キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

細川ガラシャ

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細川ガラシャ」といえば、明智光秀の娘で細川忠興正室本能寺の変で父親がやらかしてしまったもんで立場がヤバくなり、キリスト教にかぶれて洗礼も受けちゃったんだけど、夫の留守中に屋敷を石田三成に取り囲まれてテンパっちゃって、死のうと思ったんだけどキリスト教は自殺ご法度なので、家老の小笠原秀清に頼んで殺してもらった、ってことになっています。

というサイトの記事には、

 ガラシャの壮絶な「殉教死」を目にしたイエズス会の宣教師が侍女の証言や手紙などをヨーロッパに伝え、その資料をもとに、ガラシャをモデルにした音楽劇「勇敢な婦人」が1698年作られました。

 イエズス会司教が脚本を書き、売れっ子作曲家シュタウトが作曲。初演は、マリーアントワネットの実家であるウィーン・ハプスブルク家の宮殿内ホール、しかも当時の皇帝・レオポルド1世の王妃の記念祝いに演奏されたそうです。信仰に生きたガラシャの生き様が賞賛されたといわれています。

という説明があります。「殉教死」とありますが、これ、「殉教」ということになりますか? なんでも言ったもん勝ちなんでしょうかね(笑)。

次の写真は、大阪の玉造カトリック教会の敷地に安置されている細川ガラシャの像です。

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細川ガラシャの悲しい生涯を知って頂きたい(明智珠、明智玉) -戦国武将1000記事

 

「壮絶な」 といえばそう言えなくもないのかも知れませんが、当時の武士の妻としては、それぐらいのこと当たり前だ、とも言えるのではないかと思います。

それに、実行したのは自分でなくても、そう指示したのは自分自身なのですから、その死は「自殺」であったわけです。神がいるのであれば、そこを見逃さないでしょう。加えて、家老の小笠原秀清には殺人罪を犯すよう強要しています。キリスト教徒でなければどうせ天国には行けないのだから、重罪を犯そうと犯そうまいと関係ないだろう、ということなのでしょうか。キリスト教思想に染まると、冷酷で機械的な考え方になってしまう、ということがよくわかるエピソードだと思います。

しかし、キリスト教的に言うのであれば、殺人および殺人教唆の実行犯だということになり、この女が犯した罪は軽くない、とみるべきです。

にもかかわらず、実際には「信仰に生きたガラシャの生き様が賞賛された」と高く評価されているわけです。

キリスト教思想が、いかにいい加減で幼稚なものであるかがおわかりいただけるでしょう。

教会とハラスメント

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「引退牧師の娘日記」というブログがあります。

その中の、「牧師家庭の苦しみ」という記事をご紹介しましょう。

私が育った教会は、牧師である父の前任牧師が自死したとされる教会です。牧師を「自死」に至らしめた教会の問題が放置されたまま、「牧師の自死」という「あってはならないこと」を時間によって有耶無耶にするため教会が存続することになりました。そのため、牧師家庭への人権侵害は凄まじいものがありました。

精神的にだけでなく、経済的にも追い詰められました。酷いときは、父の、牧師としての年収がわずか四十万円程でした。

人権侵害の一部を以下に紹介します。

·献金をやめてみて、牧師家庭が苦しむのを見て教会員が楽しむ。(人として最低です)

·生活保護を受けながら牧師を続けるよう要求される。(拒否)

·牧師の娘である私には、社会的弱者との結婚が求められる。
(私の結婚は教会員が決めることではないので拒否)

·クリスマスイブに、私が死んだときの生命保険金を教会員が受けとりたいと言い出す
(保険金殺人じゃあるまいし拒否、牧師の子の命はこういう扱いを受けます!)

·牧師を脅すときは、牧師の娘(私)を脅すことで目的を果たそうとする
(小学生のとき首を絞める真似をされたり、暴力団を連れてきて脅されたり)

·カエルの子はカエルだ。高卒の親(父)の子(私)は高卒でなければならないため、ミッションスクールから閉め出されます。
(私はキリスト教界への反発もあり、最終学歴は国立大学大学院修士課程修了です。)

もしかしたら、それはカルト団体の話だと思われる方がいるかもしれませんが、カルトではない(カルトと疑いをかけられることもない)プロテスタント教会の話です。

こんな状況でも、私はグレることはありませんでしたが、大学進学を機にキリスト教界から離れることになります。教界の外を生きていた方が安全で幸せだったからです。

しかし、私の思いはガンジーのそれと同じ「イエス·キリストは好きだがクリスチャンは嫌い」です。今は求道者として、自分を受け入れてくれる教会を探しています。

え、これ、本当のことなの? って思ってしまいます。

特に「献金をやめてみて、牧師家庭が苦しむのを見て教会員が楽しむ。」なんて、会員の大多数が牧師に悪意をもっていた、ということになると思いますが、本当にそうなんでしょうか。

生活保護を受けながら牧師を続けるよう要求される。」とありますが、牧師が生活保護を受けるなんていうことは、所属教団に対してとても恥ずかしいことだと思うのですがどうなのでしょうか。

少なくとも、僕の所属していた教会では考えられないことです。牧師招聘ということは、頭をたれて弊教会へ来ていただく、ということですから、そもそもそんな扱いをするはずがないわけです。プロテスタントの教団といっても様々ある、ということなのでしょうか。

このブロガーの方は、「今は求道者として、自分を受け入れてくれる教会を探しています。」と仰っていますが、「自分が受け入れることができる」教会を探されるべきでしょうね。というより、キリスト教はご自分にとって必要なのかどうか、からお考えになってはいかがでしょうか。

 

別の記事「牧師を軽蔑するようになったきっかけ」という記事から、一部引用します。

私が小学校5年生の時に、A教会で牧師会が開かれ、会議の後、牧師たちの食事会が開かれました。

会議が終わって、牧師たちは、まるで子供がはしゃぐみたいに出てくることを期待している豪華な料理を、手伝うことなく、ただ待っていました。ところが、出てきたのは、質素な精進料理です。ご飯と味噌汁と漬物と母がお情けで作ってあげた煮物。

食事会が終わって、片付けをしているとき、頭にきました。牧師たちが食べ残した料理をほとんど捨てなければなりませんでした。父は、「ひとりだけ、全部食べていった牧師がいる。この席に座っていたのは、J先生だ。」と嬉しそうにしていましたが、全然凄いことなんかじゃない、そんなの当たり前じゃないかと思いました。きっと、父(牧師)のことだから、懇親会の最中に、耳の痛いお説教を沢山して、牧師たちが喉に何も通らない状況を作ったんじゃないかと思いますが、それでも、出された料理は食べて帰るのがマナーだと思います。

お父上を侮辱するつもりではありませんが、この教団、牧師も酷いですね。よその家で出された食事を残すなんて、とてもではありませんが、考えられないことです。中国では、出された料理を平らげてしまうことはマナー違反ですが、これは日本での話です。ご飯と味噌汁と漬物と煮物が並べば立派なごちそうです。出された食事を残さずいただくなんていうことは、牧師だのキリスト教徒だのの前に人間として当たり前にできるべきことであるはずですよね。

牧師たちの間で、A教会は、「禁酒、禁煙のとんでもない教会」として非難されていました。

僕の知る限り、教会は全室禁煙でしたし、牧師でタバコを吸う人は一人もいません。また、教会で酒盛りをすることなんて無いわけですから、教会が禁酒でも別に不自由は無いはずです。

教派によっては随分自由みたいですね。自由っていうか、爛れてますよね。教派というよりは、キリスト教にモラルを求めるほうが間違いなんでしょうけど(笑)。

「クリスチャンホーム」は犯罪の温床

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命と性の日記~日々是命、日々是性」というブログサイトに、

という記事がありました。ある殺傷事件の容疑者がクリスチャンホームに育った地域で評判の優等生だった、ということを書いておられます。

引用しましょう。

今回の件はとても悲しむべきこと残念なことでしょう。しかし、「ありえないこと」「考えられないこと」ではありません。なぜなら、聖書にはそうした事例が山ほどあるからです。

 ヤコブの息子たちは親族殺人未遂者です。祭司エリの息子たちは、犯罪者以上に罪深い、神の冒涜者です。ダビデやソロモンの息子たちは、犯罪、暴力、不道徳のオンパレード状態。そうです。聖書自身が、信仰者家庭から凶悪犯罪者が現れるという事例を幾多となく私たちに示しているではありませんか?

 「熱心な信仰者、敬虔なクリスチャンである両親からどうして?」ではありません。それは、聖書をご存じない方々の感想です。むしろ、聖書はそうした可能性のあることを、とっくの昔に、私たちに教えています。

 聖書には、どうすれば上手に人を殺せるか、また、どうすれば人を上手に騙せるか、など、犯罪を指南している箇所がたくさんあります。

クリスチャンとは、このような犯罪を、「聖書の記述だから」という理由で礼賛するキチガイの集合なのです。クリスチャンホームに育った人間が犯罪者となってしまう程度のことは、当たり前の話でしょう。

 

教皇庁を蝕む15の病

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古い話題で恐縮なのですが、2014年12月22日のワシントン・ポストの記事に、教皇フランシスコが「教皇庁を蝕む15の病」を語った、とあります。

15の病とは

  1. 自分たちが不滅で不可欠だという感覚 「自らを批判し改革できない法王庁は病気だ」
  2. 働き過ぎ 「仕事をしたら休むことが必要」
  3. 心が石のように頑固になること 「泣いている人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ。人間的な繊細さを失うのは危ない」
  4. 計画しすぎること 「計画を変更しない方が楽かもしれないが、神のみ心に従う自由を失ってはいけない」
  5. 調和なく動くこと 「和が乱れれば、雑音が混じる楽団のようになる」
  6. 妄執や誤った考えにとらわれること
  7. 張り合ったり虚飾に走ったりすること
  8. 現実に向き合わないこと 「聖職者の役割を放棄して官僚主義的な仕事に収まり、自分たちだけの別世界を作る」
  9. 陰口を言うこと 「はっきり物の言えない臆病者の病気だ。『陰口というテロ』に警戒を」
  10. 上司の神格化 「出世第一主義と日和見主義の餌食だ」
  11. 他者への無関心
  12. お葬式のような深刻な顔 「伝道者は喜びを伝えなければならない」
  13. 物欲
  14. 閉じられた「内輪」を優先すること
  15. 世俗的な利益を求め、見えを張ること

教皇フランシスコは、バチカンのあり方を変えようとしているのでしょうか、しかし、バチカンを良識に基づく常識的な組織に変革しようとするなら、解体、消滅させる他に方法は無い、と思うのですがいかがでしょうか。

曽野綾子氏の「不在の部屋」という著作がありますが、第二バチカン公会議による現代化がもたらした、教会の陳腐化を描く問題作です。

キリスト教も、発足当初から産業革命のあたりまでは、モダンで洗練された一つの文化として安定していたのかもしれませんが、そろそろ化けの皮が剥がれてきたのでしょう。新しい考えの教皇が現れて、教会の本質である「病気」そのものを批判する時代が到来した、ということなのでしょうか。

宗教とは、怪しげな僧侶が大げさな衣装を着け、わけのわからない呪文を唱えながら理不尽な思想を口走る、そのようなものでなくてはならないのです。

衣装を脱いで、だれにでもわかる口語で親切に説明を始めたら、実はとてもつまらないものだった、ということでしょう。

結局のところ、神様っているの?

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そんなこと言っちゃったらこのブログの結論ってことになるんじゃないの? いいえ。ご心配にはおよびません。やってみましょう。

『結局のところ、神様っているの?』

いません。神様はいないのです。おそらくいないだろう、いないと思うよ、そんなものではありません。100%、確実に存在しません。

なぜそんなことが言えるのだ、そう思ってもそんな風に言い切ることはできないはずだ、と思われたでしょう。

なぜなら、我々の感覚で感じ取ることができないからです。また、人間の長い歴史の中において、共有できる経験が全く存在しないことも大きな理由でしょう。

人間の感覚は思いの外優れたものです。夏の晴れた日は暑い、冬の雪の日は寒い、と感じることができますし、まだ共有されていないような特別な感覚についても周知され始めているようです。

つまり、神がいるのであれば、それを感覚で認識できないはずがない、と言うべきでしょうし、神が、ことさらそれを認識できないように操作している、というのであれば、そうであるところの合理的な理由がわかりません。これほど自由に神について思念を巡らすことが可能であるのに、神を認識することができないのですから。

人間が一生懸命になって考え出しても、神とは、禁忌事項を数え上げて押し付けるような存在でしかありません、性や食、排泄といったような人間の生活の根本を否定し、不食、無性などといった絵空事で生きていくことを理想にする歪曲の具現化のようなものにしかならないのが現実です。

田舎の役場の、ヒマを持て余してる木っ端役人のような神を作り上げて、必死になって

「赦してください、死んだら天国へどうぞよろしく」

とお願いするなんて、気が狂ってるとしか思えません(笑)。

自然災害とキリスト教

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同性愛は罪だと呼びかける」というブログ記事があります。ポンペイの大噴火は麓の同性愛者を懲らしめるためのものだったのだ、という珍説を発表している記事です。

以前書いていたブログでもこの記事について取りあげていまして、その際、次のようなコメントを書き込んでいます。

以前、この記事を話題にして、キリスト教と同性愛という記事を書いたクッキングホイルと申します。質問させていただきます。本質問内容とご回答の内容は、拙ブログで公開させていただきます。

あなたの説によれば、ポンペイがベスビオ火山の噴火で壊滅したのは、神が、同性愛者を罰するためだった、ということですね。

2014年9月日、御嶽山が噴火し、30日現在、12人がなくなりました。今回の御嶽山の噴火によって死亡した12人も、同性愛者だから神の罰を受けたのでしょうか。以下に質問を箇条書きにいたしますので、それぞれお答えください。よろしくお願いいたします。

  1. ポンペイが神の罰であるなら、その客観的証拠は何か
  2. 神は何のために、そのような派手な公開処刑を実行する必要があったのか
  3. ポンペイに対して公開処刑を行ったにもかかわらず、今なお同性愛者が実在するのはなぜか
  4. 御嶽山の噴火は神の罰か
  5. 死亡したのは罪のゆえか
  6. その罪は同性愛か

以上です。


2014/9/30(火) 午後 7:53 [ クッキングホイル ]

 回答は無かったようです。

まあ、こうやって、自然災害による不幸な結果を神の罰と考えるのは楽なことです。宗教というのは、考えることを止めてしまうことなのです。そのほうが「楽だ」と考える人が実際にいる、ということですね。

果たしてその選択が賢明か否かは、上で紹介したこのブログ記事を読めば判断できると思いますよ。

四柱推命と宗教

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四柱推命」をご存知でしょうか。Wikiでは、

四柱推命は生まれた年、月、日、時、の四つ干支を柱とし、その人の生まれ持った可能性を推し量るものである。

 と説明されています。

四柱推命は、長い間に堆積された経験則を元にしたものであって、科学的である、と評価される場合がありますが、果たしてそうでしょうか。

全く同じ時刻に同時に生まれた人は存在するはずだと思います。世界中で見れば相当な人数になるのではないでしょうか。

であれば、例えば不幸な事故に遭遇する人は、同時に何人もいるはずであって、しかも同時に誕生した人である、ということになるはずです。

しかし、実際にはそんなことはありませんよね。四柱推命にせよ、他の何かであっても、占いなんてことは、実際には迷信に過ぎないのです。

ちょっとまってください、今、「そうだよな、非科学的な、ただの迷信さ。」と思われた宗教信者の皆さん、あなたの信じている宗教は科学的なのですか?

神が存在する、ということ、死後に別世界がある、とういうこと、それらは科学的に実証されているでしょうか。

こういうと、多分「宗教は科学では語れない。科学が全てではないのだ」と言うでしょう。しかし、そう言ってしまうのであれば、宗教も結局四柱推命と同じレベルだと自白していることになってしまいますよね。