キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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祇園祭とキリスト教徒

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もう何年か前の話なのですが、主日礼拝が祇園祭宵山に重なったことがありました。礼拝後に信徒のおばさんが何人か集まって、祇園祭の山鉾(やまほこ)を見に行こう、と相談していますので、「偶像崇拝なんじゃないですか?」とからかいますと、「何言ってるのアナタ、あんなものは今じゃ偶像崇拝でも何でもない、京都市がやってる観光行事なのよ、何も知らないのね」などと言って、呆れ果てたというご様子でこちらを見下して嘲笑なさいます。さらに刺激して聞き苦しい雑言を耳にしたくありませんので「そうですか、知りませんでした。行ってらっしゃい。」などと言って事なきを得たわけですが、

しかし、祇園祭祇園の八坂神社久世の綾戸國中神社が行う宗教行事であって、京都市が主催するものではありません。

八坂神社のHPにある説明を読んでみましょう。

祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。

とあって、祇園祭りは宗教行事であることが説明されています。

山と鉾の巡行は、7月17日の前祭(さきまつり)と24日の後祭(あとまつり)に分けて行われますが、前祭とは神幸祭、八坂神社の祭神が四条寺町の御旅所に御幸されるお祭りで、後祭は還幸祭、御旅所から八坂神社へお還りになるお祭りです。前祭の山鉾巡行神幸祭に先立って、神の通られる道を清めるために、後祭は還幸祭に先立って、神の還られる道を清めるために行うものなのです。

山鉾には、長刀鉾、函谷鉾のように、屋根に刃物がついているもの(鉾)と、北観音山、役行者山のように、屋根に松の枝がついているもの(山)とがあるのですが、これには、街の中の悪霊や鬼神、疫神を、まずは刃物で脅して松の枝に集(たか)らせて、さらに後続の刃物で退治する、という意味があります。山鉾の巡行の順序はくじで決められますが、この意味合いに矛盾が生じないように、鉾一番、殿(しんがり)などの「くじ取らず」と呼ばれる順序がきまっている山鉾があるわけです。と言っても、すでになくなってしまった山や鉾などもあり、後祭の鉾は平成26年に再興された大船鉾一基だけで、山鉾巡行の本来の意味は再現できていないのが実情のようです。

辻で山鉾の方向を変える「辻回し」の際に、鉾の屋根にある刃物の先が禁裏に向かないようにくるくる回して向きを変える、という技も巡行の見どころの一つです。

1966年から2013年までの間は後祭に行われるべき山鉾巡行は前祭にまとめて行われていたのですが、市電が路面を運行していた当時は山鉾巡行のために電車の架線を取り払って運休にする必要があって、それを二度行わなければならない、または長期に渡って運休にしなければならないなどの問題があって、後祭の巡行を前祭にまとめて行われていた、ということのようです。2014年からは、実際の還幸祭に合わせた巡行が復活しています。

このように、祇園祭山鉾巡行は宗教行事であることがわかります。また山鉾にはそれぞれ神が祀られていて、それ自体が神でもあります。

一方仏教とは、本来は宗教ではなくて哲学の一つであって、仏様や菩薩様とは、実在する神のような存在ではなくて、理想とする人間の状態のモデルとして理解されています。仏教を提唱したお釈迦様は、葬式などの宗教的な行事には否定的な考えを示しています。ですから、今、日本で行われている葬儀に宗教的な意味合いは含まれておらず、その実体は、社会的な記念行事に過ぎない、ということになるでしょう。

いかがでしょうか。バリバリの宗教行事であっても、自分が見て面白ければそれは宗教行事ではなくなり、本来宗教でも何でもない、社会的な行為で合っても、自らの宗教性を主張したいときには、それを異教だ邪教だと批判する、キリスト教徒とはそういう滑稽な人の集まりでしかありません。本質を知ろうという意識がそもそも存在しないわけです。

僕は、クリスチャンのおばさんたちによくある、標準語風だけど関西イントネーションが抜けてない、あの中途半端なしたり顔がとてつもなく嫌いです(笑)。