - Wikipedia によれば、

多くのUU教徒は自身のことをヒューマニストであるとしている。他のUU教徒はキリスト教、仏教、ユダヤ教や自然崇拝、無神論、不可知論、博愛主義等をUUと同時に信仰している。中には教義の名前を特に使用せず様々な信仰を組み合わせている信者もいる。このような多様性はUU教徒から運動の利点と考えられていると同時に、各自比較的統一された教義と習慣を持つ(カトリックプロテスタントユダヤ教大乗仏教等)各宗教団体の中には教義を持たないUUを支持しない所も多い。UUは個人が自己や社会、自然との繋がりの中で各自意味を追求することを重要視し決められたドグマを持たないからであるとされている。

とあります。

実際行って確認していませんのでなんともいえませんが、同教会のサイトを見ますと、教会の外観にも、講壇上にも十字架が掲げられていますし、牧師はガウンを着用していますし、組織名称が「キリスト教会」であることなどからも、Wikiが説明するユニテリアン・ユニバーサリズムのイメージよりは、普通のプロテスタント教会に近いように感じます。

また、

礼拝は神を称える賛美歌を歌い、祈り、牧師は聖書を通して示される神の御心を伝えます。静かに自分の心に目を向け、神と対話する時間を大切にしています。キリスト者にとって信仰生活の中心になるものです。

というような説明をみますと、ユニテリアン・ユニバーサリスト、というよりは、リベラルなプロテスタント教会、と考えたほうがよさそうです。

興味がある方は、一度見学してみてもいいかもしれません。

「この杯」とは何か

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Gethsemane

 

マタイの福音書 26:39

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

 マタイの福音書 26:42

また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。

「この杯」とは何のことでしょうか。たとえば

「この杯」が意味するもの - 牧師の書斎 というサイトでは、

エスと弟子たちが過越の食事をしたことが、同じ章の14節から記されています。ちなみに、ルカ22章には4回、「杯」と訳される「ポテーリオン」ποτηρίονが出てきます(17節、20節、20節、42節)。すべて同じ言葉です。マタイの福音書20章22節では「わたしが飲もうとしている杯」があることを述べています。ヨハネ福音書18章11節では、その杯は「父がわたしに下さった杯」と表現されています。それはイエスにとってはどうしても飲まなければならない「杯」でした。ここでいう「杯」というのは、「杯」という器そのものではなく、杯の中身が重要なのです。そこで、ユダヤ的(へブル的)視点から理解するならば、「この杯」とは、「過越の食事」で飲まれる「第四の杯」を意味しているのではないかと考えられます。「第四の杯」とは、過越の食事の「完了の杯」でもあり、同時に「賛美の杯」ともなるものです。

ゲッセマネでの祈りにおいて、イエスはこの第四の杯、すなわち、神の小羊であるキリストによって結ばれる新しい契約が成立するためには、完了を意味する「第四の杯」を飲み干さなければなりませんでした。しかしそれは壮絶な苦しみを味わわなければならない杯であり、ゲッセマネの祈りにおいて、イエスはその苦しみのゆえに躊躇しています。とても飲み干せるような杯ではなかったのです。それゆえに、御使いたちが天からイエスに現われて、イエスを「力づけた」とあります(22:43)。

それでもイエスは「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。しかしその祈りが突き抜けたことによって、イエスは「立ち上がり」ました。この「立ち上がる」という動詞は「ア二ステーミ」
άνίστημιで、いわば、復活用語です。まさにイエスは祈りにおいて、すでに勝利し、以後、敢然とひるむことなく、捕縛され、受難の道を進まれるのです。しかし、最後の最後、すなわち十字架上において、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたことにより、22;42の「この杯」が飲み干されました。つまり、過越の食事の最後の杯である「完了の杯」を飲み干されたのです。この杯を飲み干したのはイエスただひとりでした。

なんとなくわかったような気がしなくもないが、何一つ意味をなす説明がなされていないかのようでもあり、まあ、宗教の説教なんて言うものはこの程度のものなのでしょう。

福音書のこの箇所は、いわば「シャレ」なのです。特に深い意味はありません。福音書が著された当時、ローマ帝国周辺では「ディオニュソス教」という宗教が流行していました。ローマ神話から独立した新興宗教で、ゾロアスター教やミトラス教などと競争関係にあったはずです。 

でも取り上げているのですが、ディオニュソスは、巨人や信者の女に八つ裂きにされて食べられてしまいますが、福音書は、当時のメジャー宗教であったディオニュソス教を意識しながら書かれているのです。

つまり、「杯」は民衆の要求を、杯に注がれるワインはイエス様の命を象徴しています。「この杯を遠ざけてください」という発言を読んだ民衆は、「なるほど、ディオニュソスの死を彷彿とさせるな」と感じたでしょう。宗教の説話は宗教としてのセオリーを踏んで、宗教としての雰囲気を身に帯びていなければならなかったということです。だから、

「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」

と発言させて、民衆が敵であるとは考えていないよ、とアピールしているわけです。

そういった事情を知らないまま、想像で「杯」 を説明しようとするから、言語学者が動詞の変化を説明しているかのような奇体な文章になってしまうのではないでしょうかね。

キリスト教のライバル宗教を殲滅してしまった結果、福音書が何を言っているのかわからなくなってしまった、ということです。

バアルと悪魔

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バアル - Wikipedia より、「シリアのパルミラにあるバアルの神殿(ベル神殿)」

 

マタイ伝 12:22-28 を読んでみましょう

そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

 

エス様が「ベルゼブル」を悪魔だと言っている。それ見ろ、悪魔はやっぱりいるんじゃないか。福音書でイエス様がそう言っているんだから、と思われたでしょうか。

 

 まあ、ちょっと待ってください。それでは「ベルゼブル」について調べてみましょう。

 

ベルゼブブ - Wikipedia では、

本来はバアル・ゼブル (בַעַל זְבוּל [Ba‘al zəḇûl])、すなわち「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名で呼ばれていた。これはおそらく嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つだったと思われる。 パルミュラの神殿遺跡でも高名なこの神は、冬に恵みの雨を降らせる豊穣の神であった。一説によると、バアルの崇拝者は当時オリエント世界で広く行われていた、豊穣を祈る性的な儀式を行ったとも言われる。

しかし、イスラエル(カナン)の地に入植してきたヘブライ人たちは、こうしたペリシテ人の儀式を嫌ってバアル・ゼブルを邪教神とし、やがてこの異教の最高神を語呂の似たバアル・ゼブブすなわち「ハエの王」と呼んで蔑んだという。これが聖書に記されたために、この名で広く知られるようになった。

バアル - Wikipedia では、

バアル(聖書ヘブライ語(英語版): בַּעַל ba‘al、ウガリット語: b‘l)は、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」[1]、または「主人」「地主」を意味する。バールや、バビロニア式発音のベール、およびベルとも表記される。 

とあって、ベルゼブルが「気高い主」という意味で、 イスラエルの周辺国の民族宗教の神の名前であったことがわかります。

そのころは、どこの国でも神を「主」と呼んでいたことがわかりますね。ヘブライ語ではアドナイ、ギリシャ語ではキュリオス、ラテン語ではドミネ、となるようです。

例えば、日本の神話におけるアマテラスをライバル視し、悪魔だと想定して、「悪魔」という代わりに「アマテラス」と表現することによって神社を蔑視している、と言い換えればわかりやすいでしょう。その場合、言っているひとは、アマテラスが実在すると考えているでしょうか。そうは考えていないですよね。

福音書のこの表現、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」からは、パリサイ人が「ベルゼブルは実在する悪霊のかしら」だと考えていたのか、比喩としての発言に過ぎなかったのかはわかりませんが、現代のクリスチャンの発言を見ていますと、どうやら、神社仏閣には本当に魔物が住んでいる、と考えている人がいるような気がしてなりません(笑)。

無原罪の聖母の画像を見てください。

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足元の蛇は邪悪の象徴だと納得するとしても、月は何でしょうか。純血の象徴だとか、

黙示録12:1

また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。 

の意味だとか、いろいろな説明があるようですが、実際には、これは「イスラーム」を象徴しています。表(ネット)には出てきませんが、お釈迦様が踏みつけられているバージョンのものも探せば結構あるのだとか。

エス様は、「おまえ馬鹿じゃないの、落ち着いて考えてみろよ」、という意味で「ベルゼブル」の名前を出して、つまり、わかりやすいように相手の価値観まで降りていって諭された、と伝えられているわけです。それを、それ見ろ、やっぱいるんじゃないか、ということにしてしまうのはどんなもんなんでしょうかね(笑)。

それにしても絵画程度ならともかく、正典の文中で、他の宗教を名指しで蔑む、なんてのは本物では無い証拠なんじゃないか、と思わざるを得ないですね。