キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

3月25日は神のお告げの記念日

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sanpaolo.or.jp

カトリック教会において、3月25日は「神のお告げ」を祝う祭日です。福音書を読んで見ましょう。

ルカによる福音書 1:26-31

六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。

いかがでしょうか、ガブリエルがマリヤ様にあらわれて、妊娠のことを告げたと記されてはいるのですが、それが何月何日かは説明されてはないのに、3月25日がその記念日だというのです。

なぜかというと、12月25日がクリスマス、イエス様が生まれた日だからです。その9ヶ月前の3月25日あたりに受胎したはずだ、という計算上の記念日だということです。

カトリック聖パウロ修道会の公式サイトから引用してみましょう。

sanpaolo.or.jp

「神のお告げ」の祭日が、3月25日に祝われるのは、主の降誕の日(12月25日)から逆算して、9か月前に受胎があったとする単純な理由によります。歴史的に、イエス・キリストが生まれた正確な日付けは明らかではありません。主の降誕が、なぜ12月25日に祝われるようになったのか、ということについても、諸説があり、明らかではありません。私たちにとって大切なのは、「いつ」という歴史的問題ではなく、「それが何を意味するのか」という信仰の問題なのです。

カトリック教会に限らず、キリスト教は12月25日はイエス様の誕生を祝う祝日ではなく、救世主が人の身をとってこの世に来られたことを記念してお祝いする日だと説明しています。

しかし、それならば、ヒトの妊娠期間を考慮して、受胎の記念日を策定する必要はないだろう、と思うのですがどうでしょうか。

嘘と詭弁と言い訳だらけ。そんな印象を受けてしまうのは僕だけなんでしょうか。

キリスト教と理性

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study.com「「

 

キリスト教は「理性的」である必要があるのでしょうか。僕はあると思います。どのようなことであれ、世の中の行いの中に、理性的でなくても良いものがあるとは思えません。

音楽や絵画には理性的である必要は無いのではないか、と思われるかもしれませんが、「旋律学」や「和声学」、「対位法」といったような「理性」を理解しないまま作られた楽曲は音楽としての体を成さないでしょうし、演奏についても、絵画や造形であってもまた同様です。理性に反するもの、不合理であるものは世の中に受け入れてもらえないし、どのような局面においても、何の価値も存在しない、ということができるわけです。

さて、それでは、キリスト教の理性的では無い点とは何でしょうか。それは「神の存在を証明できない」ということです。

そう言うと、神の存在なんて証明できなくて当たり前だ、そこを信じることが信仰だ、と反論するでしょう。しかし、それこそが、キリスト教が反理性であることの原因であって、神が存在するというのであれば、神が創造した世界が理性によって組成されていることと相反するという事実が即ち、キリスト教が矛盾であり、不合理であることの表白となってしまっているわけです。

キリスト教が、個人的な思い込みに過ぎないものであるならば、証明する必要はありませんし、理性的であろうとなかろうと、別に気にする必要はありません。しかし、経済性や社会性を有し、産業としての様態を示している以上、確固とした理性をもって、その本体の説明が可能であることが求められます。

キリスト教が、「理性」を神の創造によるものでは無い、と説明するのであれば話は別ですが、逆に、理性は、神の創造による最も高いものである、と考えているように思います。それであれば、理性によって神を説明しなくてはならないでしょう。当然のことだと思います。

実際のところ、せいぜい「神はいるかいないかわからない」と考えているか、「多分神はいないだろう」、できるだけ好意的にかんがえても「神はいたほうがいい」、「きっと神はいるだろう」と、キリスト教徒はそう考えているはずです。そうでは無い。神の存在を確信している、と主張する人でも、人に対して神の存在を明確に証明することはできないはずです。それでは「確信」と言うことはできません。

キリスト教徒が神を信じる、と言うその理由は、もし神が実在したときに、信者であればそのほうがトクだし、未信者であればソンをするから、という程度の話でしょう。実際、本当に神を感じて、福音書の説諭に感銘を受けて、というなら、そんなことは発言しないでしょう、と感じてしまうような人ばかりが自分はキリスト教徒だと主張したがる人であるように感じます。

結局、キリスト教という文化は、不合理を売り物にして金儲けをする産業なのだ、ということではないでしょうか。そうではなくて、キリスト教は理性的な正しい教えだといいたいのであれば、『実際のところ、神はいるかいないかわからないが、もしいたらこう言うであろう、だからこのようにしうよう』と指導するべきだと思います。

「ロゴス」とは「理性」という意味の言葉です。ヨハネ福音書の冒頭にはこの「ロゴス」が使われていますが、「言葉」と訳されています。これを「理性」に置き換えてみると、次のようになります・

初めに理性があった。理性は神と共にあった。理性は神であった。この理性は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この理性に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

これであれば、文句なく納得することができます。神は存在するとかしないとか、そういう絵空事では無いということです。理性そのもののことを、仮に「神」と呼ぶならば、ということで、色々な物事を理解してみよう、という提言。これが、福音書記者の思惑であったならば、と考えてみるのはどうでしょうか。

キリスト教の知的レベル

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playing-engineer.com

 

ネットに「宗教とIQの関係について、宗教間で信者の知的レベルに差があることが示唆される」という記事を見つけました。

world-fusigi.net

引用してみましょう。

趣味として、以前に自分で分析したデータがある
興味深いので公開してみることにする

結論から言うと、宗教間で信者の知的レベルに差があることが示唆される
元となるデータはネット上の国際統計をいくつか用いた
あくまで原始的なモデルによる概算だが、以下のような結果が出た

<平均IQ>
無宗教者    98.7
仏教徒    97.5
キリスト教徒 88.9
イスラム教徒83.6
世界平均89.3

何を元にしたのか、サンプル数はどれぐらいあったのか、が明らかにされていませんので、どれぐらい正確なのかがよくわからないのですが、まあ、そんなもんだろうな、と思わせる数字ではあるように思います。

結局、無宗教者とは、拒否する能力を有するものであって、知的レベルが発達しているものだということでしょうね。無神論者という言葉もありますが、これは無神論という宗教のようなもののことであり、無宗教とは別のものです。

仏教というのは、実際には宗教ではなく、哲学の一つであり、キリスト教などの宗教とは比べ物にならない、高度で複雑な論理によって組成された思想であって、どちらかと言うと無宗教に属するところであろうと思われますから、無宗教者の数値とよく似ていることは納得されるところだと思います。

冒頭の画像で引用したサイトの記事「世界最古の宗教ですら。。。」にあるとおり、宗教というのは、売春と同様、原初のそれからしてすでに「産業」であったわけです。

「完全な神」が、生殖の区分としては「男性」だ、と聞いた時点で一笑に付さなければなりません。知性的な発達を欲していないならば別ですが(笑)。

聖職者の仕事

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www.ecaglobal.org

 

キリスト教で「聖職」とは、カトリック教会の助祭以上、正教会輔祭以上の肩書を有する教役者であって、プロテスタントの牧師は「聖職」ではありません。学校の教師を「聖職」という場合は、文学的な概念でいうのであって、そういう意味であれば、プロテスタントの牧師も、正式な名称は「教師」である場合が多いことでもありますので「聖職」である、ということは大間違いではないかもしれませんが、キリスト教でいわゆる「聖」を厳密にするのであれば、牧師は「聖」である職業とは言えない、ということになるでしょう。プロテスタント教会に「聖職者」はいません。牧師は信仰生活上、信徒と同格である。このことを知らない人が多いように感じます。だからといって、尊敬する必要は無いと言うわけではないのですが、そういう点においてもカトリックや正教とは違うのだ、ということです。つまり、プロテスタントは、人間の職業に「聖」である指標を設けて、その職業に就いたものを神のように崇めてしまう、という危険を避けているわけです。

さて、神父や牧師と言われる人たちの仕事とは何でしょうか。中には学校の教師や病院の医師などを兼務している、という方もおられるようですが、大半は神父だけ、牧師だけが仕事であるという人です。そういう人たちにとって、実際、仕事と言えることは、日曜日の礼拝だけです。一週間のうち、拘束時間は、せいぜい週に二時間、一ヶ月でわずか八時間です。カトリックの司祭であれば、毎日ミサを立てる義務がありますが、平日の読唱ミサなんてせいぜい三十分程度のものですから、一般的なサラリーマンに比べれば、通勤する必要も無いのですから楽なものです。

中には司祭、牧師の不足のせいで、いくつかの教会を巡回する人がいるかもしれませんが、それでも、サラリーマンが、製造や販売のノルマに追われて仕事をすることに比べれば楽なものでしょう。

実際、Twitterを見ていると、神父だ、牧師だ、と自称する人物が四六時中発言しています。またこの神父がつまらない冗談言ってる、この牧師はまた聖書を使った皮肉で人を嫌な気持ちにさせてる、という感じです。よほど暇を持て余しているのでしょう。呆れたものです。そういうことがしたいから神父や牧師になったのでしょうけどね。そういう意味では大成功、人生の勝ち組だと胸を撫で下ろしているのでしょう。

そんなTwitterで、カトリックのなんとか枢機卿が、幼児虐待事件の当事者として裁判でクロ判決を受けたとかで、その枢機卿はきっと冤罪に違いない、枢機卿サマは上訴された、と発言したカトリック信者がいましたが、枢機卿を起訴するなんて、よほど真っ黒でなければ中々できないことだと思うのですがどうでしょうか。まあ、よほど暇なんでしょうね。暇で暇で仕方ないので幼児を性のはけ口にする。汚らわしい限りです。

冤罪と言いますが、冤罪なら冤罪で別に構わないじゃないですか。その人の神は、全人類の罪過を身に負うために、わざと冤罪を着せられて死刑になったわけでしょう。その神に倣って、自分たちの組織の犯罪を、冤罪であれ何であれ償うのであれば、その有様を神が見て評価するのではないでしょうか。それなのに、なぜ上訴しなければならないのでしょうか。

実際は、神父や牧師なんて表向きの見栄えばかり、中身なんて皆無。結局楽して生きて行きたいだけで、神がいようが空想だろうが別にどちらでもかまわない。そんなのばかりですよ(笑)。

キリスト教の正統と異端

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greekcitytimes.com

 

キリスト教には「正統」と「異端」がある、と言いますが、何が正統で、何が異端なのでしょうか。

まずは、一番最初に「キリスト教」であると認識された、ローマ帝国によって定義された組織、これを、正統なキリスト教組織であると考えましょう。まだ、カトリック、正教、といった区別はなかったはずです。帝国内の主要な5つの都市に総主教座が配され、名目上の「最も尊崇せらるる」ところの総主教座はエルサレム総主教座であって、最も盛んな総主教座は、新都コンスタンチノポリの総主教座、上の写真のアヤ・ソフィア教会だったはずです。

この状態が安定するまでには、「Wiki-異端」の説明にあるとおり、グノーシス主義アリウス派、安定後であっても、単性論、ネストリウス派などの、正統派に反する考えを主張するグループが現れて、これを「異端」と呼びました。

異端とは、Wiki-異端によれば、

宗教において、正統を自負する教派が、正統とする教理・教義に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。

とあるように、自らを正統と考えている団体が、他の団体に対して言う表現なのですから、例えば、エホバの証人は、自らを正統と考えているのですから、彼らから見てカトリック教会は教義上間違っている、として、異端である、と言うのであれば、カトリックは異端である、と言うことも成り立ちます。

しかし、それでは話がややこしくなってしまいますので、冒頭で申し上げたように、五大総主教座の伝統に基づく教会を正統とするならば、ローマの使徒座(カトリック教会)はその伝統から逸脱しかけた時点で、異端となった、ということになるでしょう。カトリックは、ローマの使徒座は、ペトロの使徒の首長としての権能を受け継ぐものであり、逸脱したのは他の四主教座である、と主張していますが、マルコ福音書の次の箇所

エスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。

を読めば、使徒の長として受け継がれるべき権能、というようなものは存在せず、存在したとしても、それはイエス様の意思に反するところである、ということを知ることができると思います。

事実、プロテスタントが派生し、教会が細分化してしまったのは、ローマの使徒座が五大総主教区のコミュニティから離脱してしまったからです。あとに残った主教区、現在で言う正教会からは、プロテスタント教会のような離反者は出ていません。

では、カトリック教会は正教会からみて、今でも異端なのでしょうか。そうではありません。離反して別の団体になってしまいましたので、異端ではなくて異教であって、カトリック信者は正教から見ると「異教徒」ということになります。

プロテスタントの場合も、たとえ「メインライン」であろうと、少数派であろうと、全て「異教」ということになります。正統派からみればキリスト教でさえないわけです。

キリスト教徒には、「異端」という言葉を便利な武器のように乱用する人が多いように感じますが、キリスト教が差別やヘイトを基調として成立した、という事実の痕跡なのでしょう。面白いですね。

まあ、いまでも某SNSなどを見てると、皮肉を言ったり、罵倒したり、相変わらず未洗練で未成熟な有様を露呈して満足しているようですけどね(笑)。

水をぶどう酒に変える、とは

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www.biblestudytools.com

 

ヨハネ福音書には、イエス様が結婚式の宴会で、水瓶の水をぶどう酒に変えた、ということが書かれています。読んで見ましょう。

ヨハネ福音書 2:6-10

そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 

 福音書が書かれた当時は、まだギリシャ、ローマ、エジプト神話などの宗教が盛んであって、キリスト教は新興の小さな思想団体に過ぎなかっただろうと推察できるでしょう。そのような中で、福音書記者は、今盛んな先輩宗教が謳っている神話のパロディを福音書へ盛り込んだのです。この箇所で言えば、ギリシャ神話のディオニソスローマ神話バッコスが、水をぶどう酒に変える故事を引き合いに出したわけです。当時の読者は、福音書のこの箇所を読んで、これは、ディオニソスの、あるいはバッコスの、あの神話の話をしているんだな、と気づいたはずです。

しかし、ただ、我々の新しい時代の指導者であるイエス様も、ディオニソスやバッコスと同じような能力があるんだぞ、ということではないだろう、このパロディが意味するところは何なのだろう、と、次を読み急いだでしょう。同じ福音書の続きの箇所には、こう書かれています。

「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

いかがでしょうか、ギリシャローマ神話では水がぶどう酒に変わって、すごいなあ、うらやましいなあ、で終わりだけども、我々の新しい思想は一味違いますよ、人は、生きながらにして新しく生まれ変わり、真実の生き方を知る機会がだれにでもある、ということを、あなたがたがよく知っている神話を引き合いに出して説明したのですよ、というわけです。パロディであることがわかってこそ、その意味が活きるのだ、ということもご理解いただけると思います。

しかし、キリスト教の地位を高めるために、福音書が他の宗教のパロディで成立している事実を押し隠そうとしてその痕跡を根絶してしまったので、却って真実からかけ離れてしまい、『福音書には奇跡が記録されている。イエス様は水の上をあるいた、水をぶどう酒に変えた、十字架で殺害されて三日目に復活した』、となってしまったのだ、ということですね。その結果、現在のキリスト教徒は、古代ローマ市民と同じ価値観で、すなわち、神は水をぶどう酒に変える能力があってすごいなあ、としか感じることができなくなってしまっているわけです。

水上を歩く、とは

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福音書には、イエス様が水の上を歩いた、と記されています。マタイ4:26、マルコ6:49、ヨハネ6:15などがそうですね。

なぜ、イエス様が水の上を歩いた、と伝えられているのでしょうか、それは事実だからだ、と言う人がほとんどでしょう。聖書は市役所に保管されている、市議会議事録のようなもの、あるいは法務局で閲覧できる登記簿のようなものだ、と考えているひとにはそのようにしか考えることができないのも無理はないかもしれません。

しかし、福音書でイエス様は、喩えを用いて説明をしますよ、と言っておられます。つまりそこから、福音書はそれ本体にも喩えが用いられているだろう、とも考えることができるはずです。イエス様は正しい人のプロトタイプなのであって、その示唆するところのメソッドには倣うべきであった、と考察することは不自然なことではありません。

そう考えて、どの水上歩行のエピソードでも、その直前に、群衆を前にして説教を行っていた、という点に注目するのであれば、その斬新な教説に対して、反対意見を主張するものがいなくはなかっただろう、と推察することができると思います。

エス様に近寄り、あるいは暴力的に、または嘲笑し、罵倒するものもあったかもしれません。

逆風が吹きすさぶ水の上を歩いた、という記述には、そのときイエス様は、罵り返すようなことはせず、声高に反論もせず、ただ莞爾として、受け入れて聞いておられたのだ、という意味が隠されているのではないでしょうか。

まるで嵐の海を何事もなく歩くかのように、イエス様は世間の荒波を、何の難もなく過ごされた、弟子たちはその有様を見て、今までにこのような人を見たことがない、と驚嘆した、と記述されているわけです。

福音書は議事録ではなく、出来事になぞらえて精神性を伝えようとする説話なのです。神が行った、人間には不可能で不思議なお話、として済ませてしまったのでは、その本意は失われてしまうばかりです。