キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

カルト宗教信じてました

f:id:christian-unabridged-dict:20180530130708j:plain

 

たもさんの著作「カルト宗教信じてました」が紹介されているブログです。著者もかつてエホバの証人の会員であったようですが、このブロガーご自身も現状エホバの証人に所属しておられるようです。

記事から一部引用してみましょう。

狂信者たちは、『よく宗』にしろ『カル宗』にしろ、「こんなものはウソです!でっち上げです!」「反対者による悪質な嫌がらせです!」「真実はjw.orgの中にのみ書かれています!」「背教者に惑わされてはなりません!」などと騒ぎ立てるのでしょう。
そんなことをわざわざ通販サイトのレビューに書き込んだり、blogやTwitterなどで必死に書いている、おバカな方も相変わらずおられますしね。ま、何を主張するのも自由なんですけどね。

いずれにせよ、今回のこちらの書籍の販売により、『エホバの証人』という宗教団体が持ち合わせる、もうひとつの側面にスポットライトが当てられました。たもさんという一人の(元)信者の人生を通してそれが証明されています。それに対し、嘘だのでっち上げだのということは誰にもできません。多くの2世信者たちが100回頷いてもまだ足りないくらい共感できる1つの『真実』がここにあります。

 

「カルトなんてハマるほうが悪いんだ」

良く言われることですし、よく聞く意見です。でも、「北朝鮮に生まれる人間が悪いんだ」と言っているのと同じですよね。

是非ご一読ください。(ブログ著作も)

正宗白鳥と聖書

f:id:christian-unabridged-dict:20180525135301j:plain

よみがえる彩色歓喜院聖天堂 | 熊谷市Web博物館

 

三聖吸酸(さんせいきゅうさん)とは、孔子儒教)、釈迦(仏教)と老子道教)は、それぞれ全く別の思想、教えであるかのように思われていても、酢を口にいれれば、誰でも等しく「酸い」と感じるであろう。結局は同じ感覚を持った同じ人間が言い始めたこと、どれも言っていることの芯は似たようなものなのだよ、という喩えです。

 

正宗白鳥 が、「論語とバイブル」という短い随筆を書いています。少し引用してみましょう。

基督教的教育を受けて、基督は神であるという考えが頭に染み込むと、冷静に批評する余裕もなくなり、何となく勿体ない気がして、生理学者が動物を解剖するような態度で、基督に分析的研究を加えるに躊躇する。よし又宗教の信仰がなくても、幾千年の間、幾億万の人間が賢愚共に崇拝する人は、まさか凡人ではなかろうと思われる、ろくろく研究もせず其の経典の一頁をも読まずとも、何となくエラそうに見えるらしく、公平な見識を抱けりと自称する人は、孔子釈迦基督が世界の聖人大君子救世主とは自明真理の如くに信じている。

正宗は、早稲田在学中に植村正久・内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受けた人なのですが、さすがは美文家の誉高いだけのことはあって、実、不実を見分ける力に長けていたと見えます。真実をこれだけの文章に凝縮して的確に表現する力は生半のものでは無いと思います。

基督をしてかかる大名誉を得させ、かかる百代の事業をなさしめた大恩人は、ピラトであろう。彼れ若し磔刑に処せられなかったならば、基督は神として伝わらなかったであろう。従って十字軍も起らず、新教徒の迫害もなく、不道理極まる罪の観念に悩さるることもなく、後代の人間は、一層面白く世を楽んだであろう。基督一人の名誉の為に、西洋幾億万の人間は幸福を減じたこと夥しい、しかし基督自身は名誉心の為にかかる事業を企てたのでもないから、咎める訳にも行かぬが、其の代り大人物でもない。彼が後代に残した勢力は善悪共に偶然である。孔子とても釈迦とてもそうである。人或いは此等二三の聖人が出現しなかったらば、社会は如何に野蛮極まるであろうという者もあるが、これは一面を見た人の議論に過ぎぬ、古代希臘(ギリシャ)など、あらゆる基督教国の歴史に類のない幸福な国であった。人間に備わる五官の慾望を円満に満足させ、現世の幸福を極度まで楽んだ、吾人が理想に近い国であったらしい。

物語と史実の間には目に見えなくとも暗黙の隔たりがあります。正宗は皮肉たっぷりに、それが見えるようになるメガネが必要なのかね、と尋ねているわけです。 

しかし耶蘇の説教は実行すべからざる空論として読めば、常規を離れている丈に面白い、其の生涯も詩人風で芝居的である。新旧全書共に眠気醒しにならんでもないが、論語に至っては世にも稀(めず)らしき平々凡々、砂を噛むが如き書物である。真理は平凡なるに違いないので、吾人も孔子の言に反対は称えぬが、敬服もし兼ねる。雨が降る日は天気が悪い、水は冷たい火は熱いといえば、何人も御尤もと首肯すれど、大発明だと恐れ入る訳には行かぬ。論語全篇凡てこんな言で満ちているのである。「学而時習之不亦悦乎。」という開巻第一の言も仮名でいえば「皆さんは学校で教わった事を家へ帰ってもお温習(さらえ)なさいよ。」と同じ事で、論語知らずの小学校の先生でも常にいっている。「有朋自遠方来不亦楽乎。」の言も平凡。元田永孚(えいふ)先生の如きはこの一節を説明するにも幾万言を費し、古今の大真理としたそうだが、「酔うて唄う亦楽しからずや。」という剣菱即製の論語も真理は孔夫子のと同じく、これを実例を挙げて説明すれば、一日や二日の講義を要するのである。畢竟(ひっきょう)論語もバイブルも吾人が恐れ入るにも当らない凡書である。

ソースを塗りすぎて元の料理が何であったかわからなくなったようなヘンテコな理屈に振り回されている人々を見て、「これをしなさい」と書いてある、それをすればいいだけなんじゃないのか、正宗は洗礼を受けてキリスト教徒として生活をした上で、そのように感じたのでしょう。

キリスト教の疑問

f:id:christian-unabridged-dict:20180520131110j:plain

Yahoo知恵袋 に次のような質問がありました。

余計なお世話かもしれませんが、この際本サイト流の回答を考えてみましょう。

①全知全能で全ての創造主の神がエデンにて蛇がアダムとイヴを誑かしますが…創造主の神が蛇を作り誑かされる結果を全知の神は知っていたのでは?

創世記には、創造の区切りごとに「神は見て、良しとされた」と自らの業の結果を評価した、と記されていて、最後には

「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」

としるされています。神が創造したもので、つまり、この世のすべてですが、それらのうち、何一つ悪いものは無かったのです。ですから、人の目から見て、悪いと感じるものであっても、神の価値観から見れば良い事であるのです。

結論としては、全知、というよりは、この世のすべての主宰者である神自身がそれを行った、ということです。

 

②神に反旗を翻すルシフエル彼は傲慢であった故に地獄に落とされますが…自分に逆らった者を地獄に落とす神の方が傲慢ではないのか? 

ルシフェルが地獄に落とされた、という考えはキリスト教だけにある考えですが、

ルシファー - Wikipedia によれば、

ルシファーの名の悪魔たるゆえんは、旧約聖書イザヤ書」14章12節にあらわれる「輝く者が天より墜ちた」という比喩表現に端を発する。これはもともと、ひとりのバビロニア王かアッシリア王(サルゴン2世かネブカドネツァルであろうと言われる)について述べたものであった。キリスト教の教父たちの時代には、これは悪魔をバビロニアの王になぞらえたものであり、神に創造された者が堕ちて悪魔となることを示すものと解釈された。堕天使ないし悪魔とされたこの「輝く者」は、ヒエロニムスによるラテン語訳聖書において、明けの明星を指す「ルキフェル」の語をもって翻訳された。以上の経緯をもってルシファーは悪魔の名となったとされる。 

 となっていて、つまり、実際に神がルシファーという者を地獄に落とした、と明記されている書物があるわけではなくて、「キリスト教の教父たち」が聖書を読んで行った空想が伝えられているに過ぎないわけです。

僕なら、イザヤ書の当該箇所を読んで、このように空想したいです。

イザヤ書14:12-17

黎明の子、明けの明星よ、
あなたは天から落ちてしまった。
もろもろの国を倒した者よ、
あなたは切られて地に倒れてしまった。
あなたはさきに心のうちに言った、
『わたしは天にのぼり、
わたしの王座を高く神の星の上におき、
北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、
いと高き者のようになろう』。
しかしあなたは陰府に落され、
穴の奥底に入れられる。
あなたを見る者はつくづくあなたを見、
あなたに目をとめて言う、
『この人は地を震わせ、国々を動かし、
世界を荒野のようにし、その都市をこわし、
捕えた者をその家に
解き帰さなかった者であるのか』。

イスラエル再建国家の兵士たちよ、あなた達は負けてしまった。
勇敢に戦ったが倒されてしまった。
あなたはこう誓った。
「ゴランを征服し、山々の高みに展開し、世界を支配するのだ。」
しかしあなたは敗け、その名を地に落とした。
あなたは貶め、辱められて、こう罵られるだろう
「不要な騒乱を起こし、世界中を不安に陥れたばかりか、
国際法に反して、捕虜を不当に扱った。」
チョー当たってる イザヤすごくねΣ(゚Д゚)、って感じ。

 

③キリストがゴルゴダの丘にて人類の原罪を償ったはずなのに我々はまだ原罪から逃れれていない? 

人類が無罪だということになると、キリスト教は不必要になってしまいます。キリスト教の本音としては、イエスの野郎チョロチョロ出てきて余計なことしやがって、というところでしょう。このあたりをどれほど上手にごまかすかが教派の勝負どころだと思われます。

 

④エデンを追い出されたアダムとイヴの子カインが兄弟を殺し不死者になるが、やはり神は全知全能である故にその結果を知っていたのでは?
知った上でほくそ笑み過ちを犯すのを見ていたのか?  

これは①へのお答えと同じでよいだろうと思います。

 

キリスト教の三位一体の唯一神が正しいのなら他の宗教の神や仏はどうなる? 

キリスト教の三位一体の唯一神が正しいのなら、世界中の人が一人残らず文句なしにそのことを認識しているでしょうね。

 

最後の審判で天国と地獄に行く人間は既に決まっているのなら生前に良い行いをする必要はあるの?

キリスト教の理屈的に説明するのであれば、「最後の審判で天国と地獄に行く人間は既に決まっているんだから、別に生前に良い行いをする必要なんかないよね」と考えちゃうタイプの人は選定から外れている、ということです。

 

⑦神様とアカシックレコードどっちが先に存在したの?

アカシックレコード」って何のことかわからなかったので、

アカシックレコード - Wikipedia

で調べてみたのですが、

アカシックレコード、アカシャ年代記は、神智学協会のブラヴァツキー(1831年 - 1891年)が最初に使った言葉、もしくは同協会に属し、のちに人智学を提唱したルドルフ・シュタイナー1861年 - 1925年)が作った言葉と言われる。

と書いてありました。キリスト教の神様ができたのは、だいたい400年ごろですから、キリスト教の神様のほうが早いと思いますよ。

 

以上です。

全ての謎が解ければ私はキリスト教に入ります。

 と仰ってるようですが、まあ、どうぞご自由に。

「護教」とは何のことか

f:id:christian-unabridged-dict:20180516134542j:plain

Una Voce Japan (UVJ) | ウナ・ヴォーチェ・ジャパンのホームページ

 

「護教の盾」というサイトを発見しました。

gokyo.web.fc2.com


  • 聖体拝領時の跪き
  • 手による聖体拝領
  • 両形態の聖体拝領
  • トリエント・ミサ
  • 海外記事翻訳もどき
  • お勧めの本
  • 驚くべき新聞記事
  • 赤羽根惠吉氏講演
  • 他界からの警告

などの下位ページがあります。何を主張しているのかと言いますと、要するに第二バチカン公会議以降の新しい様式によるミサ(ノーブスオルド・ミッサ)を否定し、それ以前の旧様式によるミサ(トリエント・ミッサ)を懐かしむ、ということのようです。

新しいミサ - Wikipedia によれば、その違いは、

廃止された点
以前の奉献文(Offertorium)のほとんどの祈りが廃止された。
省略された点
多くの十字架の印、跪き、イエズスの名前における会釈、聖体を触れた後での指の清めなどが省略された。
ミサにおける司祭の個人的な祈りは省略された。
以前まで3枚であった祭壇布が1枚に省略され、聖遺物を置く義務も省略され、名前も「祭壇 altare」から「食卓 mensa」に変わった。
変更された点
聖変化の言葉が変更され、聖変化が歴史的叙述となった。
司式司祭の個人的な行為よりも、信徒の司祭職による記念に強調が移行した。
追加された点
今まで唯一であったローマ・カノン(典文)に加えて3つの別の奉献文(Prex Eucharistica)が付け加えられた。
今まで女性が立ち入ることが禁止されていた至聖所で女性が典礼奉仕することが出来るようになった。 

 などと説明されています。まあ、要するに簡略化されたということでしょう。それで、「護教の盾」では、その簡略化が間違いであるのだ、と主張しているわけです。たとえば、聖体拝領(聖餐式)のとき、信者が手に聖体を受けること、跪かずに立ったまま受けること、などが間違いだということです。

その根拠として、デルコル神父という人物の著作を引用しています。引用しましょう。

 370年頃に、聖バジリオ司教は、「迫害のときにだけ、そして、司祭または助祭がいない時だけ、信徒は、自分の手でご聖体をいただくことが許されるが、それ以外の場合は、この行為は許されていない」と断言しました。

 380年に行われたスペインのサラゴツァの司教会議では、「迫害のときに許されていたように、迫害のない時に、ご聖体を手にとる信者を破門する」というほどになりました。その20年後に行われた、やはり、スペインのトレド第1司教会議でも同じことがきめられました(破門)。

 404年には、すなわち、インノチェンシオ1世教皇のときに、ローマで司教会議が行われて、いろんなことが決定されました。その中で、信者はご聖体を口で受けるようにときめられました。この会議の250年ほど後に、フランスのルアン市の司教アウドエノは、ローマの典礼にあずかってから自分の教区に帰ったとき、「これから、ローマの習慣に従う」と荘厳に発表しました。

 ローマでは、もちろん、この習慣が守られてきたのです。440年から461年まで在位だった大聖レオ教皇は、ご聖体は口で受けなければならないと、明らかに宣言しました。

 535年から教皇となった聖アガピトは、唖で身体障害者だったひとりの貧しい人の口にご聖体をさずけたところ、その人は突然完全に癒されました。この奇跡を見た人々は、喜びのあまり泣いていました。

 590年から教皇の座についた大聖グレゴリオは、その伝記に、口にご聖体をさずけていたことが記されています。

『「最初の1000年間は手で頂いていました」などとツラッとした顔して断言する司祭はいかに信頼に値しないものであるかが分かると思います。』

ツラっとした顔、がどのような顔なのかわからないのですが、古式を参考にしようといのであれば、なぜ590年、せいぜい370年までしか遡らないのでしょうか。

聖体拝領というのは、福音書の最後の晩餐についての記事を再現するところの儀式なのですから、最も正式に模倣するのであれば福音書に従えばいいのです。簡単なことです。イエス様はパンを弟子の口にねじ込んだとはかかれていませんよね。弟子たちはイエス様が手で割って分けたパンを自分の手で食べて、盃も自分の手で持って飲んだに違いありません。

ということは、新しいミサのほうが古いミサよりも福音書に忠実だということになりますね。

結局、「護教」といいますが、イエス様の教えを守りたい、と考えているわけではなく、懐古趣味、儀式好き、というだけのことであって、自分の趣味に合っていなければ、論理正であっても否定してしまっているわけです。

本当に現代の様式は間違っていて、16世紀のトリエント公会議の議決が正しいと考えているのなら、まず、エレクトロニクスの恩恵に浴するのはやめるべきでしょうね。インターネットなど以ての外でしょう(笑)。

 

追記:

その後「護教の盾」を読んでいて、驚いた箇所がありますので、ご紹介しておきます。

手による聖体拝領はオランダの背教者どもから始まった Part 1 というページですが、「オランダ新カテキズム」という教理本を出版するに際しての、東京の白柳大司教の注釈文が紹介されています。

聖体における臨在の継続期間

 意見が異るかも知れないもう一つのささいなことについて述べよう。聖体におけるイエスの臨在はいつ終るか。それは、見える現実、パンの形がなくなった時である。時には、化学あるいは自然科学において答えを求めた。だが形はここで科学的な意味で考えるべきだろうか。こう自問した方がよくないだろうか、すなわち、一般的に云えば、また普通の知覚から云えば、何がまだパンとして現われているのか。そういったところから、聖体における臨在の継続について判断するはずだろう。

これはびっくりです。カトリック教会は、聖変化後の聖体は、キリストの体そのものである、と考えているはずです。これを「実体変化説」といいます。

しかし、この注釈では、「臨在」といっていますし、その期間があたかも有限であることを認めているかのように理解できます。

いつのまにか、カトリックの聖体理解が変更されたのでしょうか、あるいは元々「臨在」という理解だったことを、僕が知らなかっただけなのでしょうか(そんなことはないはずですが)。

おそらく、ウアテクストでは、挑戦的な意味を込めて「臨在」と著したのでしょう。この際、白柳氏は「臨在」ではなくて「実体」だと訂正しなければならなかったのではないでしょうか、それを、ついうっかり、臨在の定義を訂正してしまったのでしょう。もし本当にそうならば、うっかりもいいところだと思います。

「臨在」というのは、カルバン教会が行っている聖餐理解です。

「臨在の幕屋」で、イスラエルの神は幕屋の至聖所に臨在する、と言いますが、だからと言って、幕屋や幕屋の至聖所が神の実体だ、という理解にはなりませんよね。「臨在」と「実体」は異なる意味合いです。

そして、「護教の盾」としては、聖体を手で受ける、ということを非難するばかりで、「臨在」と「実体」の違い、間違いについては、指摘一つ行っているわけでもなさそうです。やはり、こういう手合の人というのは、所作事にだけ興味があって、理屈などはどうでもよいのでしょう。キリスト教の「実態」はこの程度のものですよ(笑)。

日本で一番見苦しい教会

f:id:christian-unabridged-dict:20180514080722j:plain

 

大阪府茨木市にある「日本キリスト教団春日丘教会」です。十字型のヒビが入った薄暗い倉庫にしか見えません。ベンチは、壁側から出入りできないようにしか設置できないようです。機能性の低い建造物は、多少目を惹こうとも、結果的には優れているとは言えないと思います。

また、十字スリットによる外光の効果を妨げないため、聖餐台を向かって左側に、講壇を右側にずらして設置せざるを得ない様子が見て取れます。本末転倒とはこのことでしょうね。デザイナーが誰であれ、建造物としての評価がどうであれ、それによって本来の意義や機能は左右されないぞ、という矜持が伺えません。

講壇を正面中央に設置することは、プロテスタントとして、礼拝の中心は説教であることを主張するところの様式であるはずですね。また、チャンセルも見当たりません。

オルガンは黒ペンキで塗りつぶしてしまったような異様な有様です。

f:id:christian-unabridged-dict:20180514082751j:plain

 

同教会のHPに明記されている見学に関する苦言をまとめておきましょう。

  • 電話での問い合わせにより、教会の集会や面談が中断され、教会本来の機能が損なわれています。教会に集う弱い方々に負担を掛けることになりますので、電話での問い合わせは絶対に為さらないで下さい。
  • 特に、ホテル、旅行会社からの電話連絡は厳禁としています。
  • 見学に関する問い合わせは、必ず【問い合わせフォーム】にてお願い致します。
  • 見学日以外の見学などの交渉は、公平さを期すために、一律、いかなる理由があってもお受けしないことにしています。
  • 必ず前日17:00までに予約の申し込み手続きを行ってください。
  • なお、団体の見学については必ずこちらをご覧ください。注意事項を読まずに問い合わせしないようにしてください。
  • 見学予定日以外の見学はできません。
  • 見学予定日のいずれも、午後1時30分より午後4時までの間です。教会生活における所用がありますので午後1:30までの来訪はお控え下さい。見学日の予定は、毎月中旬から下旬に更新されます。
  • 建物の写真撮影は可能ですが、許可された範囲をお守りください。
  • 三脚を使用しての撮影は禁止です(他の見学者への配慮と事故防止のためですのでお守り下さい)。
  • 備品には触れないで下さい。
  • 服装は自由です。
  • こちらは見学・観光施設ではなく、教会です。近隣への配慮のためにも、敷地内でくれぐれも大声で話されたりしませんようお願いいたします。
  • 当教会は、住宅地に位置している小さな教会です。そのため、一回の見学人数を制限しています。
  • 近年の海外旅行者の増加に伴い、見学希望者が大変多いため、団体を受け入れる余裕がまったくない状態です。さらに、大型バス等で予約も相談もなく訪れる行為が後を絶ちません。 よって、<当面の間、団体での見学は停止>しています。
  • 虚偽の申請をする事例や、無断での集団来訪等でトラブルも生じたため、学術目的の学校の団体であっても、受け容れは当面見合わせております。上記の通り、教会の本来の業務に支障が生じている状況のため、ご相談・交渉も為さらないようお願い致します。
  • 「自分だけは」と思って為さる行為が、人間の小さな魂に負担を負わせることに繋がります。お心に留めて頂ければ幸いです。]
  • 礼拝出席をご希望の方、礼拝にご関心をお持ちの方には、クリスチャンはもちろん、一般の方々にも、主日の礼拝は開かれております。ただし、収容人数に限りがあり、同時に、静寂の内に礼拝が執り行われる必要があるため、必ず事前に予約を取っていただくシステムとなっております。
  • 礼拝に参加される方は、集会案内をご一読ください。
  • 服装は、人前に出るのに失礼ではない範囲でしたら自由で構いません。
  • 教会堂及び教会ホールの床には、柔らかい杉板が張られています。ピンヒールで歩いた後が残りますので、ピンヒールでお越しにならないで下さい。
  • 日曜日午前中は、電話問い合わせを絶対にしないで下さい。
  • 駐車スペースはありません。近隣とのトラブルの原因となりますので、自家用車での来訪はお止め下さい。

 

タチの悪い見学者が集まりやすい教会なのですね。お気の毒です。いっそのこと拝観料を取って見世物にすればいいんじゃないですか。売上で周辺の土地を買収して駐車場にすれば効率も良くなります。

礼拝は、プレハブ小屋でも建ててやればいいでしょう。「見学律法」を押し付けるような見苦しいことをするよりはそのほうがマシだと思いますよ(笑)。

日本で一番美しい礼拝堂

f:id:christian-unabridged-dict:20180513124039j:plain

聖路加国際大学 本学の特色|大学ポートレート

 

美しい礼拝堂の定義は何か、と言い出すと少々面倒ですが、僕の主観だけで言うのであれば、間違いなく聖路加国際大学のチャペルでしょう。「せいろか」と読む人がいますが、「せいるか」と読むのが正しいようです。

こじんまりとはしながらも、ネオ・ゴチック様式による、本格的な石造りの礼拝堂です。至聖所上には東面式の旧祭壇の他に、対面式の新祭壇が置かれていて、景観上惜しまれるところですが、カトリック教会のような、思い込みや思いつきによるちぐはぐな飾り物などが見当たらないところからは、管理者の賢明なセンスが伺えます。

聖路加国際大学のHPからチャペルの説明を引用しましょう。

歴史

1900年(明治33年)米国聖公会宣教医師トイスラー博士により建てられた聖路加病院の礼拝堂として発足。現在の礼拝堂は、1923年(大正12年)の関東大震災や2年後の火災を経て、1936年(昭和11年)に完成し、聖別式が行われた。当時はどの病室からも礼拝堂の屋上にある十字架を見ることができ、患者さんの精神的な支えになっていたと言われている。1945年(昭和20年)敗戦とともに病院と看護学校の建物のすべてがアメリカ軍に接収され、米国陸軍42病院(42nd US Army Hospital)のチャペルとしての時を過ごした。1956年(昭和31年)接収が解除され、礼拝堂で病院再興感謝礼拝が行われた。
現在、礼拝堂以外に「トイスラー記念ホール」という小礼拝堂が病院本館(診療棟)にありますが、これは1992年に完成した。

規模に見合った瀟洒なオルガンが設置されています。

f:id:christian-unabridged-dict:20180513125924j:plain

聖ルカ礼拝堂 ともに祈るコミュニティ | 聖ルカ礼拝堂 | 聖路加国際大学 キリスト教センター

パイプオルガン

礼拝堂に入って後方を見上げると、大きなパイプオルガンがあります。J. S. バッハが生きた時代の「北ドイツ・バロック様式」を基本にしたスタイルで、手鍵盤3段と足鍵盤をもち、音色を選ぶストップは30個、パイプは2077本。演奏者の背後にもリュック・ポジティフとよばれるパイプ群があり、下からはオルガニストの姿は見えません。製作は、フランスのガルニエ・オルガン工房。奉献礼拝は1988年12月11日で、2002年に礼拝堂の音響改良工事が完了したのを受けて2003年にはメカニックの改修と整音が行われました。オルガンは、毎週日曜日の礼拝に用いられるだけでなく患者さんやご家族の心を慰める役割も果たしており、第2水曜日には「患者さんのためのオルガンアワー」が行われています。また、毎月第1水曜日の「夕の祈り」では、国内外のオルガニストの演奏で美しい響きをお楽しみいただけます。 

 

聖公会には、本例の他にも、京都のアグネス教会、大阪の川口教会、埼玉の川越教会など、歴史的な建造物を大切に守っている例が多いように感じます。

東京メトロ日比谷線築地駅からが一番近いでしょう。日中は、一般に開放されているということですので、一度ご訪問なさって見てください。

原理主義とは

f:id:christian-unabridged-dict:20180504083609j:plain

誰も知らない「キリスト看板」(聖書配布協力会)の真実! 銭湯・奥の細道 (東北の銭湯巡り)

 

原理主義 - Wikipedia によれば、

1920年に「ファンダメンダリスト」(原理主義者)という言葉が作られ、攻撃的なまでに伝統的信仰を維持しようとする勢力を呼ぶようになった。

かれらファンダメンタリストをもって自ら任じた人々の主張は、以下を伝統的なキリスト教の五つの根本(ファンダメンタルズ)とみなす認識や信条に基づいていた。

  1. 聖書の無誤性
  2. エスは母マリアの処女懐胎により誕生
  3. 代償的贖罪の教理(イエスの贖罪死)
  4. エスの体の復活
  5. エスの再臨

この5つの基本的信条は、1895年にナイアガラで開催された聖書会議で宣言されたものであった。聖書の無誤性を信じる聖書無謬説は自由主義神学の対義語である。

 とあり、また、

現代の(狭義の)キリスト教ファンダメンタリストと呼ばれる人々は下記のような政治的・社会的主張を行っている。現代の(狭義の)キリスト教ファンダメンタリストと呼ばれる人々は下記のような政治的・社会的主張を行っている。

  1. いかなる理由であっても妊娠中絶に反対する。例えば、母体が病気や身体機能の障害で、妊娠や出産の負荷により死亡する危険性が高い場合、多胎妊娠をした場合に母体の負担軽減や胎児の死亡確率の減少のための減数手術、性犯罪・強姦により被害者が望まない妊娠をして出産を望まない場合であっても妊娠中絶に反対する。
  2. 妊娠中絶に対する反対に関連して、人工授精、代理出産などの生殖医療技術に反対する。
  3. 純潔運動推進。男女が結婚(婚姻の届け出を行なう)前に性関係を持つこと、夫や妻以外の人との恋愛や性関係を持つことに反対する。
  4. 同性愛、および、同性愛者の法律上の結婚に反対する。
  5. 天文学、天体物理学、地球科学、生物学などの学問を学校教育で行うことを聖書の天地創造説を根拠に反対する。
  6. バイオテクノロジー、バイオビジネスに反対する。 

原理主義的と言われる、また、自由主義的と言われる教派は何、という分け方もありますが、見たところ、自由主義的な教派の信徒であっても、原理主義者は存在するようです。自由主義よりも原理主義のほうが簡便だからです。アクセサリーとしても目立って輝いているように見えるかもしれません。

例えば妊娠中絶という問題がありますが、生命を軽んじてはならないから、とか、淫らな性の遊戯を戒めるため、とか言った理由で禁じるのではなく、聖書で禁じられているからという理由だけでそのように主張しているわけです。

中絶に反対するために、医師を教会で銃殺する、というようなことが正義であるはずがありません。

また、「聖書の無誤性」といいますが、人が作ったもので誤りが全く無いものなど存在し得ないでしょう。聖書が神の著作物なのであれば、本屋で金を払って買わなくてはならないのはなぜでしょうか。また、様々なエディションがあるのはなぜでしょうか。

聖書に誤りが無い、というのであれば、他人の誤りを数え上げて判事や検事の真似事をしてほくそ笑む前に、

マタイ福音書 19:21

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

を実践するべきでしょう。イエス様が十字架で亡くなったという記述は、資産家の青年に宛てた提案を自ら実践したことの記録なのです。すなわち、一切の持ち物を捨て去ったということです。

仏教は、これは宗教ではない。悟りを得て涅槃の境地へ至ることを目的とする思想である、とまず言っています。それを踏まえた上で、それはわかっているんだけど、だれにでもできることではないのだから、この世では無理だと諦めて、とりあえず死んでから修行することにしよう。この世では、死後修行できる環境へ転生できるように阿弥陀様により頼んで「南無阿弥陀仏」と唱えよう、などといった考えが展開されていますが、これが仏教の迷信化だと言うことができるでしょう。

キリスト教は、宗教であることを継続していますので、本体そのものが迷信で構成されている、と見るのが正解です。当然、誤った聖書の解釈を行います。聖書には文学的な要素はありえない。また、比喩的表現はなされていない、としか考えることができないわけです。「喩えでお話しますよ。なぜなら、あんたたちはあんまり賢くないからだよ。」とはっきり書いてあるのに、です。実際には、聖書の原理から外れてしまった解釈を行うことを原理主義キリスト教ファンダメンタリズムというわけです。

キリスト教の教会とは、聖書を「六法全書」として扱って、裁判所ゴッコをして楽しむ高額有料遊園地なのです。

世の中に、これを食べれば、それだけで痩せる、とか、頭が良くなる、とか、病気が治る、とかいったものがあれば、それは間違いなく詐欺です。同様に、洗礼を受けて「イエス・キリストを救い主と信じます」と口で言えば、それだけで死後良いところへ逝ける、などという話も詐欺です。

不気味な看板を貼り付けたり、拡声器で皮肉や嫌がらせを浴びせかけたりして、道行く人々を嫌な気持ちにさせて楽しむ。キリスト教徒の本質とはその程度のものでしかありません。