キリスト教の問題点について考える

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十字架の死は神への捧げものたり得るのか

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キリスト教の教会は、イエス様の十字架の死は、世の全ての罪を贖い、神との完全な和解を得るための犠牲であったのだ、と理解しようとしています。それは本当のことでしょうか。

しかし、ほんとうかほんとうでないか、と考えたところでなんら証明することはできないでしょうから、ここでは聖書的に論理的であるかどうか、という方向性で考えてみることにしてみましょう。

まず、出エジプト記から、祭司アーロンとその眷属たちが、神に使える祭司としてふさわしいものとして清められるために、必要な手順がどのようなものであったのかを見てみましょう。

出エジプト記 29:1-18

あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次の事を彼らにしなければならない。すなわち若い雄牛一頭と、きずのない雄羊二頭とを取り、また種入れぬパンと、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬせんべいとを取りなさい。これらは小麦粉で作らなければならない。そしてこれを一つのかごに入れ、そのかごに入れたまま、かの一頭の雄牛および二頭の雄羊と共に携えてこなければならない。あなたはまたアロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて、水で彼らを洗い清め、また衣服を取り、下服とエポデに属する上服と、エポデと胸当とをアロンに着せ、エポデの帯を締めさせなければならない。そして彼の頭に帽子をかぶらせ、その帽子の上にかの聖なる冠をいただかせ、注ぎ油を取って彼の頭にかけ、彼に油注ぎをしなければならない。あなたはまた彼の子たちを連れてきて下服を着せ、彼ら、すなわちアロンとその子たちに帯を締めさせ、ずきんをかぶらせなければならない。祭司の職は永久の定めによって彼らに帰するであろう。あなたはこうして、アロンとその子たちを職に任じなければならない。
あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。そして会見の幕屋の入口で、主の前にその雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、指をもって、これを祭壇の角につけ、その残りの血を祭壇の基に注ぎかけなさい。また、その内臓をおおうすべての脂肪と肝臓の小葉と、二つの腎臓と、その上の脂肪とを取って、これを祭壇の上で焼かなければならない。ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼き捨てなければならない。これは罪祭である。
あなたはまた、かの雄羊の一頭を取り、そしてアロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。またその雄羊を切り裂き、その内臓と、その足とを洗って、これをその肉の切れ、および頭と共に置き、その雄羊をみな祭壇の上で焼かなければならない。これは主にささげる燔祭である。すなわち、これは香ばしいかおりであって、主にささげる火祭である。

よく、「罪を贖う」という言い方をしますが、この文中にある通り、清めの儀式には雄牛や雄羊などの動物が必要ですが、それらの動物を、対価を支払って購入することなどの実費負担を指して「贖う」ということになるわけです。

また、雄牛や雄羊などは燔祭の直前までは生きている必要があったことがわかります。念の為、レビ記を引用しておきましょう。

レビ記 5:2

また、もし人が汚れた野獣の死体、汚れた家畜の死体、汚れた這うものの死体など、すべて汚れたものに触れるならば、そのことに気づかなくても、彼は汚れたものとなって、とがを得る。

おわかりでしょうか。ローマ帝国の一属国に成り下がっていたとはいえ、イスラエル国内で行われた裁判において有罪となった人間、しかも、律法に定められた屠殺方法に依らないで殺された、つまり「汚れた人間の死体」が、神への捧げものとして認められるはずがありません。

また、出エジプト記の記述にある通り、犠牲の動物は、祭壇上で焼き尽くすまで焼かなければなりません。その煙が天の高みに上り、香りが神に届いて、初めて、宥めの捧げものとして成立するのです。

エス様が十字架で亡くなった、ということは、占領下という特殊な状況であったにはせよ、一応きちんと裁判が行われ、その結果に従って死刑が執行された、ということに過ぎないわけです。しかも火葬ではなく土葬にしたと記録されています。これを、ヘブライズムに無理やり当てはめようというのはあまりにも無謀だと言わざるを得ないでしょう。2000年かけて徐々に刷り込みが進んできたので、事の滑稽味が薄れてきただけのことであって、ご破産にして検証してみれば、荒唐無稽なこじつけでしかないことを改めて知ることができると思います。

神が直接定めた取り決めを神自身が反故にする、なんて理不尽なことはあってはならないことですし、それが不可抗力で仕方のないことだった、なんてことはあり得ないはずです。何しろそれを行ったのは神自身なのですから。

キリスト教の神に対する、またユダヤ教に対する理解が、いかにお粗末な、あるいは恣意的なものであるかをご理解いただけると思います。

「神の言葉」とは

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jp.vonvon.me

エス様には、「神の子羊」、「最終のアダム」、「白馬の騎手」など、様々なサブタイトルがありますが、「神の言葉」もその一つです。ヨハネ福音書を読んでみましょう

ヨハネ福音書 1:1-5

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

この「言」がイエス様のことである、と理解しているわけです。キリスト教は、自分たちが信仰している神が「三位一体」の神であって、父と子と聖霊、という風に分割して理解しようとしています。父とはこの世の真理そのものであり、子とは父から人へのメッセンジャーであり、聖霊とは父または父と子から発出されて人に及ぶ力のことである、というわけです。次に創世記を読みましょう。

創世記 1:1-5

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

地に光を及ぼそう、という発想が父であり、「光あれ」 という言葉が子であるイエス様であり、「すると光があった」という結果を及ぼした力が聖霊である、ということになるでしょう。回りくどいですね。

しかし、イエス様が「神の言葉」だと言うのであれば、次のような言葉もまたイエス様そのものである、ということになるでしょう。

申命記 20:10-14

一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。

いかがでしょうか、男は皆殺し、女子供は家畜扱いです。この命令は「神の言葉」であるわけですから、つまりイエス様ご自身である、という理解にもなるはずです。

ツイッタに、キリスト教の神は、レイシスト(差別的な民族主義者)として表現されているに過ぎないのに、牧師や神父がなぜそんなものを有難がって拝むのか、その理由がよくわからない、という書き込みがありましたので、次のように答えてみました。

キリスト教の本質といういか、精神性を極めれば、コミュニズムになると思うのですが、残念ながら、実態としてはレイシズムファシズムという安直かつ醜悪なものでしかありませんよね。だからナチスに与したのです。成熟する必要性を見いだせていないわけです。

すると、さらにレスを下さいました。もしイエス様が旧約時代の差別的発言を反省し、あれは間違いだったと謝罪するのであれば、キリスト教も宣教されてしかるべきと許可できるかもしれない、というご意見でした。

なるほど、と思いました。確かに、神が神としての専横的な実践を人間の社会的見地に立って反省するのであれば、それは確かに有用な指標となり得るのかもしれません。

しかし、残念ながら、イエス様のレイシストとしての性質は反省どころか、全く衰えてはいません。むしろ力が増している、と言って間違いでは無いでしょう。

次に、Wikiの「ニカイア信条」から原ニカイア信条の本文を引用してみましょう。

我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。

我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。

また我らは聖霊を信ず。

主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。

いかがでしょうか。イエス様は「生ける者と死ぬる者とを審く」存在であり、そのイエス様を信じる公同の教会とは、彼らの偏向的な思想に賛同しないと公言するものを「呪う」存在であると自ら宣言しているのです。

つまり、過去に正しくなかったことがあったとは考えていませんよ、と言っているわけです。神も、信者も、指導者も、何一つ過ちは犯していないし、反省の必要も感じてはいない、ということですよね。人は、その必要を感じていたとしても、他の人に促されてはなかなか謝罪できないものです。まして感じていないのですから言わずもがなでしょうね。

それと、余計なことかもしれませんが、あなたの引用なさっているその牧師さん、特に発言内容の意味がよくわからない牧師さんだと思います(笑)。

牧師のお仕事

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tenki.jp

面白いツイートがありましたのでちょっとちょっかい出して見ました。 

細かく全部引用することもないでしょうからやめておきますが、要するにこの牧師さんは、信者のユーティリティにはなりたくないのだ、と考えているわけです。

もし僕がキリスト教信徒であって、神の召しを感じて牧師への道を志したのであれば、間違いなく信徒の奴隷としての立場を甘んじて引き受けるでしょう。だって、牧師の仕事ってそういうことなんじゃないんでしょうか。

聖書を読んでみましょう。マタイによる福音書10:5-14

エスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。

「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。」とありますよね。要するに、徹底的に奉仕しなさい、という意味だと解釈すべきだと思うのですが間違っているでしょうか。

牧師は信徒のなんでも屋になるべきなのかなるべきでないのか、わからないのなら神に聞いてみたらどうですか、と勧めてみたのですが、その答えは、「神には聞かない、そして信徒のなんでも屋にはならない。それが教会上層部の意向だから」というものでした。

全く呆れたものだと思います。それではカトリックの犯した失敗の二の舞でしかありません。カトリック教会は、神に聞くことをやめて、教会の利益を優先しようとしたので堕落したわけでしょう。それと同じ構図を感じます。

結局、牧師(神父も同じことですが)というのは、神に命を捧げて神の道具となるために選ばれる職業では無いわけです。楽に生きていくための方法でしか無いのですよ。

キリスト教徒の皆さん、あなた方は金づるでしかない。こういう現実をしっかりと見るべきだと思いますけどね。

祇園祭とキリスト教徒

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www.okeihan.net

 

もう何年か前の話なのですが、主日礼拝が祇園祭宵山に重なったことがありました。礼拝後に信徒のおばさんが何人か集まって、祇園祭の山鉾(やまほこ)を見に行こう、と相談していますので、「偶像崇拝なんじゃないですか?」とからかいますと、「何言ってるのアナタ、あんなものは今じゃ偶像崇拝でも何でもない、京都市がやってる観光行事なのよ、何も知らないのね」などと言って、呆れ果てたというご様子でこちらを見下して嘲笑なさいます。さらに刺激して聞き苦しい雑言を耳にしたくありませんので「そうですか、知りませんでした。行ってらっしゃい。」などと言って事なきを得たわけですが、

しかし、祇園祭祇園の八坂神社久世の綾戸國中神社が行う宗教行事であって、京都市が主催するものではありません。

八坂神社のHPにある説明を読んでみましょう。

祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。

とあって、祇園祭りは宗教行事であることが説明されています。

山と鉾の巡行は、7月17日の前祭(さきまつり)と24日の後祭(あとまつり)に分けて行われますが、前祭とは神幸祭、八坂神社の祭神が四条寺町の御旅所に御幸されるお祭りで、後祭は還幸祭、御旅所から八坂神社へお還りになるお祭りです。前祭の山鉾巡行神幸祭に先立って、神の通られる道を清めるために、後祭は還幸祭に先立って、神の還られる道を清めるために行うものなのです。

山鉾には、長刀鉾、函谷鉾のように、屋根に刃物がついているもの(鉾)と、北観音山、役行者山のように、屋根に松の枝がついているもの(山)とがあるのですが、これには、街の中の悪霊や鬼神、疫神を、まずは刃物で脅して松の枝に集(たか)らせて、さらに後続の刃物で退治する、という意味があります。山鉾の巡行の順序はくじで決められますが、この意味合いに矛盾が生じないように、鉾一番、殿(しんがり)などの「くじ取らず」と呼ばれる順序がきまっている山鉾があるわけです。と言っても、すでになくなってしまった山や鉾などもあり、後祭の鉾は平成26年に再興された大船鉾一基だけで、山鉾巡行の本来の意味は再現できていないのが実情のようです。

辻で山鉾の方向を変える「辻回し」の際に、鉾の屋根にある刃物の先が禁裏に向かないようにくるくる回して向きを変える、という技も巡行の見どころの一つです。

1966年から2013年までの間は後祭に行われるべき山鉾巡行は前祭にまとめて行われていたのですが、市電が路面を運行していた当時は山鉾巡行のために電車の架線を取り払って運休にする必要があって、それを二度行わなければならない、または長期に渡って運休にしなければならないなどの問題があって、後祭の巡行を前祭にまとめて行われていた、ということのようです。2014年からは、実際の還幸祭に合わせた巡行が復活しています。

このように、祇園祭山鉾巡行は宗教行事であることがわかります。また山鉾にはそれぞれ神が祀られていて、それ自体が神でもあります。

一方仏教とは、本来は宗教ではなくて哲学の一つであって、仏様や菩薩様とは、実在する神のような存在ではなくて、理想とする人間の状態のモデルとして理解されています。仏教を提唱したお釈迦様は、葬式などの宗教的な行事には否定的な考えを示しています。ですから、今、日本で行われている葬儀に宗教的な意味合いは含まれておらず、その実体は、社会的な記念行事に過ぎない、ということになるでしょう。

いかがでしょうか。バリバリの宗教行事であっても、自分が見て面白ければそれは宗教行事ではなくなり、本来宗教でも何でもない、社会的な行為で合っても、自らの宗教性を主張したいときには、それを異教だ邪教だと批判する、キリスト教徒とはそういう滑稽な人の集まりでしかありません。本質を知ろうという意識がそもそも存在しないわけです。

僕は、クリスチャンのおばさんたちによくある、標準語風だけど関西イントネーションが抜けてない、あの中途半端なしたり顔がとてつもなく嫌いです(笑)。

オリンピック聖火とは

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上記リンク、AFP通信の「ソチ冬季五輪の聖火がギリシャで採火、聖火リレー始まる」という報道から引用してみましょう。

【9月30日 AFP】2014年ソチ冬季五輪の聖火採火式が29日、古代オリンピア(Ancient Olympia)の遺跡で行われ、2月7日の開会式へ向けた聖火の長い旅が始まった。

 2600年前のヘラ神殿の遺跡で、古代ギリシャの衣装をまとった俳優はまばゆい太陽の下でアポロ(Apollo)神に祈りを捧げると、凹面鏡で太陽光を集めてたいまつに火をともした。

 聖火はギリシャ国内と開催国のロシア国内でリレーされ、さらに史上初めて宇宙へも打ち上げられる。 

オリンピックの聖火とは、「アポロ(Apollo)神に祈りを捧げ」て行われる宗教行事において採火されるものであることが説明されています。

またWikiの「オリンピック聖火」というページでは、

炉の女神ヘスティアーを祀る11人の(女優が演じる)巫女(処女であることが前提)がトーチをかざすことで火をつけている。また、この儀式の本番は非公開とされており、テレビ等で見られる採火の場面はマスコミ向けの“公開リハーサル”である。なお男子禁制の儀式である。

とあって、かなり本格的な宗教行為であることを伺い知ることができます。

バリバリのキリスト教国、しかも、生きている原典そのものとも言えるキリスト教の本拠地、そのキリスト教を国教とするギリシャという国で、これが公然と行われているという事実にも驚かされるのですが、最大の問題は、オリンピックに、聖書で直接禁じられている異教の要素が盛り込まれている、ということに関して、キリスト教徒からなんらの異論も反論も発せられていない、ということではないでしょうか。

オリンピックの聖火はアポロ神に祈りを捧げて採火されたものであり、開会式から閉会式までの間聖火台で燃え続けているわけで、オリンピックという催事そのものが(異教の)宗教的であるとも言えなくはありません。

いかがでしょうか。オリンピックの異教的要素は、仏式の葬儀が偶像崇拝だどうだという話とは次元が違うと思います。しかし、葬式は偶像崇拝だと批判しますが、オリンピックに対する批判を聞いたことはありません。長いものには巻かれておこう方式なのでしょうか。

クリスチャンの皆さんは、キリスト教は論理的に正である、と信じているのだろうと思うのですが、実際はそうでもありません。大部分は情緒的であって、感情論抜きには成立しないのです。おもちゃを買って欲しいと子供が泣きながら駄々をこねている、といったところが正体なのではないでしょうか。

プロテスタントの葬式理解

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カトリック教会には、「煉獄」という死後観があることはご存知でしょう。Wikiから少し引用してみましょう。

カトリック教会の伝承では、煉獄は「清めの火」というイメージで語られ、その由来は教会の古くからの伝承だけでなく、『コリントへの第一の手紙』3章13-15節 や『ペトロの手紙一』1章7節などなど聖書のいくつかの箇所に基づいたものだと説明する。また、『マタイ福音書』12章32節 の記述から「ある罪はこの世で、他のある罪はあの世でゆるされ得る」と解釈できることが、煉獄の存在の根拠だとしている]。

さらに、煉獄の教えは、旧約聖書(第二正典)の『第二マカバイ記』12章45(-46)節の、罪のうちに死んだ死者達のための祈りの習慣にも見られるとしており、カトリック教会は初期の時代から、「死者の記念を深い敬愛の念を以って尊び」、罪から解かれるよう、死者のために祈りを捧げてきた。

しかしながら、「煉獄」の存在を認めているのはカトリックだけです。正教会には類似した死後観があるのですが、プロテスタント教会はこのような死後観を否定しています。

例えば、「英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)」というサイトをみますと、「第22条 煉獄について」として、

煉獄、免罪(贖宥)、聖像および遺物の礼拝と崇敬、また諸聖人の執り成しに関するローマ教会の教理は、虚しく作られた勝手な盲信であって、聖書に根拠をもたないばかりか、むしろ神の御言に反するものである。

とあります。

次に、米国の「保守主義福音派根本主義、そして無宗派です。」と自称している「Gotquestions.org ミニストリー」というサイトの「死者のために祈ることについて聖書は何と言ってますか?」から少し引用してみましょう。

死者のために祈るのは聖書的な考えではありません。誰かが一度死んでしまったら、私たちの祈りには何の意味もありません。現実は、人が死んだ時点で 、その人の永遠の運命は確、定します。キリストに置く信仰によって救われて神の御前で安息と喜びを経験する天国にいるか、または 地獄で苦しんでいるかのどちらかです。 金持ちと乞食のラザロの話はこの真理を鮮やかに描写しています。イエスは単にこの話を用いて、死後、不義な者は永遠に神から離され、福音を拒んだことを彼らは覚えていて、苦しみに会っているが、その状況を変えることはできないと教えておられます。(ルカ16:19-31)

愛する人を亡くした人は、死者とその家族のために祈るようにと励まされることがしばしばあります。もちろん悲しみの中にある人たちのためには、祈るべきですが、死んだ人のためには祈れません。誰かが人のために祈ることで、その人の死後、その人の行き先をある程度でも良い方に変えることができるなどとは、誰も信じるべきではありません。聖書は、人間の永遠の運命は私たちが地上で生きている間の行いで決定すると教えています。 「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル18:20)

いずれの教会も、死後の世界は天国と地獄だけであって、その他には何もない、と理解していて、残されたものが死者の冥福に寄与するための有効な方法は何も無い、と説明しています。

 

なるほど、そうなのかもしれません。しかしちょっと待ってください。それならば、プロテスタント教会は、信徒の死に際して、なぜ葬式の礼拝を行うのでしょうか。

Gotquestions.org ミニストリーの同じページから、別の部分を引用してみましょう。

聖書は救い主の御心に従う者は(へブル5:9)死後、すぐに主の御前に行くと教えています。(ルカ23:43;ピリピ1:23;2コリント5:6.8)それでは、彼らに地上にいる人の祈りに、何の必要があるのでしょう?愛する人を失った人たちに同情する一方、私たちは、「確かに今は恵のとき、今は救いの日です。」(2コリント6:2)と言うことを頭に入れておかなければなりません。この文脈では福音時代全体のことを言っているのですが、この節は避けられないこと∹―死と死後に来るさばきに直面する準備のできていない人の誰にでも適用できます。(ローマ5:12;1コリント15:26;へブル9:27)死は終わりです。そのあとは、どんなに多くの祈りでも、生前に拒んだ救いを得させることはできないのです。

それでは、一体どういう理由で葬式を行うのでしょうか。「それでは、彼らに地上にいる人の祈りに、何の必要があるのでしょう?」こちらが聞きたいぐらいです。少しでも神にコマンドを送って、個人の冥福に寄与したいから、という気持ちの現れが、葬式を行う、という行為にあらわれているからなのではないのでしょうか。

 

日本キリスト改革派いずみ教会、のサイトの、「葬儀についての心構え(クリスチャン向け)」というページから少し引用してみましょう。

キリスト教葬儀の目的は、神への礼拝、遺体の葬り、地上に残る者への慰めです。

従って、死者のための祈り、供物、また死者への語りかけなど、異教的風習を排除する事が大切です。

(中略)

このように、主にあって死ぬ者の慰めと幸福を思うとき、残された者がいたずらに嘆き悲しむ理由はもはや無いと言うべきであります。

嘆き悲しむ理由が無いのに、なぜ葬式を行うのでしょうか。僕は今まで何回か教会の葬式に参列しましたが、嘆き悲しまない葬式を経験したことは一度もありません。

 

いかがでしょうか。プロテスタントの信徒が、全員Gotquestions.org ミニストリーの記述通りに死後を理解しているのであれば、とっくの昔に葬式は廃止されているはずなのではないでしょうか。人が死ねば、行政手続きを済ませ、遺体は焼却して灰や骨は斎場に頼んで捨ててもらうか、細かく砕いて海にでも散骨すればいいだけの話です。

なぜ泣きながら教会で葬式を行って、骨は後生大事にお墓へ収めるのでしょうか。その理由は結局、人間誰でも、たとえプロテスタントのクリスチャンといえども、実際には迷信に振り回されて生きているから、ということでしょう。それから、見栄です。誰一人として理屈だけに従順にはなれません。たとえ神であっても世間体には勝てないわけです(笑)。

キリスト教徒が抱いている幻想

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福音書には、神がキリスト教徒へ与える特典内容の予言、と理解されているところの記述がいくいつかあります。見てみましょう。たとえば、

マタイの福音書 6:26-30

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。

キリスト教徒はこの箇所を読んで、神は野草や野鳥にさえ無労働で生きていることを許しているのだから、キリスト教徒にはさらなる大きな特典を与えようとしているに違いない、と解釈したがるようです。それは少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも、イエス様の教えに従えば、苦難が減免される、ということの約束だろう、という程度には理解しているでしょう。

たしかにそうかもしれません。しかし、そうなるべき条件は、キリスト教徒になることではなくて、福音書の同じ箇所の、少し前に示されています。読んでみましょう。

マタイの福音書 6:19-21

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。

つまり、余計なものを持つと、それらを保護することに気を取られて、人として生きていることの大切な意味を見失ってしまいますよ、という警告であり、マタイの福音書6:25の「それだから、あなた方に言っておく」によって、空の鳥と野の花のたとえにつながっているわけです。

また次の箇所、マタイの福音書 11:28-30

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

も、優美な含みを持つ入信への誘い、と受け取れるかも知れないのですが、この箇所も、重荷を下ろすのは、負っているあなた方自身なのだよ、と指摘しているに過ぎません。そうすれば見るべきものが見えてくるだろう、と教えているのです。「わたしのくびき、わたしの荷」とは、「持ち物を捨ててしまう」という行動のことでしょう。

また、天国とは、キリスト教徒が死後に得られる報奨なのでしょうか、マタイによる福音書 13:45 には、

また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。

とあります。持ち物を売り払って買うべき、真珠、とは何のことでしょうか。

マタイによる福音書 19:20-22 には、

この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

とあって、「貧しい人々に施す」ことだということを知ることができます。

お釈迦様は、煩悩を捨てて悟りを得、この世を極楽浄土にしよう、と教えられました。同様に、イエス様も、余計な持ち物を捨てて、この地上に神の国を実現しよう、と教えられたのです。

洗礼を受けてキリスト教徒というタイトルを身に着けた、と安心しているキリスト教徒の皆さん、それは儚い幻想に過ぎません。実際には、「余計な持ち物」を一つ増やしただけのことです。