キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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十字架の死は神への捧げものたり得るのか

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キリスト教の教会は、イエス様の十字架の死は、世の全ての罪を贖い、神との完全な和解を得るための犠牲であったのだ、と理解しようとしています。それは本当のことでしょうか。

しかし、ほんとうかほんとうでないか、と考えたところでなんら証明することはできないでしょうから、ここでは聖書的に論理的であるかどうか、という方向性で考えてみることにしてみましょう。

まず、出エジプト記から、祭司アーロンとその眷属たちが、神に使える祭司としてふさわしいものとして清められるために、必要な手順がどのようなものであったのかを見てみましょう。

出エジプト記 29:1-18

あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次の事を彼らにしなければならない。すなわち若い雄牛一頭と、きずのない雄羊二頭とを取り、また種入れぬパンと、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬせんべいとを取りなさい。これらは小麦粉で作らなければならない。そしてこれを一つのかごに入れ、そのかごに入れたまま、かの一頭の雄牛および二頭の雄羊と共に携えてこなければならない。あなたはまたアロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて、水で彼らを洗い清め、また衣服を取り、下服とエポデに属する上服と、エポデと胸当とをアロンに着せ、エポデの帯を締めさせなければならない。そして彼の頭に帽子をかぶらせ、その帽子の上にかの聖なる冠をいただかせ、注ぎ油を取って彼の頭にかけ、彼に油注ぎをしなければならない。あなたはまた彼の子たちを連れてきて下服を着せ、彼ら、すなわちアロンとその子たちに帯を締めさせ、ずきんをかぶらせなければならない。祭司の職は永久の定めによって彼らに帰するであろう。あなたはこうして、アロンとその子たちを職に任じなければならない。
あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。そして会見の幕屋の入口で、主の前にその雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、指をもって、これを祭壇の角につけ、その残りの血を祭壇の基に注ぎかけなさい。また、その内臓をおおうすべての脂肪と肝臓の小葉と、二つの腎臓と、その上の脂肪とを取って、これを祭壇の上で焼かなければならない。ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼き捨てなければならない。これは罪祭である。
あなたはまた、かの雄羊の一頭を取り、そしてアロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。またその雄羊を切り裂き、その内臓と、その足とを洗って、これをその肉の切れ、および頭と共に置き、その雄羊をみな祭壇の上で焼かなければならない。これは主にささげる燔祭である。すなわち、これは香ばしいかおりであって、主にささげる火祭である。

よく、「罪を贖う」という言い方をしますが、この文中にある通り、清めの儀式には雄牛や雄羊などの動物が必要ですが、それらの動物を、対価を支払って購入することなどの実費負担を指して「贖う」ということになるわけです。

また、雄牛や雄羊などは燔祭の直前までは生きている必要があったことがわかります。念の為、レビ記を引用しておきましょう。

レビ記 5:2

また、もし人が汚れた野獣の死体、汚れた家畜の死体、汚れた這うものの死体など、すべて汚れたものに触れるならば、そのことに気づかなくても、彼は汚れたものとなって、とがを得る。

おわかりでしょうか。ローマ帝国の一属国に成り下がっていたとはいえ、イスラエル国内で行われた裁判において有罪となった人間、しかも、律法に定められた屠殺方法に依らないで殺された、つまり「汚れた人間の死体」が、神への捧げものとして認められるはずがありません。

また、出エジプト記の記述にある通り、犠牲の動物は、祭壇上で焼き尽くすまで焼かなければなりません。その煙が天の高みに上り、香りが神に届いて、初めて、宥めの捧げものとして成立するのです。

エス様が十字架で亡くなった、ということは、占領下という特殊な状況であったにはせよ、一応きちんと裁判が行われ、その結果に従って死刑が執行された、ということに過ぎないわけです。しかも火葬ではなく土葬にしたと記録されています。これを、ヘブライズムに無理やり当てはめようというのはあまりにも無謀だと言わざるを得ないでしょう。2000年かけて徐々に刷り込みが進んできたので、事の滑稽味が薄れてきただけのことであって、ご破産にして検証してみれば、荒唐無稽なこじつけでしかないことを改めて知ることができると思います。

神が直接定めた取り決めを神自身が反故にする、なんて理不尽なことはあってはならないことですし、それが不可抗力で仕方のないことだった、なんてことはあり得ないはずです。何しろそれを行ったのは神自身なのですから。

キリスト教の神に対する、またユダヤ教に対する理解が、いかにお粗末な、あるいは恣意的なものであるかをご理解いただけると思います。