キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

キリスト教と三宝

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などでは、キリスト教の救いと、仏教の救いの類似性について説明しました。仏教では「悟り」を求めることを、キリスト教では「神になる」ことを最終目的として掲げ、その目的に向かって生きることそのものがそれぞれの教えの基本なのであって、両者はよく似た考え方であると理解することができる、と申し上げました。

仏教においては、「仏」「法」「僧」を3つの宝、大切にすべきもの、と考えます。「仏」とは、お釈迦様が見出した悟りのこと、「法」とは、悟りへ至るためのお釈迦様の教え、「僧」とは、それを実践する人々を表現しています。

もうお分かりかもしれませんが、キリスト教においては「三位一体」がこれに相当するわけです。「子(仏)」とは神に成ったイエス様を、「父(法)」とは神になるための法を象徴する神を、「聖霊(僧)」とは「神になる」を実践する人々のうちに生きているエネルギーを表現しているわけです。

こうしてキリスト教を丁寧に紐解けば、仏教によく似ていることがわかってきますが、使徒トマスがインドへ宣教に渡っていた、という伝説があることなどからも、キリスト教が仏教から何らかの影響を受けていたであろうという想像は、全くの妄想とは言えないのかもしれません。

仏教の場合は、「梵天勧請」という仮定によって、この世が存在する理由と、人が悟りを得るところの理由を分離しましたが、キリスト教でははっきりと分離しませんでした。仏教は宗教から独立して、新しい思想として歩んだのに対し、キリスト教は相変わらず宗教として泥臭い暗黒面を保持したまま歩を進めたわけです。

しかしながら、記事「主の祈りに見る宗教性」でご説明申し上げたとおり、実際にはイエス様も神の実在を否定しているのですが、残念なことに、イエス様の周囲には、お釈迦様の弟子に匹敵する明晰な頭脳が存在しなかったと見えて、結果としてイエス様が否定した宗教よりも、もっと低劣な宗教を立ち上げてしまう、という皮肉な結果を生じてしまったわけです。

何のために「法」を守るのか、「罰せられないためにだ」と理解するのが、何の役にも立たないキリスト教的な空論であり、「自分が成長するためにであり、自分が成長するのは、社会がよくなるためだ」と理解することが人間として必要な実践につながる考えだと思います。