キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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聖書の精神性

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人生のほとんどを未亡人として過ごし、最近亡くなった大叔母がいます。よく目を閉じて、「エホバは我がさけどころ、我が城、我がより頼む神なり」と、小声で詩篇を唱えていたことを憶えています。全てではないでしょうが、いくつかの詩篇を暗記していたようでした。これは詩篇91の一部ですね。全文を見てみましょう。

詩篇91

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
あなたはししと、まむしとを踏み、年汚いたししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

詩篇は、ヘブライ語で著された韻律文でした。また、対句法や折句などと言った様々な文学的技法が織り込まれていて、さらにそれらが押韻されている場合もあります。

たとえば、詩篇9,10,25,34,37,111,112,119,145には「アルファベットの歌」というサブタイトルが付けられているのを見たことがあると思いますが、これは、ヘブライ語のアルファベット、アーレフから始まって最後のターヴまでの22文字を頭に持つ単語で節を始める、という技法で、折句の一種です。他の言語に翻訳された時点で、これらの技法や韻律は全て失われてしまっています。

 

我々日本人は、日本語に翻訳された聖書を読みます。詩篇も同じです。これでおおよその意味を知ることができるかもしれませんが、音や言葉の組み合わせによってしか伝えられない「心」や「精神性」のようなものは切り捨てられてしまっているわけです。

ヘブライ語で読まれる詩篇91を聞いてみましょう。

youtu.be

残念ながらヘブライ語を理解することができないので、どこに韻があるのかはわかりませんが、「エホバ」とも「ヤハウエ」とも言わず「アドナイ(『主』の意味)」と言っているのはわかりますね。神を表すיהוה (神聖四文字、テトラグラマトン)に、エホバだのヤハウエだのと勝手に母音を付けて音読することなど、ユダヤ教としては考えられない暴挙です。神聖四文字は「アドナイ」と発音する。これは鉄則なのです。

 

月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月

という読み人知らずの歌がありますが、「月」という文字を8回使って、(旧暦)8月の中秋の名月は一年で一番の月だね、という意味が読み込まれています。まず5,7,5,7,7という短歌の形式が守られていて、「月」を繰り返して生じる音の面白さがあり、それが8回繰り返しているので8月を意味する、という言葉の遊びが歌の本意に含まれる、という複雑な多くの要素によって成立している歌です。これを、

english.cheerup.jp

You can see the moon in many months, but the best month to see the moon is this month. (This has eight times the Chinese characters to mean the moon and also the month, which shows that 'this month' means August.)

と翻訳してしまったものを見たとき、一体どれぐらいの割合で、その意味を伝えることが出来ていると感じますか? 50%ぐらい? もっと少ないように感じませんか。日本人でさえ、読んだだけではその真意を直感することはできません。まして外国人であってはどうなのでしょうか。

 

聖書もこれと同じことです。詩篇や雅歌、箴言ヨブ記、ダニエル書などの韻律文はもちろんのこと、それら以外の、一見散文に見える文書であっても対句や折句、押韻の技術は含まれています。

旧約聖書だけでなく新約聖書でも同じことが言えるでしょう。読んで理解しているつもりでも、実際にはほとんど解ってはいないのです。だから、キリスト教徒は聖書をマニュアルとしてしか利用できていないのでしょうね。

つまり、外国人は、なにをどうがんばっても聖書の本質を知ることはできないのだ、ということです。母国語がヘブライ語ギリシャ語であり、ネイティブとしてヘブライギリシャ文化に慣れ親しんでいるものであれば、キリスト教を理解できるのかもしれませんね。

 

死んだ眷属を貶めると、また批判されるかもしれませんが、大叔母も、迷信深い年寄りがお題目や念仏を唱えるのと同じような感覚で詩篇を唱えていたのでしょう。そう思います。