キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「関係ありません」

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大学生のときの話ですが、クリスチャンでは無い学友を教会へ連れて行った時に、その学友が教会の掲示板を見て、「キリスト教って言っていることと実際が違うよね」と言いました。掲示板には

当教会は、ものみの塔(エホバの証人)、統一教会モルモン教とは一切関係ありません。

 と書いてありました。

「関係ありません」の意味は、この教会は、いろいろな問題で世間を騒がせている、ものみの塔(エホバの証人)、統一教会モルモン教の教会ではありません、ということなのでしょう。つまり、それらの教会は、組織も所属する人も、すべて悪意だけによって成り立っているのだ、と決めつけているわけで、そのことを堂々と文字にして、一般社会に向けて宣言しているわけです。これは「キリスト教的」でしょうか。

「言っていることと実際が違うよね」と言われても仕方が無いでしょうね。

カトリックでは「信徒使徒職」、プロテスタントでは「万人祭司」と言って、キリスト教徒には、非キリスト教徒に対して宣教を行うところの務めがあるのだ、と理解しているのですが、ものみの塔(エホバの証人)、統一教会モルモン教の教会とそれらの教会員に対しては行わないよ、と予め宣言していることになります。イエス様は罪人を招くために世に来られたのだと理解しているはずなのに、キリスト教徒には「救いたくない人」がいるわけです。

以前の記事「キリスト教の救いと仏教の救い」で、イエス様はイスカリオテのユダを犯罪に追いやった、と書きましたが、イエス様の弟子である現代のキリスト教徒たちも、ユダを救おうとはしないようです。この主(あるじ)にこの弟子あり、ということなのでしょうか。

 

という記事をご覧ください。「キリスト」が救いであるどころか、苦悩の元凶である人がいる、という現実です。同じ神を仰ぐ者として、これを「関係ありません」と切り捨てて、「キリストに倣うもの」と言えるのでしょうか。

エリコへ下る道で強盗に襲われて倒れている者を見捨てて過ぎ去ったものは祭司とレビ人でした。このたとえの通り、現代の祭司たるキリスト教徒も病人を見捨てるばかりか、「無関係」の看板を立てて、決してその血で汚れたくないのだ、と宣言しているのです。これが「キリスト教徒」の現実だというわけです。