キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

プロテスタントとは、自称「キリスト教徒」のこと?

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またもや変なブログを見つけてしまいました。僕の悪いクセです(笑)。

早速引用してみましょう。

 

(そこで偽証人のおばさんは「でも、カトリック教会は本当に33年に創立されたかどうか・・・」と反論しようとしたけど、これは客観的な歴史的事実なので、「本当に広島に原爆投下があったかどうか」と同レベルのトンデモ論だから、ちょっと笑っちゃったけどw) 

意味を知らずに「客観的」という言葉を使っているようですが、この人は、イエス様が紀元元年に生まれて、紀元33年に亡くなった、と思っているようです(笑)。

 

例えば、エホバの偽証人は他の多くのプロテスタント「宗派」と違って、イエス・キリストの神性を否定しています。そう、彼らにとって、イエス・キリストは神ではありませんし、地獄も存在しません。すごいでしょ?キリストは神じゃない!と言いながら「我々は本物のキリスト教徒です」って(笑)。「キリストも地獄も全て幻」という、賢人ごっこの仏教徒なら分かるけどさ、自称「キリスト教徒」だよwwwやれやれw

仏教が賢人ごっこなら、キリスト教は罪人ごっこでしょうね。罪人ごっこをしているうちにいつの間にか本当の罪人になってしまうよりも、賢人ごっこをしているうちに賢人 になるほうがよほどマシだと思いますよ。

エス様本人が何も言っていないのに、勝手に神に祭り上げてしまったり、異教の思想のパクリである地獄を怖がったりしてるほうがよほど「やれやれw」だと思いますけどね。

 

要するに、プロテスタントの様々な宗派が皆聖書を正しく解釈していることは、論理的にあり得ません。

当たり前です。聖書を正しく解釈しないところが「キリスト教」という組織です。プロテスタントが生じる前のカトリック時代からの伝統なのですから。

それと「論理的」という言葉は、ただなんとなく雰囲気で使っているだけでしょうが、一体どういう論理をもって「論理的」と言っているのか説明できるのでしょうか(笑)。

 

これで十分ご理解いただけたと思いますが、「聖書のみ権威あり」というのは、聖書自体が否定している、人間の命令によってのことにすぎません。

  • そこで主は仰せになった、「この民は口先で私に近づき、唇で私を崇めるが、その心は私から遠く離れている。彼らが私を畏れ敬うのは、教え込まれた人間の命令によってのことにすぎない」。(イザヤ29:13)
  • (イエスは仰せになった)「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は私について証しするのもである。それなのに、あなた方は、命を得るために、私の所に来ようとはしない」。(ヨハネ5:39-40)

「聖書のみ」という言葉を否定するために、聖書を引用してやりこめようと努力するところが、愚かで可愛らしくも思えてしまうのですが、プロテスタントの言う「聖書のみ」とは、信仰生活の規範を、「聖書と聖伝」に求めるカトリックや、「(聖書を含む)聖伝」に求める正教会とは異なり、旧・新約聖書66巻だけから求めますよ、ということであって、権威がどうこう言っているわけではありません。

五つのソラ - Wikipedia には、

ルターは、教皇も教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張したのである。 

と記されていますが、ルターは、カトリック教会が、教会や教皇、 教会会議の「権威」を主張したことに対して、敢えて批判的に「権威」という言葉を用いたのであって、「聖書のみ」という言葉の意味としては、聖書の権威がどうこう、ということであるよりも、上述したようなことだ、ということです。

カトリックに限らずですが、キリスト教徒は「権威」という言葉が好きのようです。というか、福音書でイエス様が否定していることは、全部好きのようです(笑)。

 

よく知りもしない状態で、一人前に批判するな、なんて偉そうなことを言うつもりはありません。僕だって言うほどのことはありませんが、こうやってキリスト教批判のサイトを立ち上げているわけですし(笑)。

それにしても、あまり賢そうには見えませんよね。まあ、自戒も込めつつ(笑)。

カトリック司教が修道女をレイプ

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この事件における深刻な問題は、

 被害者の修道女は6月下旬、2014年から2016年にかけてムラッカル容疑者に13回レイプされたと告訴していた。しかしインドで最もカトリック教徒の人口が多いケララ州の警察は、9月に入るまでムラッカル容疑者の正式な取り調べを行わなかった。

 この警察の怠慢が怒りを呼び、修道女5人と支援者数十人が数日間にわたって抗議デモを行った。インドのカトリック教会で、内部から反発が出るのは異例。

 とあるように、カトリック教会を取り巻く隠蔽体質にあるでしょう。

 

こういうことが起きると、「キリスト教徒も人間だから」、「聖職者といってもただの人間だから」、甚だしきは「罪深いという自覚があるからこそキリスト教徒になったわけだから」などと言うのを聞いたことがありますが、聞き苦しい詭弁でしかありませんよね。

神の召しを得たと感じてキリスト教徒になっても、聖職者になっても、結果として反社会的な犯罪者を生じさせることしかできないのなら、そんなものは不必要だということになるでしょう。プロテスタント正教会も同じことです。

棄てられた福音書

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ご存知の通り、新約聖書には福音書が四つあります。しかし、実際にはもっとたくさんの福音書があったのです。

外典福音書 - Wikipedia

によれば、新約聖書に含まれる四つの福音書以外に、

などの福音書があったことが伝えられている、と説明されています。

各リンク先をお読みになれば判るとおり、正直言って現行の四福音書と比べてみても、それほど顕著な差があるとは思いにくい内容です。似たりよったりなのです。

例えば、「ペトロによる福音書」の説明

2人の天使に支えられた(たぶん)イエス・キリストが墓から出てくる後から、十字架が付いてくる。天からの声「あなたは、(冥府で)眠っている人々にも宣教しましたか」に、十字架が「はい」と答える。

十字架が自分で墓から歩いて出てきて、天の声に「はい」と答えるなんて、荒唐無稽、と感じるでしょうが、現行の福音書には、墓の蓋が開いていて、天使が座っていた、と記されているし、イエス様の洗礼のシーンでは、

また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

と記されていることも事実です。十字架が墓から歩いて出てくる程度のこと、ほとんど同じレベルだと思います。もしこの福音書が正典として採用されていたら、キリスト教のシンボルである十字架には足が付いていたことでしょう。

 

トマスによる福音書の記述を読んでみましょう。

7 イエスが言った、「人間に食われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に食われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」

簡潔に書かれていますので、懇切丁寧で過剰に説明的な文章を読み慣れている現代人には直感的ではありませんが(すべての聖書で同じことですが)、これは、獅子が人間に、あるいは人間が獅子に変身する、というようなことを言っているわけではありません。それぞれ、食われれば消化されて、食った者の要素の一つに変化するだけだ、ということを言っているのです。

77 イエスが言った、「1 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
2 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」

過去の記事「キリスト教と三宝」で申し上げましたが、三位一体の「子」であるイエス様を仏教の三宝で言い表すのであれば、「悟った人(仏陀)」である「仏」に相当するでしょう。そして、トマス福音書のこの記述を読むのであれば、動物にも植物にも、土であれ空であれ、また、たとえお釈迦様を殺そうと企んだ提婆達多にさえ仏性は存在するのだよ、と教えられたお釈迦様の教えが思い出されます。

なぜ、これらの福音書が排斥されたのか。それは、政治の道具として利用しやすいものではなかったからです。

このブログを読んで、キリスト教を仏教と比べるな、と憤っているクリスチャンがいるようですが、残念ながら、それは逆です。歪められて本体の面影さえ判然としなくなったポンコツ思想は、仏教に例えなくては本来の意味を知ることができなくなってしまっているわけです。

歌手

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キリスト教に関係のない記事が続いてしまっていますが…

 

クッキングホイルはさあ、タレントの悪口なんか言っちゃって、聞き苦しいことこの上無いんだけどさあ、上手いと思ってる歌手はいるの?

 

なんて、別に誰も興味ないでしょうが、僕も、上手だと思っている歌手はいます。フィッシャー・ディースカウやマリア・カラスなんていう別格はともかくとして、テレビでよく見る、今生きている歌手で言えば誰? ということで言えば、

ずばり、美川憲一和田アキ子でしょう。

ソルフェージュや声楽の勉強をしたことのある方でしたら、先生から、

「バイオリニストがバイオリンを自由自在に弾きこなすように、自分自身を楽器にして歌を演奏しなさい」

というような意味のことを教えてもらうのではないかと思いますが、美川憲一和田アキ子は正にそれが実現できている人だと思います。

 

まあ、他にも色々な意見があるでしょうけど(笑)。

音程

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Piano Quintet – ClaMArtists

 

安室奈美恵さんのファイナルライブの話題で賑やかですね。以前、某匿名SNSでもつぶやいたことがあるのですが、安室さん、少し音程が悪いところがあります。彼女にとっては、それほど高い音域ではなくても、張って伸ばすところで低めになってしまうのでとても目立ってしまいます。

それでも、とても上手ですし、声もきれいです。スター、という言葉は、実に彼女のためにある、といえるでしょう。音が低いときがある、という程度のことは、全体の評価を左右しない。それぐらいのスター性がある、ということですね。

 

話は少し変わるのですが、ピアノが入っている室内楽、聞くのが怖い、という方、おられないでしょうか。僕は怖いです。怖い、というか、聞いていると気持ち悪くなります。ご存知のように、ピアノは平均律で調律されているのですが、バイオリンなどの弦楽器は、必ずしも平均律で演奏しなければならないわけではありません。逆に、わざと完全な平均律で弾こうとすれば少し不自然な感じになってしまうと思います。かと言って純正律ということもありません。平均律なのですが、導音が少し高い感じだと思います。この差がぶつかり合って気持ち悪くなるようです。

ピアノの独奏であれば違和感は全くないのですが、弦楽との合奏になると、とても不自然な音に思えて、頭が痛くなってしまうのです。ピアノコンチェルトではそれほどでもないのですが、室内楽になると、その感覚が強くなります。

別に、他人より耳がいいんですよ、と自慢しているわけではありません。僕なんかより耳がいい人なんてたくさんおられるでしょうが、そんなことは気にならないよ、という方がほとんどのはずです。そうでなければ、ピアノ有りの室内楽は作られなかったでしょうし、演奏もされていないはずですから(笑)。

神と仏

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阿弥陀如来 | 仏像ワールド

 

仏教で、特に浄土真宗などにおいては、あたかも如来が現実世界に実在し、特別な力で衆生を往生へと導く、就中、死後、極楽へ生まれ変わらせてくれるのだ、と教えているかのように感じる場合が多いのですが、実際には、如来というのは、人間として、最終的にあるべき、理想の姿を仮定したものであって、実在するものではありません。極楽や浄土などといったものも、実際には死後の世界ではなくて、人間が如来に成長した状態を想像して表現したものであるわけです。

実際、お釈迦様は、死後の世界については、いくら質問されても明確な回答をしませんでした。自分自身がわからないことを説明のしようがないだろう、ということです。これを「無記」といいます。

マタイ福音書 6:30-34

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

エス様とお釈迦様の考えは、ほとんど同じであることがよくわかります。この箇所は、情緒的な感傷でも、感情的な慰めでもありません。

「明日のこと」とはつまり、「死後のこと」です。死後、天国に行けるか、地獄に落とされるか、そんなバカバカしい空想はやめてしまいなさい。それよりも、生きること、生きている社会をどうするのかを考えることが大事なのだよ、と教えています。

そのためには、食事や服装の心配、つまり物欲を捨てなければならない、仏教の言う「煩悩」を捨てなければならないよ、ということを言っているわけです。持ち物を捨てなさいという勧めは、福音書を貫く主題だと言っても言い過ぎでは無いでしょう。

死後、極楽に生まれ変わることが仏教の目的に変わってしまったように、死後天国へ迎えてもらえることが、キリスト教徒の特権であるかのように誤解している人がほとんどではないでしょうか。

 

「宗教みたい」は不適切

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日本スポーツ界では不祥事が頻発して止まない状態が続いていますが、女子体操パワハラ問題で、塚原千恵子女子強化本部長が、宮川紗江選手に対して、「家族でどうかしてる。宗教みたい。」と発言したのだとか。

人を罵倒したければ「宗教みたいだね」と言えば、高い効果が期待できるということなのでしょう。非常識だ、不見識だ、不条理だ、愚昧だ、低劣だ、といいたいときは、「宗教みたいだ」と言えばいいのです。

上記記事では、

だが、これは宮川選手の家族の人権や名誉を侵害する問題発言である。

と批判しています。いくら何でも「宗教」 は言い過ぎだろうということです。一般社会の宗教に対する評価はそういうものなのです。

さすがに「宗教」は言い過ぎだったと反省したのでしょう。発言した人は、

思わず、たとえとして『宗教みたい』とは言ってしまいました。この言葉については不適切だと大変反省しております」と、反省を込めて認めた。 

 と謝罪したのだとか。