キリスト教の問題点について考える

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身体障害者は神の道具か

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ヨハネ福音書の九章を読んでみましょう。

エスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」。 

この箇所を、身体的な盲人の話として読むと、真意にたどり着くことができません。これは、精神的な盲人についてのお話なのです。

身体的な盲人についてのお話だとすると、表題に示したように、神は、自身の能力である病人を癒やす力を誇示するためだけに、障害のある人を存在させているのか、ということになってしまいます。

 

上に貼ったリンクの画像は「馬頭観音」です。とても恐ろしい形相なので、仏法に従わないものや、不信心なものに対する怒りを表している、というように説明される場合がありますが、そうではなくて、煩悩の炎で燃え盛っている家屋(火宅)から早く出てこなければ焼け死ぬぞ、と必死になって人を呼び戻している形相なのだ、ということです。

「火宅から出て空を見上げて、真如の月を眺め飽かそう」、というわけです。

仏像は「目に見える説法」であると言われますが、ただ単に見ただけでその言わんとするところを全て感得することはできません。憤怒の形相であっても人を慈しむ仏法の心が表されている場合があります。福音書もこれと同じで、漫然と字面を追っているだけでは真髄にふれることができない場合があると思います。

 

しかし、福音書にはそんな紛らわしいことは書かれていない。盲人と書いてあれば目が見えない盲人のことに決まっている、と思われたでしょうか。では、イエス様のつぎの意味深長なことばを、その答えとしてご紹介しておきましょう。

ヨハネ福音書 9:41

エスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。