キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

牧師のお仕事

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tenki.jp

面白いツイートがありましたのでちょっとちょっかい出して見ました。 

細かく全部引用することもないでしょうからやめておきますが、要するにこの牧師さんは、信者のユーティリティにはなりたくないのだ、と考えているわけです。

もし僕がキリスト教信徒であって、神の召しを感じて牧師への道を志したのであれば、間違いなく信徒の奴隷としての立場を甘んじて引き受けるでしょう。だって、牧師の仕事ってそういうことなんじゃないんでしょうか。

聖書を読んでみましょう。マタイによる福音書10:5-14

エスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。

「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。」とありますよね。要するに、徹底的に奉仕しなさい、という意味だと解釈すべきだと思うのですが間違っているでしょうか。

牧師は信徒のなんでも屋になるべきなのかなるべきでないのか、わからないのなら神に聞いてみたらどうですか、と勧めてみたのですが、その答えは、「神には聞かない、そして信徒のなんでも屋にはならない。それが教会上層部の意向だから」というものでした。

全く呆れたものだと思います。それではカトリックの犯した失敗の二の舞でしかありません。カトリック教会は、神に聞くことをやめて、教会の利益を優先しようとしたので堕落したわけでしょう。それと同じ構図を感じます。

結局、牧師(神父も同じことですが)というのは、神に命を捧げて神の道具となるために選ばれる職業では無いわけです。楽に生きていくための方法でしか無いのですよ。

キリスト教徒の皆さん、あなた方は金づるでしかない。こういう現実をしっかりと見るべきだと思いますけどね。