キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

キリスト教の知的レベル

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playing-engineer.com

 

ネットに「宗教とIQの関係について、宗教間で信者の知的レベルに差があることが示唆される」という記事を見つけました。

world-fusigi.net

引用してみましょう。

趣味として、以前に自分で分析したデータがある
興味深いので公開してみることにする

結論から言うと、宗教間で信者の知的レベルに差があることが示唆される
元となるデータはネット上の国際統計をいくつか用いた
あくまで原始的なモデルによる概算だが、以下のような結果が出た

<平均IQ>
無宗教者    98.7
仏教徒    97.5
キリスト教徒 88.9
イスラム教徒83.6
世界平均89.3

何を元にしたのか、サンプル数はどれぐらいあったのか、が明らかにされていませんので、どれぐらい正確なのかがよくわからないのですが、まあ、そんなもんだろうな、と思わせる数字ではあるように思います。

結局、無宗教者とは、拒否する能力を有するものであって、知的レベルが発達しているものだということでしょうね。無神論者という言葉もありますが、これは無神論という宗教のようなもののことであり、無宗教とは別のものです。

仏教というのは、実際には宗教ではなく、哲学の一つであり、キリスト教などの宗教とは比べ物にならない、高度で複雑な論理によって組成された思想であって、どちらかと言うと無宗教に属するところであろうと思われますから、無宗教者の数値とよく似ていることは納得されるところだと思います。

冒頭の画像で引用したサイトの記事「世界最古の宗教ですら。。。」にあるとおり、宗教というのは、売春と同様、原初のそれからしてすでに「産業」であったわけです。

「完全な神」が、生殖の区分としては「男性」だ、と聞いた時点で一笑に付さなければなりません。知性的な発達を欲していないならば別ですが(笑)。

聖職者の仕事

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www.ecaglobal.org

 

キリスト教で「聖職」とは、カトリック教会の助祭以上、正教会輔祭以上の肩書を有する教役者であって、プロテスタントの牧師は「聖職」ではありません。学校の教師を「聖職」という場合は、文学的な概念でいうのであって、そういう意味であれば、プロテスタントの牧師も、正式な名称は「教師」である場合が多いことでもありますので「聖職」である、ということは大間違いではないかもしれませんが、キリスト教でいわゆる「聖」を厳密にするのであれば、牧師は「聖」である職業とは言えない、ということになるでしょう。プロテスタント教会に「聖職者」はいません。牧師は信仰生活上、信徒と同格である。このことを知らない人が多いように感じます。だからといって、尊敬する必要は無いと言うわけではないのですが、そういう点においてもカトリックや正教とは違うのだ、ということです。つまり、プロテスタントは、人間の職業に「聖」である指標を設けて、その職業に就いたものを神のように崇めてしまう、という危険を避けているわけです。

さて、神父や牧師と言われる人たちの仕事とは何でしょうか。中には学校の教師や病院の医師などを兼務している、という方もおられるようですが、大半は神父だけ、牧師だけが仕事であるという人です。そういう人たちにとって、実際、仕事と言えることは、日曜日の礼拝だけです。一週間のうち、拘束時間は、せいぜい週に二時間、一ヶ月でわずか八時間です。カトリックの司祭であれば、毎日ミサを立てる義務がありますが、平日の読唱ミサなんてせいぜい三十分程度のものですから、一般的なサラリーマンに比べれば、通勤する必要も無いのですから楽なものです。

中には司祭、牧師の不足のせいで、いくつかの教会を巡回する人がいるかもしれませんが、それでも、サラリーマンが、製造や販売のノルマに追われて仕事をすることに比べれば楽なものでしょう。

実際、Twitterを見ていると、神父だ、牧師だ、と自称する人物が四六時中発言しています。またこの神父がつまらない冗談言ってる、この牧師はまた聖書を使った皮肉で人を嫌な気持ちにさせてる、という感じです。よほど暇を持て余しているのでしょう。呆れたものです。そういうことがしたいから神父や牧師になったのでしょうけどね。そういう意味では大成功、人生の勝ち組だと胸を撫で下ろしているのでしょう。

そんなTwitterで、カトリックのなんとか枢機卿が、幼児虐待事件の当事者として裁判でクロ判決を受けたとかで、その枢機卿はきっと冤罪に違いない、枢機卿サマは上訴された、と発言したカトリック信者がいましたが、枢機卿を起訴するなんて、よほど真っ黒でなければ中々できないことだと思うのですがどうでしょうか。まあ、よほど暇なんでしょうね。暇で暇で仕方ないので幼児を性のはけ口にする。汚らわしい限りです。

冤罪と言いますが、冤罪なら冤罪で別に構わないじゃないですか。その人の神は、全人類の罪過を身に負うために、わざと冤罪を着せられて死刑になったわけでしょう。その神に倣って、自分たちの組織の犯罪を、冤罪であれ何であれ償うのであれば、その有様を神が見て評価するのではないでしょうか。それなのに、なぜ上訴しなければならないのでしょうか。

実際は、神父や牧師なんて表向きの見栄えばかり、中身なんて皆無。結局楽して生きて行きたいだけで、神がいようが空想だろうが別にどちらでもかまわない。そんなのばかりですよ(笑)。

キリスト教の正統と異端

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greekcitytimes.com

 

キリスト教には「正統」と「異端」がある、と言いますが、何が正統で、何が異端なのでしょうか。

まずは、一番最初に「キリスト教」であると認識された、ローマ帝国によって定義された組織、これを、正統なキリスト教組織であると考えましょう。まだ、カトリック、正教、といった区別はなかったはずです。帝国内の主要な5つの都市に総主教座が配され、名目上の「最も尊崇せらるる」ところの総主教座はエルサレム総主教座であって、最も盛んな総主教座は、新都コンスタンチノポリの総主教座、上の写真のアヤ・ソフィア教会だったはずです。

この状態が安定するまでには、「Wiki-異端」の説明にあるとおり、グノーシス主義アリウス派、安定後であっても、単性論、ネストリウス派などの、正統派に反する考えを主張するグループが現れて、これを「異端」と呼びました。

異端とは、Wiki-異端によれば、

宗教において、正統を自負する教派が、正統とする教理・教義に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。

とあるように、自らを正統と考えている団体が、他の団体に対して言う表現なのですから、例えば、エホバの証人は、自らを正統と考えているのですから、彼らから見てカトリック教会は教義上間違っている、として、異端である、と言うのであれば、カトリックは異端である、と言うことも成り立ちます。

しかし、それでは話がややこしくなってしまいますので、冒頭で申し上げたように、五大総主教座の伝統に基づく教会を正統とするならば、ローマの使徒座(カトリック教会)はその伝統から逸脱しかけた時点で、異端となった、ということになるでしょう。カトリックは、ローマの使徒座は、ペトロの使徒の首長としての権能を受け継ぐものであり、逸脱したのは他の四主教座である、と主張していますが、マルコ福音書の次の箇所

エスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。

を読めば、使徒の長として受け継がれるべき権能、というようなものは存在せず、存在したとしても、それはイエス様の意思に反するところである、ということを知ることができると思います。

事実、プロテスタントが派生し、教会が細分化してしまったのは、ローマの使徒座が五大総主教区のコミュニティから離脱してしまったからです。あとに残った主教区、現在で言う正教会からは、プロテスタント教会のような離反者は出ていません。

では、カトリック教会は正教会からみて、今でも異端なのでしょうか。そうではありません。離反して別の団体になってしまいましたので、異端ではなくて異教であって、カトリック信者は正教から見ると「異教徒」ということになります。

プロテスタントの場合も、たとえ「メインライン」であろうと、少数派であろうと、全て「異教」ということになります。正統派からみればキリスト教でさえないわけです。

キリスト教徒には、「異端」という言葉を便利な武器のように乱用する人が多いように感じますが、キリスト教が差別やヘイトを基調として成立した、という事実の痕跡なのでしょう。面白いですね。

まあ、いまでも某SNSなどを見てると、皮肉を言ったり、罵倒したり、相変わらず未洗練で未成熟な有様を露呈して満足しているようですけどね(笑)。

水をぶどう酒に変える、とは

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www.biblestudytools.com

 

ヨハネ福音書には、イエス様が結婚式の宴会で、水瓶の水をぶどう酒に変えた、ということが書かれています。読んで見ましょう。

ヨハネ福音書 2:6-10

そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 

 福音書が書かれた当時は、まだギリシャ、ローマ、エジプト神話などの宗教が盛んであって、キリスト教は新興の小さな思想団体に過ぎなかっただろうと推察できるでしょう。そのような中で、福音書記者は、今盛んな先輩宗教が謳っている神話のパロディを福音書へ盛り込んだのです。この箇所で言えば、ギリシャ神話のディオニソスローマ神話バッコスが、水をぶどう酒に変える故事を引き合いに出したわけです。当時の読者は、福音書のこの箇所を読んで、これは、ディオニソスの、あるいはバッコスの、あの神話の話をしているんだな、と気づいたはずです。

しかし、ただ、我々の新しい時代の指導者であるイエス様も、ディオニソスやバッコスと同じような能力があるんだぞ、ということではないだろう、このパロディが意味するところは何なのだろう、と、次を読み急いだでしょう。同じ福音書の続きの箇所には、こう書かれています。

「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

いかがでしょうか、ギリシャローマ神話では水がぶどう酒に変わって、すごいなあ、うらやましいなあ、で終わりだけども、我々の新しい思想は一味違いますよ、人は、生きながらにして新しく生まれ変わり、真実の生き方を知る機会がだれにでもある、ということを、あなたがたがよく知っている神話を引き合いに出して説明したのですよ、というわけです。パロディであることがわかってこそ、その意味が活きるのだ、ということもご理解いただけると思います。

しかし、キリスト教の地位を高めるために、福音書が他の宗教のパロディで成立している事実を押し隠そうとしてその痕跡を根絶してしまったので、却って真実からかけ離れてしまい、『福音書には奇跡が記録されている。イエス様は水の上をあるいた、水をぶどう酒に変えた、十字架で殺害されて三日目に復活した』、となってしまったのだ、ということですね。その結果、現在のキリスト教徒は、古代ローマ市民と同じ価値観で、すなわち、神は水をぶどう酒に変える能力があってすごいなあ、としか感じることができなくなってしまっているわけです。

水上を歩く、とは

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www.heartlight.org

 

福音書には、イエス様が水の上を歩いた、と記されています。マタイ4:26、マルコ6:49、ヨハネ6:15などがそうですね。

なぜ、イエス様が水の上を歩いた、と伝えられているのでしょうか、それは事実だからだ、と言う人がほとんどでしょう。聖書は市役所に保管されている、市議会議事録のようなもの、あるいは法務局で閲覧できる登記簿のようなものだ、と考えているひとにはそのようにしか考えることができないのも無理はないかもしれません。

しかし、福音書でイエス様は、喩えを用いて説明をしますよ、と言っておられます。つまりそこから、福音書はそれ本体にも喩えが用いられているだろう、とも考えることができるはずです。イエス様は正しい人のプロトタイプなのであって、その示唆するところのメソッドには倣うべきであった、と考察することは不自然なことではありません。

そう考えて、どの水上歩行のエピソードでも、その直前に、群衆を前にして説教を行っていた、という点に注目するのであれば、その斬新な教説に対して、反対意見を主張するものがいなくはなかっただろう、と推察することができると思います。

エス様に近寄り、あるいは暴力的に、または嘲笑し、罵倒するものもあったかもしれません。

逆風が吹きすさぶ水の上を歩いた、という記述には、そのときイエス様は、罵り返すようなことはせず、声高に反論もせず、ただ莞爾として、受け入れて聞いておられたのだ、という意味が隠されているのではないでしょうか。

まるで嵐の海を何事もなく歩くかのように、イエス様は世間の荒波を、何の難もなく過ごされた、弟子たちはその有様を見て、今までにこのような人を見たことがない、と驚嘆した、と記述されているわけです。

福音書は議事録ではなく、出来事になぞらえて精神性を伝えようとする説話なのです。神が行った、人間には不可能で不思議なお話、として済ませてしまったのでは、その本意は失われてしまうばかりです。

同性愛者のキリスト教徒としての立場

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www.churchmilitant.com

 

本ブログでは数度に渡り、キリスト教と同性愛との関係について考えるところの記事を書いてきました。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

記事「同性愛」では、聖書で同性愛を禁じているように読める箇所の意味について、

この命令は、同性愛を禁じる命令では無くて、敵対国の習慣に同調するな、ということを言っているわけです。具体的に言えば、ギリシャ少年愛です。同性愛そのものではなくて、ギリシャの風習に侵食されるな、イスラエルの独自性を守れ、というのが本当の意味なのです。

だから「女と寝るように男と寝るな」と表現されているのです。同性愛者は女と寝るつもりで男と寝ますか?考えればわかることです。

ギリシャには風習としての女性同性愛はなかったので女性については言及されていないわけで、本当に同性愛そのものがダメだというのであれば、男女とも明確に禁止されているはずではないでしょうか。

男であれ、女であれ、真剣に心の底から好きになったものが同性であったとして、それを罰する神は合理的ではありません。神は、叡智の限りを尽くして作り出された人間の道具です。そんな不合理なものを神として君臨させるはずがないのです。

というように解釈してみたのですが、某SNSで同性愛問題についてのお話がありましたので、この解釈を説明したときに返ってきた、ある牧師さんのお答えがこちらです。

少年愛も問題ですが、「女と寝るように男と関係を持っている」というような文言もありますから、聖書には「同性愛差別はない」とは言い切れないでしょうね。
それより大きな問題は、聖書の文言を使って、クリスチャンが実際に差別や殺人が行われているということです。

こちらとしては、キリスト教徒にとって聖書の記述は絶対的なものであって、聖書の記述は消してしまうことができないのだから、実際的な解釈を丁寧に行えばどうだろうか、というアプローチをおすすめしたわけですが、リベラルな立場に軸足を据えておられる牧師さんでさえ、問題の聖書の箇所を読んで、同性愛者を否定する表現だとしか言えない、とおっしゃるわけですから、これはもうお手上げです。キリスト教は同性愛者を排斥するものなのだ、ということになってしまうのでしょう。

僕の考えとしましては、聖書全体を丁寧に読んでいけば、その言葉の裏に隠れている真意を読み解いていけば、同性愛を禁じてはいない、という結論を導き出すことができるはずだ、と思っているのですが、現場の指導者が、しかもリベラルな立場の方が諦めておられる、ということですから、われわれ部外者がどうこう言う余地は無い、ということになってしまうのでしょう。

それであれば、あっさりと諦めて、同性愛者のキリスト教徒で、差別されている、あるいは表明すれば差別されるだろうから、苦しいけど黙っている、という方は、別に我慢し続けなくとも、キリスト教をやめればいいのです。

いや、我慢しても、キリスト教徒であることのメリットが大きいんだ、とおっしゃる方は、仕方がありませんのでそのまま我慢なさってください。

しかたありません。キリスト教という世界はそういう世界なのです。

賀川豊彦について

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前列中央が賀川豊彦プリンストン大学に留学する前に、スラムの子供たちと

core100.net

賀川豊彦をご存知でしょうか。貧者の救済や平和運動などに生涯をささげたプロテスタントキリスト教徒で、生協(コープ)の創設者でもある人です。

僕は、キリスト教にどのような問題があろうとも、他にどれほど汚れた痕跡をみようとも、この清廉潔白な神の笛一本があれば、充分にキリスト教の真実を知るところの鑑たりうると信じていました。

例えば、賀川の業績の一つ、次の記述をお読みください。

1919 消費組合というものは、生産階級と消費者が結びあって、社会的秩序と互助組織をつくるものであり、そうすることによって商業上の投機もなくなり、労働階級からの搾取もなくなると、賀川は確信した。そこでまず、大阪に購買組合共益社を、1921年には神戸購買組合、灘購買組合、1926年に東京学生消費組合、1927年に江東消費組合、1928年に中郷質庫信用組合をそれぞれ組織した。中郷質庫信用組合というのは、スラムの人々が気楽に出入りでき、手軽に安い利息で品物をあずけて金を借り、約束の期日にたとえ支払ができなくとも、品物に対する権利がなくならないようにと、自分たちの手で質屋を経営しようというのがその主旨であった。この企ては全くスラムの人々に福音となり、ながく利用されて今日に至っている。

賀川の具体的で実践的なアイデア、精力的な実行力が、現実の世の中に救済を施す有様を知るに及んで、まさに神の力が世に及ぶところの実際を知る思いをいたしました。

 

しかしながら、実際はそれほど単純なものではありませんでした。賀川の業績が偉大なものであることには違いはありません。それは変わりはしないのですが、Wikliの「賀川豊彦」には次のような記述があります。

大宅壮一によると、賀川はクリスチャンかつ労働運動・社会運動の指導者的立場ながら、昭和天皇・皇室の熱烈な支持者でもあり、日本社会における天皇天皇制)の存在意義を積極的に認めていたという。日本社会党結党の際には、中間派の浅沼稲次郎らと共に中心メンバーとなり、結党大会で「天皇陛下万歳」三唱の音頭を取ったことで、社会党左派との内部対立を引き起こした。 

 また、このような記述も。

自身が結成した日本MTLを率いてハンセン病患者への宣教と慰問を中心に活動していたが、やがて、優生学に傾倒しハンセン病患者の淘汰を目的とした無癩県運動へと活動の重点を移していった。

また、夜の仕事に就く女性、就かざるを得ない女性に対しても、女性差別的な持論を展開している。連合国軍占領下の日本において米兵による婦女子の強姦事件が多発していた頃、『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘した。

別に天皇家を尊敬するな、とまでは言いませんが、キリスト教徒の社会主義者が「天皇陛下万歳」とはどういうことなのでしょうか。

無癩県運動とは、癩病患者を摘発し、療養所に強制収容させた社会運動であって、罹患者が療養所内で一生暮らす事を強いられ、ハンセン病に対する誤解偏見を助長するところの、誤った運動であったと評価されるものでした。賀川一人が誤ったわけではありませんが、人に寄り添う心の持ち主であれば、避け得た愚行であったのではないかと思わざるを得ません。

また、強姦の被害女性に対して、彼女自身に欠陥があるからそういうことになるのだ、という発言はどうでしょうか、キリスト教徒として正しいのでしょうか。また、売春を行う女性に対して、精神分裂病患者だと言うのはどういう理屈なのでしょうか。

幼少時より、心から尊敬していた人が、偏見と差別という闇を心に潜めた低劣な俗人だったとは情けない話です。

キリスト教から学ぶべきところは全くない、ということです(笑)。