キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

Weapon としての聖書

f:id:christian-unabridged-dict:20171112093543j:plain

www.e6d.es

 

いきなり衝撃的な写真を貼り付けましたが、写っているのは、ピエトロ・ベレッタというイタリアの武器製造会社で、バチカン銀行は同社の大株主ですが、銃を構え、照準器を覗いているのはバチカン銀行担当のギャングスタ枢機卿です。

こちらもバチカン銀行に関する記事です。

www.elmundo.es

 

こちらは、米軍のライフル照準器に、聖書を示す刻印が刻まれている、という記事です。

www.dailymail.co.uk

 

f:id:christian-unabridged-dict:20171112094637j:plain

ヨハネによる福音書 8:12 が示されていますね。読んで見ましょう。

エスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

 

いかがでしょうか、驚かれましたか?

僕は、この程度のこと、当たり前だと思いますよ。結局、宗教というものは、それ自体が武器なのです。

十字軍、異端審問、新大陸侵略、キリシタンによる寺社破壊、国と国が、民族と民族が、家と家、家族と家族、人と人が争うために、宗教はあります。

偽善でなく、本当の意味で平和を実現するためには、宗教を捨てなくてはなりません。

断食

f:id:christian-unabridged-dict:20171109125335j:plain

www.geniuskitchen.com

 

大学2年のときだったと思いますが、麹町にある有名な教会で、超教派の学生のディスカッションがありましたので参加しました。会の終了後に、会場で仲良くなった5人が集まって、帰りに一杯飲もうか、ということになり、教会を出て上智大のキャンパスを赤坂の方へぶらぶら歩いていました。

当時、その隣にあるホテルでアルバイトをしていましたので、何気なくそんな話をしていたのですが、その話を聞いていた人が、この人はその場で一番年上のカトリック信者でしたが、その日は断食日で、肉食を禁止されているのだが、寿司なら大丈夫だから、そのホテルに入って寿司を食べよう、と言い出したのです。

居酒屋で野菜の料理でも注文すればいいんじゃないか、と思ったのですが、その人は一番年上でしたし、東大の理科の入試をトップクラスで突破した院生だということもあって、なんとなくその人の意向には従うべき、というような雰囲気がありましたので、結局ホテル内の寿司店で食事をすることになりました。

紹介割引を適用してもらったとはいえ、一割引です。一ツ木あたりの居酒屋へ入れば一人三千円程度で済んだものを、一万円ほど払うことになってしまいました。

僕はそのとき、福音書のある箇所が頭に浮かんで仕方がありませんでした。うっかりすれば口に出して言ってしまいそうで危なかったです。

 

マタイ福音書 6:16-18

断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

 

カトリックでは、レントの初日は断食日で、満腹になることと肉食を控えるという決まりがあるのだそうですが、誰のためにそういうことをするのかと言えば、やはり自分自身のためだと言うべきでしょうね。

現実は、断食日だが魚はOKだから寿司にしようと言って、高級寿司店に入ってしなくてもよい散財をする。しかも他人を巻き込んでまで。

でも、カトリックに限らず、イエス様が予見したとおり、こういうキリスト教徒は多いですよ(笑)。

Scarlet Letter(緋文字)

f:id:christian-unabridged-dict:20171108082305j:plain

trueclassics.net

 

The Scarlet Letter (緋文字)という小説をご存知でしょうか。ナサニエル・ホウソーンという人によって著された、フィクション作品です。

牧師と不倫し、子供を産んだのではないかと疑われた婦人が、胸に「A」(姦婦・Adultressの頭文字)の字を付けた服を着せられて、村人に虐められていた、というお話です。アメリカ・ニューイングランドの片田舎のピューリタンの村で、味方になって彼女を助ける者は一人もいませんでした。閉ざされたキリスト教世界が持つ、残虐なカルト性を描き出しています。

ピューリタンとは、カルバンによる改革の影響を受けて、英国国教会から分離した教会の一つで、アメリカン・ボードの宣教によって伝えられた、日本組合基督教会が日本にもたらされたピューリタンでしたが、日本基督教団に併合されて、特色は失われてしまっているように思います。日本基督教団でも、旧長老教会などは、その特色をよく保存しているようですが、組合教会にはあまり残っていないように見えます。

組合教会というのは、会衆派教会という意味で、同志社教会霊南坂教会大阪教会鳥取教会浪速教会天満教会島之内教会弓町本郷教会などが旧組合教会です。組合教会に関連する学校は、同志社大学神戸女学院大学桜美林大学など。

また、バプテスト教会ピューリタンの流れを汲む教会です。

喪中はがき

f:id:christian-unabridged-dict:20171107083335j:plain

bunshun.jp

 

立冬ですね。2017年の立冬は11月7日です。この日から2018年の立春、2月4日までの間が「冬」だということですね。

 

毎年だいたいこの頃にやってくるのが「喪中はがき」です。そしていつも、文面の表現がおかしいです。最近のを見ますと、

喪中につき新年のご挨拶をご遠慮申し上げます

とありますが、これでは、「遠慮」するのが、差出人なのか受取人なのかはっきりしませんね。

喪中と年賀の関係を正しく整理するのであれば、家族から死者を出したものは一年間穢れているので、年賀を申し上げることは失礼なことですから、こちらからは年賀をいたしません、ということになるでしょう。しかし、年内に喪中はがきを出すということは、喪中だから年賀のはがきをくれるな、という気持ちを表しているように感じます。

喪中の人は、喪中でありながら年賀を行うのは失礼だから行わない、喪中でない人は、礼儀として年賀を行うのであって、相手が喪中であろうとなかろうと関係ない、ということになります。ですから、喪中だからという理由で年賀を断ることは無礼なことなのです。また、年賀はしませんよ、と宣言することもおかしなことです。

喪中の家族に対して年賀を行うこと、年賀状を送ることは失礼でも何でもない、常識的な礼儀だということで、喪中の人が,年賀状のような お祝い事を行うことが失礼なこと、非常識なことだ、ということなのです。

それではどうするのが一番正しいのかといいますと、喪中の人は、「喪中はがき」を出さず、「年賀状」も出しません。受け取った年賀状に対しては、松が明けたころに、喪中だったので年賀を遠慮させて頂いた旨を書き添えた「寒中見舞い」を出す、ということになるでしょうか。死者を出して穢れていて、お祝いをできる立場ではないから年賀状は出せないのだ、ということですね。なお、「穢れている」というのは、汚らしい、ということではなく「気枯れている」という意味で、活き活きとしていない、意気消沈している、というような状態を表しています。これらは日本の神道の考え方です。

どうも、今、私は喪に服して悲しんでいる最中だから、祝いを寄越すような非礼なことは謹んでくれ、という気持ちで喪中はがきを出している人がいるような気がしますが、ものすごくトンチンカンなことだと思います。

 

さて、「キリスト教大辞典」にこの記事を書いているのはなぜかと言いますと、キリスト教徒からも喪中はがきが来るからです。この記事を読んでくださっているキリスト教徒の皆さんも喪中はがきを出したことがありませんか?あるいはキリスト教徒から喪中はがきを受け取ったことはありませんか?

喪中はがきを出すということは、「穢れ」という神道思想に従っていることになるのではないでしょうか。キリスト教徒も喪中だけは神道氏子に豹変するようです。しかも、こちらは今、悲劇の主人公中だからそれぐらい気をきかせろよ、と上から命令しているかのような滑稽な文面で(笑)。

保守と革新

f:id:christian-unabridged-dict:20171105083222j:plain

www.plenglish.com

 

保守 - Wikipedia を見ると、保守とは

保守主義(ほしゅしゅぎ、英: conservatism、コンサバティズム)または保守(ほしゅ、英語: conservative)は、従来からの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、革命などの急激な改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、勢力などを指す用語。

 と説明されていて、革新 - Wikipedia では、

革新(かくしん)とは、字句通りの意味では新たに革(あらた)めることを意味し、既存のものをより適切と思われるものに変更することを意味する。
伝統的な政治学の図式では、左翼(left)・社会主義(socialism)・共産主義(communism)、あるいは社会自由主義社会民主主義と同義で用いられる。一方、政治学以外では字義通り何かをより良いものに改めていこうとする「改革」(reform)と同義の抽象的な意味で用いられることも多く、「イノベーション」(innovation, 技術革新・刷新・更新・新機軸)の訳語としても用いられる。

 と説明されています。

それでは、キリスト教世界における保守と革新とは、どのようなものをいうのでしょうか。福音書から考えて見ましょう。

 

マタイによる福音 12:1-8

そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」。

 自らをダビデに、弟子たちを祭司にたとえているように読めば、いくらでも皮肉な解釈が出てきそうな箇所でもありますが、単純に読めば、「律法は人の命に勝るものではない」という意味を読み取ることができるでしょう。

 

マタイによる福音 21:1213

それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

「宮清め」と呼ばれるこの件で、イエスが批判したものは両替人や犠牲の動物を商う商人ではなくて、そのような商売をさせて、儲けから高額の手数料を得て肥え太る、祭司たち宗教関係者でした。

金含有率の高いフェニキアの貨幣でしか献金を受け付けないので神殿の広場で両替商に商いをさせ、献金ばかりか商人から手数料をむしり取って儲けにする、犠牲の動物は神殿の受付で受け取っては何度も使いまわしにしてごまかす。いわば、もうめちゃくちゃな神殿運営がなされていたのです。イエスはそのことに対して批判したわけです。

 

ヨハネによる福音 8:3-9

律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

 律法はゲームのルールではなくて、生きている人間を保護するための約束事なのだと言っているわけです。

 

さて、それではイエス様の考えは保守的だったでしょうか、革新的だったでしょうか。言うまでもなく革新的だったのです。

しかし実際には、教皇だの大司教だのと人の作ったヒエラルキーに加わって満足したり、同性愛者の肛門にビール瓶を突っ込んで殺したり、堕胎した女性を車で轢き殺し、それを行った医師を教会で銃殺したりする、また、什一と称して信者から金をくすねとる。イエス様が福音書で批判したことを、そっくりそのまま行っているのが、「保守的」と評価されているひとたちです。

キリスト教において、福音書的と評価されたいのであれば、革新的な発想でなくてはなりません。なぜなら、イエス様自身がそうであったからです。週に一度教会へ行ってつまらない説教を聞いて、歌を歌って気持ち良かったね、ではダメだということです。

 

本当のキリスト教らしさとは革新的であることです。保守的と評価される立場は、すなわち反キリスト的であるということ。そして、イエス様の思想を純粋に追求すれば、世の中に宗教は不必要である、というところへ行き着きます。

見てご覧なさい、教会が犯罪や蒙昧の温床である事実を。

聖書の精神性

f:id:christian-unabridged-dict:20171029174600j:plain

Psalms | Series |

 

人生のほとんどを未亡人として過ごし、最近亡くなった大叔母がいます。よく目を閉じて、「エホバは我がさけどころ、我が城、我がより頼む神なり」と、小声で詩篇を唱えていたことを憶えています。全てではないでしょうが、いくつかの詩篇を暗記していたようでした。これは詩篇91の一部ですね。全文を見てみましょう。

詩篇91

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
あなたはししと、まむしとを踏み、年汚いたししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

詩篇は、ヘブライ語で著された韻律文でした。また、対句法や折句などと言った様々な文学的技法が織り込まれていて、さらにそれらが押韻されている場合もあります。

たとえば、詩篇9,10,25,34,37,111,112,119,145には「アルファベットの歌」というサブタイトルが付けられているのを見たことがあると思いますが、これは、ヘブライ語のアルファベット、アーレフから始まって最後のターヴまでの22文字を頭に持つ単語で節を始める、という技法で、折句の一種です。他の言語に翻訳された時点で、これらの技法や韻律は全て失われてしまっています。

 

我々日本人は、日本語に翻訳された聖書を読みます。詩篇も同じです。これでおおよその意味を知ることができるかもしれませんが、音や言葉の組み合わせによってしか伝えられない「心」や「精神性」のようなものは切り捨てられてしまっているわけです。

ヘブライ語で読まれる詩篇91を聞いてみましょう。

youtu.be

残念ながらヘブライ語を理解することができないので、どこに韻があるのかはわかりませんが、「エホバ」とも「ヤハウエ」とも言わず「アドナイ(『主』の意味)」と言っているのはわかりますね。神を表すיהוה (神聖四文字、テトラグラマトン)に、エホバだのヤハウエだのと勝手に母音を付けて音読することなど、ユダヤ教としては考えられない暴挙です。神聖四文字は「アドナイ」と発音する。これは鉄則なのです。

 

月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月

という読み人知らずの歌がありますが、「月」という文字を8回使って、(旧暦)8月の中秋の名月は一年で一番の月だね、という意味が読み込まれています。まず5,7,5,7,7という短歌の形式が守られていて、「月」を繰り返して生じる音の面白さがあり、それが8回繰り返しているので8月を意味する、という言葉の遊びが歌の本意に含まれる、という複雑な多くの要素によって成立している歌です。これを、

english.cheerup.jp

You can see the moon in many months, but the best month to see the moon is this month. (This has eight times the Chinese characters to mean the moon and also the month, which shows that 'this month' means August.)

と翻訳してしまったものを見たとき、一体どれぐらいの割合で、その意味を伝えることが出来ていると感じますか? 50%ぐらい? もっと少ないように感じませんか。日本人でさえ、読んだだけではその真意を直感することはできません。まして外国人であってはどうなのでしょうか。

 

聖書もこれと同じことです。詩篇や雅歌、箴言ヨブ記、ダニエル書などの韻律文はもちろんのこと、それら以外の、一見散文に見える文書であっても対句や折句、押韻の技術は含まれています。

旧約聖書だけでなく新約聖書でも同じことが言えるでしょう。読んで理解しているつもりでも、実際にはほとんど解ってはいないのです。だから、キリスト教徒は聖書をマニュアルとしてしか利用できていないのでしょうね。

つまり、外国人は、なにをどうがんばっても聖書の本質を知ることはできないのだ、ということです。母国語がヘブライ語ギリシャ語であり、ネイティブとしてヘブライギリシャ文化に慣れ親しんでいるものであれば、キリスト教を理解できるのかもしれませんね。

 

死んだ眷属を貶めると、また批判されるかもしれませんが、大叔母も、迷信深い年寄りがお題目や念仏を唱えるのと同じような感覚で詩篇を唱えていたのでしょう。そう思います。

 

言伝え

f:id:christian-unabridged-dict:20171024092024j:plain

www.myjewishlearning.com

 

 ※この記事では、キリスト教でいう「旧約聖書」を「聖書」と表現します。

 

福音書には「言伝え」という表現が出てきます。引用してみましょう。

マタイ福音書 15:1-6

ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。

 律法には、成文律法と口伝律法があって、成文律法とは聖書の最初の五書のことで、口伝律法はキリスト教には伝わっていませんが、モーセが神から直接授けられたものとされていて、ユダヤ教では「タルムード」としてまとめられています。イエス様が福音書で批判した「言伝え」とは、この口伝律法のことでした。

ユダヤ教の律法は、聖書を読んだだけでは、抽象的で何のことなのかよくわかりません。だからかってな解釈が横行します。たとえばレビ記に「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。」と書いてあれば、これは多分同性愛者のことだろう、と解釈して、同性愛者を排斥するわけです。

しかし、実際には、成文律法は律法の骨子なのであって、それだけでは充分な理解を得ることができないので「口伝律法」で補い、肉付けをして、具体的な意味がわかるようになるわけです。

本来であれば口伝であって、文書にはなっていないものであったのですが、2世紀の末頃、文書としてまとめられたものが「ミシュナー」で、それに解説を付け加えた文書を「タルムード」といいます。

 

恐るべきユダヤ悪魔教の教典タルムード!! というサイトには

タルムードはいわば、へ理屈ラビ(ユダヤ教教師)の妄言集みたいなもの。
聖書のことばをねじ曲げ、人間的な教えに変え、
教師、ラビを「盲人を導く盲人」とし、信者を「自分に倍まさるゲエナの子」にするのに
用いられる。それは、聖書ではなく、聖書の忠実な注解書でもなく、逆に
それは、人々が神のことばに難くせをつけ、へ理屈をいい、
ないがしろにするべく、冒涜の民とするのに用いられる。それは、端的にいえば、悪魔の書である。
以下のタルムードの記述を見よ。

と、さんざんな悪口を並べていますが、これでは異教徒を「豚」と蔑むタルムードと同じですね(笑)

しかし、民族宗教が、その民族を本位にして教義を展開するのは当たり前のことでしょう。タルムードを捨てて聖書を読んだところで、本来の意味が理解できるはずがありません。

 

たとえば、こんなのがあります。

【タルムード珠玉の処世訓】 から

”よく学べ” ただし受け身であってはいけない。

”よく質問せよ” 他人に対してだけでなく自分自身にも」。

”権威を認めるな” 進歩は既成の権威を否定するところから始まる」。

”自己を世界の中心に置け” 他人を軽んずることではない

”幅広い知識を持て

”失敗を恐れるな” 失敗は挫折ではない、その裏側に成功がある、それだけ成功に近づいたと思え

”現実的であれ” 自然に生きろ、可能性と限界を知り無理をしてはならない

”楽観的であれ” 明日は進歩を書き込む白紙、ゆとりを持って白い紙に書き込もう

”豊かなユーモアを持て” 笑いは意外性によってもたらされる。

”対立を恐れるな” 進歩は対立から生まれる。

”創造的な休日を送れ” 人間の真価は休日の送り方で決まる。

“家族を大切にせよ” 家は自分を育てる城である、自分の家を大切にせよ。

イイコト言ってるじゃん、別に捨てなくてもいいのに、と思われたでしょう。でもこんなのもあります。

 

「タルムードの中身その2、悪の論理」 より

「汝等は人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」(ババ・メチア、146の6)。
「世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼等はことごとく空皮に過ぎざればなり」(イェシャヤ法師)。
イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば、豚と呼ばるるなり」(ロイベン法師)。
「汝等イスラエル人は人間なれど、他の民族は人間に非ず。彼等の魂穢れし霊より出でたればなり」(メナヘム・ベン・シラ法師)。
「悪魔と世界の諸民族とは、畜獣に数えらるべきなり」(ナフタリ法師)。
「犬は異邦人より勝れたるものなり」(アシ法師)。
「ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である」(トセフタ・ミクワト、vの1)。

結構酷い内容ですよね。ユダヤ人でないものは人間ではない。汚れている、なんていう部分をローマ国教の正式な教典にはできません。だから福音書で「こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。」と発言させて、これを排斥してしまったわけです。

しかし、イエス様がユダヤ人家庭に生まれ、ユダヤ教の習慣に従って成長した実在の人物であるのなら、聖書とタルムードが、別々のものであるような評価を行わないでしょう。どちらも同じ律法なのですから、それを批判するということは神やモーセを批判するのと同じことであったはずです。このことからも、キリスト教発足のために設定された架空の人物であることがわかります。

タルムードを捨ててしまったせいで、聖書は難解な呪文の羅列に成り下がってしまいました。そんなことをするぐらいなら全部捨ててしまえばよかったのです。

 

申命記にはこのような記述があります。

申命記2:31-36

時に主はわたしに言われた、『わたしはシホンと、その地とを、おまえに渡し始めた。おまえはそれを征服しはじめ、その地を自分のものとせよ』。
そこでシホンは、われわれを攻めようとして、その民をことごとく率い、出てきてヤハズで戦ったが、
われわれの神、主が彼を渡されたので、われわれは彼とその子らと、そのすべての民とを撃ち殺した。
その時、われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。
ただその家畜は、われわれが取った町々のぶんどり物と共に、われわれが獲て自分の物とした。
アルノンの谷のほとりにあるアロエルおよび谷の中にある町からギレアデに至るまで、われわれが攻めて取れなかった町は一つもなかった。われわれの神、主がことごとくわれわれに渡されたのである。

異教徒を排斥するどころか、皆殺しにしたことの記録ですね。聖書にも言伝え的な民族優先の要素が顕れています。

ユダヤ教というのは民族宗教です。そもそも世界宗教なんていう都合のよい宗教は存在しません。民族宗教が、自国の領土を侵す他民族を貶して何が悪いのでしょうか。当たり前のことだと思いますよ。

キリスト教ユダヤ教の臭い部分を削ぎ落として洗練させたつもりでいるのかもしれませんが、本来の意味を理解できていなかったので、結局は陳腐化させてしまっただけです。

言い伝え部分は聞き苦しいから除外した。それでは、聖書の本質を知ることができません。そもそも、ユダヤ人でも無いものが聖書を知ることは不可能なのです。まず、非ユダヤ人を「豚」と罵ることができてから聖書を開いてみてはいかがでしょうか。

 

もう一度、恐るべきユダヤ悪魔教の教典タルムード!! を見てみましょう。

聖書のいう「殺すなかれ」とのことばは、イスラエル人を殺すなかれ、との意味である。
異邦人は、人でないので、いくら殺しても良いとのタルムードの教えは隣人パレスチナ人を虐殺する、彼らユダヤ人により実践されている。この様な異端教理に従うユダヤ人は、聖書の民と言うより、聖書を曲解する悪魔の民と呼ぶべきではないのか?

笑止千万です。聖書との関わりでいえば、キリスト教徒よりもユダヤ教徒のほうが先輩だという事実を知らないのでしょうか。モーセは神から成文律法と口伝律法を授かったのですから、タルムードには聖書と同じ権威があるのです。

『聖書のいう「殺すなかれ」とのことばは、イスラエル人を殺すなかれ、との意味である。』これが、聖書の真意なのです。