キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

ゼロ葬

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Widely Varying Funeral Service Prices Spark Controversy – Supportive Care Matters

 

先日、親族が亡くなりました。大変な高齢でして、早朝に病院で亡くなったのですが、数日間健康状態が良好だったこともあり、近親者が留守にしていましたので、こちらに連絡があり、手続きと処理を進めてほしい、ということでしたので、行いました。

病院で亡くなった、ということで、僕が行ったときには既に死亡診断書ができていました。夏場ということもあり、なにはともあれ、まずは火葬を済ませよう、ということで、葬儀社に連絡し、遺体を斎場へ運んで明日までの安置をお願いし、その足で役所へ行って死亡届を提出して火葬許可状を受け取りました。

翌日、火葬を行い、骨を骨壷に拾い集めました。

故人が生前、葬儀などは大げさにしないように、と言い残していた、ということでしたし、暑いさなか葬礼に集まっていただくのもどうか、ということで、所属教会に断った上、告別式は、故人が晩年教鞭を取っていた大学の関係施設のチャペルで、ささやかに行おう、ということになりましたので、その足で骨壺を持って電車に乗り、チャペルに向かいました。到着すると、既に親族が集まっていて、オルター前に遺影が用意されていましたので、骨壺をその後ろへ置きました。

酷暑の昼下がりなのに、牧師は、黒いカソックに、よく糊の効いたらしい純白のネックバンド、短白衣、黒のストール、という最上級の正装で、10名ほどの歌隊も黒の正装で、遺骨を迎えてくださいました。

あとは僕や帰宅した家族も含めて、遺族が10名ほどのひっそりとした式だろう、と思っていたのですが、どこで知って下さったのか、式が始まるころには、100名入れる程のチャペルがいっぱいになり、席に座れず、立ったままでの参加のかたもあるほどになりました。

献花などの儀式めいたことは省略して頂いて、とお願いしてありましたので、書簡の朗読、賛美歌、説教、と滞り無く進んでおよそ40分ほどでした。閉会の賛美歌は「神ともにいまして」でした。卒業式でよく使われる曲です。礼拝ではあまり使われない曲だと思っていましたので、少し意外な気持ちがしました。

 

斎場で、たまたま同じ時間に火入れとなったご家族がおられまして、お互い、暑いですね、ご家族ですか、などとお話をしたのですが、あなたも「ゼロ葬」ですか、と聞かれました。「ゼロ葬」とは初耳でしたのでお伺いしますと、お金がありませんし、参列者もどうせありませんから、葬儀はしないんです。墓も作りませんから遺骨は持ち帰らないで、全て斎場におまかせするんです。とのことでした。僕が一人だけで、お寺さんのご祈祷もなしで火葬している様子を見て、おなじくゼロ葬だろうと思ってそうおっしゃったのだと説明して下さいました。

僕も、そういうことに関しては合理的に考える方だと思っていたのですが、骨も持ち帰らない、ということを聞いて、驚いてしまいました。

キリスト教であれば、葬式のお礼としてお渡しする金額も数十万円で済みますが、仏式では、ホールなどで簡単に済ませたとしても、安くて100万円ほど、墓を新たに建立するとなると200万円ほどもかかるそうです。もう、なにもかも無しでいいや。ゼロ葬だ、となってしまうのも無理はないのかもしれませんね。 

マタイの福音書 22:32に、

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

とあります。葬儀や埋葬のめに、サラ金で借金をするようなことは、故人の本意ではないでしょう。ゼロ葬のほうがイエス様の指導に近いのかもしれません。

 

ゼロ葬についてはこちら  

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律法

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「律法」と聞くと、あの、禁止事項や命令がたくさん書かれている、いわゆる宗教規則のことだろう、と理解される場合がほとんどでしょう。日本の法律でも同じことです。してはいけないこと、何かを行いたいときに従うべき規則などが細かく定義されています。

法律って、結局のところ、何なの、どういうことなの? ってお考えになったことがあるでしょうか。法律を一言で言い表すとどうなるんでしょうか。法律とは、律法も同じですが、取りも直さず、

「良い世の中を実現しましょう」

ということを言っているのです。本当はそれだけで良くて、それ以外のことは何も言うべきではないのです。しかし、実際にはそれだけでは世の中は良くなりません。これが現実です。人間はそれほど頭が良くはないからです。良い世の中を実現するためには、これをしてはならない。その場合はこうしなければならない、と、細かな規定を文章化しておかなくてはなりません。すなわち、日本の法律であったり、聖書の律法であったりがこれですね。 

福音書を読んでみましょう。マタイ伝 5:17-18

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 

これを読んで、やはりエルサレムには唯一神殿が必要なのだ、と理解する人がいるようですが、よく読んでみると、イエス様は、律法や預言者を「成就するためにきたのである」と発言されていますよね。なぜならば、まだ成就していないからです。律法の文言を一つずつ、無機質に解釈し、そのとおりやればいいのだろう、と言ってそれを行ったとしても、それでは神の考えを実現したとは言えないよ、と言っているわけです。神は「良い世の中を実現しましょう」と言っているのです。禁忌事項を避ければそれでOK、ではないのだよ、ということです。

福音書ををもう一箇所見てみましょう。ヨハネ伝 8:4-7

 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

この箇所の礼拝説教では、罪人が罪人を裁くことの愚かさ、が指摘されているのだ、と説明されるのではないかと思いますが、「律法を一言で言うと何か」に照らし合わせて考えてみれば、ただそれだけでは無くて、もっと厳しい意味合いがふくまれている、と考えるべきでしょう。

すなわち、一人ひとりが律法の真髄を心から理解し、自分一人が無罪たらんと身を守ることでなく、世の中全体をみることこそがそのまこと、であることを知っているのであれば、そもそも、身を売ることによってしか生活することができない者が存在しないはずではないか、そのような貧窮者が存在する世の中をしか実現できていないことを、自らの恥とは思わないのか、

と言っているのです。

マタイ伝17:2-3に、

ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 

とありますが、これは、弟子たちがイエス様の説教を聞いて、それが、真実の律法であり、同時に真実の預言である、と感じた、と伝えているわけです。モーセは律法の、エリヤは預言の象徴として喩えられています。

 

いかがでしょうか。万人救済主義が間違いだとか嘆かわしいとかつぶやいている人がいますが、そんなどうでもいいようなことよりも、イエス様の発言の内容をきちんと理解しておいたほうがいいと思いますよ(笑)。

 

カトリック司祭300人以上が児童性的虐待か

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カトリック司祭300人以上が児童性的虐待か、米ペンシルベニア州」という報道がありました。引用してみましょう。

【AFP=時事】米ペンシルベニア州カトリック教会で300人以上の司祭が児童を性的に虐待したという信頼できる申し立てがあり、カトリック教会が長年隠蔽(いんぺい)してきた1000人を超える被害者が特定された。14日の大陪審の報告書で明らかになった。

 報告書はペンシルバニア州カトリック全8教区のうち6教区における児童の性的虐待について、目撃者数十人の証言と約50万ページの教会内部文書に基づいてまとめられた。これまでで最も包括的な内容とされているが、新たに起訴できる事例の件数は今のところ明らかになっていない。

 大陪審は記録が消失した、または名乗り出る勇気のない子どもがいることを考慮すると実際の被害者は「数千人」規模と推定している。

 教会の隠蔽により、ほぼすべての虐待事例は時効により起訴できないが、報告書はこの10年間に少なくとも2人の司祭が児童を性的に虐待したとしている。報告書によると被害者の大部分は少年で、多くは思春期前だった。アルコールやポルノで操られた例もあるという。【翻訳編集】AFPBB News

いかがでしょうか、キリスト教会は犯罪者によって運営されている団体だと言っても言い過ぎではないところにまで来ている、ということでしょう。

もともとそうだったのでしょうが、最近になってそういう事柄が明らかになりやすくなってきたのだと思います。

ペンシルベニア州カトリック教会には、300人の犯罪者がいて、1000人がその被害者だと言うのですから、目も当てられない悲惨な状況だと言えるでしょう。

偏見のそしりを恐れずあえて言わせていただきますが、これを見る限り、同性愛者には性犯罪に走りやすい、という本質があって、カトリック教会という組織はその温床となっている、と言えるのではないでしょうか。

おそらくは、自分たちのサラリーを献金として支払い続けてくれている信者の、子どもたちをも陵辱したのでしょう。自分たちの汚らわしい性器を、純真なこどものアヌスへ挿入して、人間性玩具にしてしまったのです。まさに鬼畜の行いですね。このような低劣な団体に所属し続けて、唯々諾々と金を支払い続けている方々も同罪だと思います。

もし本当に神が存在するのなら、笛吹けど従わない、愚かな山羊をしか育てることができなかった不甲斐なさを恥じて、舌を噛んで自死していることだろうと思いますよ。

やはり、カトリックは愚かな偽教会、とほくそ笑んだ人たち、これが明らかになったのはカトリックだからですよ。意味が理解できればいいんですけど(笑)。

体の中の光

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小知识:到底什么是碧玉猫眼? - 文集 - 藏玉网-专注传统和田玉

 

マタイの福音書を読んでみましょう。

マタイの福音書 6:22-23

目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。

直感的でない、というか、 一体何を言いたいのかよくわかりませんよね。

エス様当時のイスラエル辺りでは、生物の体の中には光の塊があって、ものを見るときには、眼からその光が出て対象を照らし、その反射を感じることによって、視覚が生じるのだ、というように考えられていたようです。

ギリシャ語を理解することができないので残念ですが、おそらくこのような箇所はギリシャ語原文を読んで理解することができれば、本来の意味を良く理解できるのでは無いかと思います。

そして、今回の記事で言いたいのは、その次の箇所です。

マタイの福音書 6:24

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

 前回記事で引用したルカの福音書にもよく似た表現が出てきましたが、これは、マタイの福音書19章に現れる資産家の青年に対する提言と同じことです。

重要なことは、どちらの箇所においても、イエス様は「今すぐ財産を捨て去って、神だけに仕える人生を選択しなさい」とは言っていない、ということです。そういう考え方もあるから、もし、実践したいのならやってみなさい、と言っているのです。

別に、財産や名誉にこだわって生きることが悪いわけではない。ただし、神に仕えて神の国を実現しようとするのであれば、まずすべての持ち物を捨ててからにせざるを得ませんよ、と指導しているわけです。

「教会」という組織そのものが「富」であることに気づくべきでしょう。欲得まみれの団体に所属しながら、イエス様の勧めに従うことはできません。「キリスト教徒である」という自覚さえ、眼の光を曇らせるマンモンの一部でしかありません。

神はオレオレ詐欺被害者を罰するか

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“Buying the Needy for a Pair of Sandals” (Homily for September 18) | Church of the Holy Trinity

ルカ福音書に「不正な管理人のたとえばなし」という説話があります。長くなりますが引用してみましょう。

ルカ福音書 16:1-13

「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」

最期まで諦めずに、力を尽くして最善の道を探りなさい、とか、神の恵みを有効に利用する知恵を働かせなさい、とかいうような教訓が含まれていますが、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。」という表現は面白いですね。この金持ちの主人は、自分の富が不正によって成されたものであることを、自ら認めているのです。全く不正なことをしないのであれば金持ちにはなれない。これが真理なのです。

話は変わりますが、「オレオレ詐欺」、最近深刻な問題となっていますね。その手口、中には色々あるのでしょうが、たとえば、このたとえ話のように、会社の金を使い込んでしまって、バレたら大変だから助けてくれ、という場合、それは大変、ということになって、実際に大金を渡してしまった、としましょう。

悪いのは詐欺犯であって、騙し取られた方はあくまで被害者です。お気の毒だと思います。ですが、仮に詐欺ではなくて本当の話だった場合、それは大変、と言って金を渡すのは正しいことでしょうか。違法行為にはならないでしょうか。仮に露見せずに上手く収まったとしても、もし神がいるのであればすべてお見通しだということになるでしょう。

神は、オレオレ詐欺被害者を笑って許すでしょうか、あるいは罰するのでしょうか。

LGBTとキリスト教

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news.yahoo.co.jp

 

また自民党議員が余計なことを言って叩かれていますね。自民党の議員は、なぜ言わないほうがよさそうなことを言ってしまうのでしょうね(笑)。

livedoorニュースの次の記事

blogos.com

によれば、杉田氏は、「LGBTの背景にあるのは左翼思想」であると考えているのであって、彼がLGBTを叩くのは、結局、保守思想のなせる業だと言えるのではないか、とあります。

まあ、いずれにせよ、叡智がつくされているかどうかと言えば、ちょっとそうとは考えにくい、というところでしょうね。

過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

などでは、冷静に聖書を紐解けば、キリスト教の神が同性愛を禁じたり、忌み嫌ったりしているとは考えにくいだろう、ということの説明をしたのですが、今回の自民党議員の発言中にある「LGBTは『生産性』がない」についてはどうでしょうか。議員の発言としてふさわしいかどうか、などの問題を度外視すれば、「LGBTは『生産性』がない」は「真実」です。彼らからは生命が生産されません。聖書を見てみましょう。

創世記 1:27-28

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 

聖書の神は、人間の男と女が愛し合い、子を成して地上を潤すことを希望しています。同性愛や性的な障害は禁止したり刑罰の対象であったりすることは無いでしょうが、この記述を見る限り、秩序に反するところであり、神の希望からは遠ざかる所以であると理解せざるを得ないでしょう。

 

古事記と三位一体

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過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

などでは、「三位一体」が必ずしもキリスト教のオリジナルではないのだ、ということを説明したのですが、日本の神話にも三位一体を彷彿とさせる物語があります。

まずは、『別天津神(ことあまつかみ)』という天地開闢のときに現れた五柱の神々のうち、『造化三神』と呼ばれる三柱の神々、

次に思い起こすのは、イザナギから生まれた『三貴子』と呼ばれる神々

 

これらの神々は、ただ三柱で一組のように扱われている、ということばかりではなく、キリスト教の三位一体との類似性を認めることができます。

造化三神の場合は、タカミムスビカミムスビについての業績はいくつか説明されているのですが、天之御中主神については、全く何の説明もありません。ただその名前が出現するだけです。

三貴子の場合も同様に、ツクヨミについての記述は何もありません。名前が現れるだけなのです。

これは、キリスト教において『聖霊』の業績が語られていないことと似ていると思います。

神が二体でも四体でもなく、三体に落ち着くのは、人間が感じるバランスなのでしょう。二体では、善と悪、ということになってしまって質感が損なわれますし、四体ではごちゃごちゃして落ち着きがなくなる。三体がちょうど良いのですが、三体ともに別の個性を与えてしまうと、神秘性が希薄になってしまいますので、内一体には何も語らせず、何も行わせずに、『秘密』というハッタリを含ませることによって、宗教的な価値を高めようとしているわけです。

世界中同じことを考えるのですね。びっくりしてしまいます。

聖霊さま」などと言いながら、泡を吹いて倒れる系統の教会をご存知だと思いますが、もし福音書聖霊が現れて福音を語っていたら、あの系統は存在しなかったでしょうね(笑)。