キリスト教の問題点について考える

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水をぶどう酒に変える、とは

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ヨハネ福音書には、イエス様が結婚式の宴会で、水瓶の水をぶどう酒に変えた、ということが書かれています。読んで見ましょう。

ヨハネ福音書 2:6-10

そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 

 福音書が書かれた当時は、まだギリシャ、ローマ、エジプト神話などの宗教が盛んであって、キリスト教は新興の小さな思想団体に過ぎなかっただろうと推察できるでしょう。そのような中で、福音書記者は、今盛んな先輩宗教が謳っている神話のパロディを福音書へ盛り込んだのです。この箇所で言えば、ギリシャ神話のディオニソスローマ神話バッコスが、水をぶどう酒に変える故事を引き合いに出したわけです。当時の読者は、福音書のこの箇所を読んで、これは、ディオニソスの、あるいはバッコスの、あの神話の話をしているんだな、と気づいたはずです。

しかし、ただ、我々の新しい時代の指導者であるイエス様も、ディオニソスやバッコスと同じような能力があるんだぞ、ということではないだろう、このパロディが意味するところは何なのだろう、と、次を読み急いだでしょう。同じ福音書の続きの箇所には、こう書かれています。

「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

いかがでしょうか、ギリシャローマ神話では水がぶどう酒に変わって、すごいなあ、うらやましいなあ、で終わりだけども、我々の新しい思想は一味違いますよ、人は、生きながらにして新しく生まれ変わり、真実の生き方を知る機会がだれにでもある、ということを、あなたがたがよく知っている神話を引き合いに出して説明したのですよ、というわけです。パロディであることがわかってこそ、その意味が活きるのだ、ということもご理解いただけると思います。

しかし、キリスト教の地位を高めるために、福音書が他の宗教のパロディで成立している事実を押し隠そうとしてその痕跡を根絶してしまったので、却って真実からかけ離れてしまい、『福音書には奇跡が記録されている。イエス様は水の上をあるいた、水をぶどう酒に変えた、十字架で殺害されて三日目に復活した』、となってしまったのだ、ということですね。その結果、現在のキリスト教徒は、古代ローマ市民と同じ価値観で、すなわち、神は水をぶどう酒に変える能力があってすごいなあ、としか感じることができなくなってしまっているわけです。