キリスト教の問題点について考える

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水上を歩く、とは

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福音書には、イエス様が水の上を歩いた、と記されています。マタイ4:26、マルコ6:49、ヨハネ6:15などがそうですね。

なぜ、イエス様が水の上を歩いた、と伝えられているのでしょうか、それは事実だからだ、と言う人がほとんどでしょう。聖書は市役所に保管されている、市議会議事録のようなもの、あるいは法務局で閲覧できる登記簿のようなものだ、と考えているひとにはそのようにしか考えることができないのも無理はないかもしれません。

しかし、福音書でイエス様は、喩えを用いて説明をしますよ、と言っておられます。つまりそこから、福音書はそれ本体にも喩えが用いられているだろう、とも考えることができるはずです。イエス様は正しい人のプロトタイプなのであって、その示唆するところのメソッドには倣うべきであった、と考察することは不自然なことではありません。

そう考えて、どの水上歩行のエピソードでも、その直前に、群衆を前にして説教を行っていた、という点に注目するのであれば、その斬新な教説に対して、反対意見を主張するものがいなくはなかっただろう、と推察することができると思います。

エス様に近寄り、あるいは暴力的に、または嘲笑し、罵倒するものもあったかもしれません。

逆風が吹きすさぶ水の上を歩いた、という記述には、そのときイエス様は、罵り返すようなことはせず、声高に反論もせず、ただ莞爾として、受け入れて聞いておられたのだ、という意味が隠されているのではないでしょうか。

まるで嵐の海を何事もなく歩くかのように、イエス様は世間の荒波を、何の難もなく過ごされた、弟子たちはその有様を見て、今までにこのような人を見たことがない、と驚嘆した、と記述されているわけです。

福音書は議事録ではなく、出来事になぞらえて精神性を伝えようとする説話なのです。神が行った、人間には不可能で不思議なお話、として済ませてしまったのでは、その本意は失われてしまうばかりです。