
今回はユグノー戦争について見てみましょう。ユグノーとは、フランスにおける改革派教会および信徒のことです。上記のウィキペディアから引用します。
スペイン・ハプスブルク家の領地であったネーデルラントにもプロテスタントが浸透しており、スペイン王フェリペ2世はアルバ公を派遣して弾圧による恐怖政治で応じたが、1568年に北部ネーデルラント7州が反乱を起こしオランダ独立戦争(八十年戦争)が勃発する[9]。
フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーヴル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる[10]。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[注釈 1]、1550年代にはカルヴァンの指導の下で組織化が図られるようになった。
国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した[11]。さらに後継者アンリ2世は1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した[12]。
これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした[13]。プロテスタントは血統親王であるブルボン家のナバラ王アントワーヌを盟主に戴き、後により信仰に熱心なその弟のコンデ公ルイが中心人物となった[14]。
1559年に馬上槍試合での事故によりアンリ2世が死去すると、15歳のフランソワ2世が即位し、王妃メアリー・スチュアート(スコットランド女王メアリー)の伯父であるギーズ公フランソワとロレーヌ枢機卿が実権を掌握した[15]。熱烈なカトリックであるギーズ家はプロテスタント迫害を行い、これに反発した不平貴族がギーズ家打倒を図るが、逆襲を受け多数のプロテスタント貴族が処刑されてしまう(アンボワーズの陰謀)[16]。母后カトリーヌ・ド・メディシスに召喚され、宮廷に出仕したコンデ公も逮捕された。
1560年に僅か1年半の在位でフランソワ2世が病死して幼少のシャルル9世が即位すると、母后カトリーヌは本来は摂政となるべき第一血統親王のナバラ王アントワーヌと取引を行い、ナバラ王の辞退によりカトリーヌが摂政となり、代わりにコンデ公は釈放された[17]。実権を握ったカトリーヌは大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用してプロテスタントとの融和政策を採る[18]。カトリーヌはカトリックとプロテスタントの代表者による宗教会談(ポワシー会談)を開き、宗教融和を図るが、彼女の楽観的な見通しに反して、両者の信仰上の相違は大きく決裂に終わった[19]。
ユグノー(huguenot)というフランス・プロテスタントの呼称はカトリックとプロテスタントとの論争の際に生まれ、ドイツ語のEidgenosse(アイトゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である[6][20]。
檄文事件と聞くと、高校の世界史で習ったことを思い出します。
イギリスでは改革派教会及び信徒を、清教徒(ピューリタン)と呼びましたが、これも蔑称であるようです。カトリック教会と見た目上あまり差がないルーテル教会についてはそれほどでもありませんでしたが、見た目も異なる改革派教会に対しては、どの国も厳しい態度で接していたようです。
再び同記事からの引用ですが、フランス国内においてはユグノーとの対立はどのようなものであったかを見ていきましょう。
サン・バルテルミの祝日である翌8月24日夜明け前にギーズ公家臣の一団がコリニー提督の宿舎に押し入って彼を寝台の上で刺殺した。遺体は窓から投げ出され、暗殺者たちは国王と母后に供するためにコリニー提督の首を斬って立ち去り、残された体は群衆によって切り刻まれ、胴体はセーヌ川の岸辺まで運ばれて絞首台に吊るされ、そして「豚のように」焼かれた[73]。
その後、ルーヴル宮に滞在していたユグノー貴族をスイス人傭兵が中庭へと追い立て、そこで虐殺した[74]。ナバラ王と一部の貴族たちは、キーズ家の勢力を必要以上に増長させぬ配慮から死を免れている[75]。
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会の鐘の音を合図に宮廷外のユグノー貴族も襲撃・殺害された[76]。だが、事態はシャルル9世やカトリーヌの統制を越えて暴走し、サン=ジェルマン勅令以来、形成されていた緊張は民衆暴動のかたちで爆発する[77]。民衆が市内のプロテスタントを狩り立て始めた[78]。プロテスタントが家から逃げられないように道路に鎖が張られ、民兵や群衆がユグノー商家を略奪し、女子供そして赤子まで見境なく虐殺した[79]。死体は荷馬車に積まれ、セーヌ川に投げ捨てられた[80]。国王の制止にも拘らず、パリ市内での虐殺は3日間続いた[81][注釈 5]。犠牲者には哲学者ピエール・ラムスが含まれる。また、この虐殺の混乱に巻き込まれて多数のカトリック市民も殺害されている[82]。
酷い話ですね。どんどん殺していますよね。ここには引用しなかったものの、上記のウィキペディアの本文を読むとプロテスタント側も結構ひどいことをやっています。結局、同じキリスト教徒といえども、教派の違うものは異教徒なのですね。キリスト教徒は異教徒に対して不寛容なのです。日本のキリスト教徒は、周囲のほとんどを異教徒に囲まれていると言えると思います。知り合いにキリスト教徒がいるという方は気をつけておいた方がいいかもしれません。
最後に旧約聖書のなかから、異教徒せん滅を命じている箇所を引用しておきます。
そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。 '
サムエル記上 15:18
https://www.bible.com/ja/bible/81/1SA.15.18