キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

キリスト教団体で性的虐待

youtu.be

 

www.huffingtonpost.jp

 

今始まったことではありませんが、今回はオーストラリアにおけるキリスト教団体による性的虐待が報告されたという報道です。

カトリック聖職者の独身主義が問題の一因だと指摘されているのだそうですが、それは違うでしょうね。被害存命者の64.3%は男性だと言うのですから、結婚してもかまわないよ、ということになったとしても、結婚できる男性であれば元々犯罪は起こさないわけです。教会における性的犯罪は、そもそも結婚したくない、できない、同性愛者によって行われているのです。ですから、結婚していることがカトリック司祭になるための最低条件だ、ということにするなら多少の効果はあるかもしれませんが、現状のカトリックの司祭は、その理由だけで犯罪者だと言っても言い過ぎではないでしょう。だって実際このような報道があるではないですか。違うでしょうか。

問題は、結婚できないからとか、そういったようなことではなくて、無理のある不自然な教義を、教理教育という洗脳によって叩き込むような、キリスト教という宗教の性質そのものが、性的虐待という犯罪に直結しているのだと思います。

偽善者の「絆」

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www.nhk.or.jp

 

今回はキリスト教には関係ありませんが、お許し下さい。

 

僕は京都市民なのですが、2011年の五山送り火(いわゆる大文字)で、東日本大地震津波で倒れてしまった陸前高田の松を薪にして燃やそう、という話が持ち上がった際、京都市民の苦情により使用を断念した、というニュースを聞いて、恥ずかしく思ったことを思い出します。「絆」だの「がんばれ」だのと、掛け声だけは調子よく掛けるくせに、いざとなると被害者に変身する、それが地元の話なのですから、外からみれば僕もその中に含まれてしまっているわけです。

実際には如意ヶ岳の大文字を除く四山では被災松が使用されたということですが、京都は風評被害を拡大した、という事実は残ることになりました。

検索してみますと、未だに偏見に満ちたサイトがありますね。偏見というよりもはや悪意です。心苦しいですね。

「支援」というにはあまりにもわずかだという自覚はあるのですが、去年から、米は福島産のものを食べています。そんなことを発表して、お前こそ偽善者じゃないか、と言われるかもしれませんが(笑)。

エルサレム首都認定

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jp.wsj.com

 

アメリカの大統領がエルサレムイスラエルの首都として認定したのだとか。何らかの利権が絡んでいるのだろうとは想像できるのですが、上記Wall Street Journalの記事には、つぎのような記述もあります。

トランプ氏の福音派助言団体のメンバー、ジョニー・ムーア氏は「これは福音派への対応だけで決定されたわけではないが、福音派の影響なしでは決まらなかっただろう」と語った。ムーア氏は多くの福音派ユダヤ系指導者の広報を手掛けるカイロス社の創業者でもある。

キリスト教の一派がまとまってエルサレムの首都認定に一役買ったのだという説明ですね。

次の発言も摩訶不思議です。

エルサレムを巡る福音派の動きを非難する向きは、福音派ユダヤ人のためではなく、イエスの復活にはユダヤ人がエルサレムを支配しなければならないと黙示録が説いていると信じているからだと指摘する。

「 イエスの復活」は「キリストの再臨」の間違いだとしても、黙示録に「ユダヤ人がエルサレムを支配しなければならない」と説いている箇所があるとは思えません。もしそうなら、キリスト教の構造は根底から間違っていることになってしまいます。

そして

ファースト・バプテスト・ダラス教会の牧師でトランプ氏の福音派助言団体のメンバーを務めるロバート・ジェフレス氏は創世記を引用し「神はユダヤ人にイスラエルを与え、3000年前にエルサレムイスラエルの首都に決めた」と語った。「神がイスラエルを愛するから、われわれもイスラエルを愛する」と話した。

キリスト教の理解では、選ばれた民族であるイスラエル国民は地上の教会員に、エルサレムは天上の教会に帰結した、ということになります。消滅したのではなくて昇華したわけです。「神がイスラエルを愛するから、われわれもイスラエルを愛する」という考えは、神の受肉と受難、復活に関する福音書の教えを何一つ理解出来ていないことになってしまいますが、福音書を理解できないのに「福音派」となのるとは陳腐な現実です。

彼らにとって旧約は未だに有効であって、新約と同時進行している、ということなのでしょうか。あるいは、新約は実際には幻であって、旧約こそが唯一の希望だと思っているのでしょうか。もしそうならば、首都云々よりもまえに割礼を受けなければならないでしょう。

いずれにせよ、どっち付かずで中途半端。馬鹿げた話だと思います。

神になる その2

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thenextweb.com

 

前回記事「神になる」では、キリスト教徒の最終的な目的が「神になる」であることの説明を行いましたが、今回ももう少し続けましょう。

Wiki神成 (正教会)」によれば、ペトロの手紙二の次の言葉

また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

を根拠とし、四世紀のアレクサンドリア主教アタナシオスによりまとめられた考えであると説明されています。正教会では「神成」その他の教会では「神化」という語で表されるともありますね。

アタナシオスは「神が人となったのは、人が神になるためであった」と述べて「神になる」の思想を集約した、とあります。

人が神になるための思想体系がキリスト教であって、そのモデルがイエスという人物なのです。Wikiの記述を引くのであれば、

人間は信仰生活を通して神に似る、即ちイエス・キリストの神の本性にあずかり、イエス・キリストが神格化したより真正な人間性を獲得する。人にとってのこのプロセスを神成と呼ぶ。

となるわけです。

仏教において、お釈迦様を、生きた人間でありながら、悟りに至った者のモデルであるとして、人はだれでもお釈迦様のように頂点を目指すことができるのだ、と教えるのと似ています。

宗教とは、本来生きているもののための生き方の追求手段の一つであるべきなのです。実際、いずれも当初の志はそうだったのだと思います。キリスト教が(仏教も同じですが)、葬式宗教に成り下がってしまったのは、大部分の要求が、高度な精神性よりも、猥雑な迷信の部分にあったからです。大衆化して本質を失ってしまっているわけです。

Wikiにも、

「人が神に成る」という言葉はそれだけを取上げればかなり危険で誤解を招きかねないが、神成は正教会の教えの根幹にある。特別な人にではなく全ての人に関係すること、および、何か特異な事をするのではなく、全く普通に信仰生活を励む事によって神成がなされていく事が強調される。

とあるように、根幹であるといいながら、説明するのが困難なので、と尻込みしている様子がわかります。

キリスト教の成立は、これまで色々な記事でご紹介しましたとおり、胡散臭いものですが、なにはともあれキリスト教という宗教があるわけで、それを良くして行くこともできたのではないかと思いますが、真実を押し隠して死後の恐怖を看板にしているようでは、悪習悪癖と評価する以外にはありません。

神になる

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zelphontheshelf.com

 

「神になる」と聞くと、反キリスト的、異端的、というイメージになるのではないかと思いますが、実はこれ、「神になる」という思想は、正式なキリスト教の基本的で最終的な目的です。

「神になる」という言葉からは、神のような能力を得て、魔法のような奇跡の業を行えるようになる、というようなイメージが思い起こされるのではないかと思うのですが、そうではなくて、神と全く等しい価値観を得た状態になることを、「神になる」と言っているのです。

エス様は福音書でそうしなさいと教えています。見てみましょう。

マタイによる福音 5:48

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

キリスト教で「完全な者」とは神以外にあり得ません。しかし、キリストであるイエス様は「あなたがたも完全な者となりなさい」と言って、人も神になり得るのだと教えています。

そして、そのためにまず何をすればよいかを教えています。

マタイによる福音書 19:21

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

 

このブログをご訪問下さるかたは、キリスト教への関心が深いかただと思いますので、この解釈をご紹介しましたが、この本来の意味をきちんと理解出来ている教会、また教役者はそうそういないと思います。いても、説明して正しい理解を促せなかった場合、良くない結果を生じてしまう危険が目に見えていますのでなかなか言わないのです。

罪だの、契約だのと、回りくどく色々な説明をしていますが、また、天国だの地獄だの、多神教を吸収して百花繚乱のようになってしまっていますが、要するに言いたいことは、「神になれ」というただひとつのことだったわけです。

 

仏教ではこれを「菩提」と表現し、誤解を恐れずに、人はだれでも極楽に往生できる、つまり、如来と同じ存在になることができる、と教えています。極楽とは、正確に言えば死後の世界ではなくて人自身の状態のことを言います。そして、すべての煩悩福音書でいう「持ち物」)を捨てて涅槃(すべてを知り尽くした状態)を体現したかのように見える「死」を指して「成仏」などというわけです。宗教の根幹はどれも似たようなものだということでしょうね。

 

死後の刑罰を恐れるのではなくて、神(理想の状態)に近づこうと指導するのであれば、キリスト教という教えにも少しは見るべきところがあるかもしれません。しかし、残念なことに、天国だの地獄だの、許しだの償いだのといった迷信的な部分にばかり囚われていて、人間がいかに迷信好きかということがわかるばかりです。そのほうが簡単ですからね(笑)。

お釈迦様の来世観

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blogs.yahoo.co.jp

 

実家が京都市内でしたので、禅家の雲水が行う托鉢はよく目にしました。

「ほー」と呼ばわりながら町々をめぐるのですが、子供たちは声を聞くと興奮して「ほおが来たで」などと囃したてながら飛び出してきたり、怖がって家の奥へ走り込んだりします。あれは「ほお」ではなくて、「法雨」と言っていて、み仏のご慈悲は雨となって万民に分け隔てなく降り注いでいるのだよ、と教えながら歩いているわけです。

声が聞こえると、袋に入れた米や現金、時には野菜などを持って出、托鉢僧に渡します。托鉢とは単に物乞いをしているばかりではなく、市井の善男善女に、布施行の機会を与える、という意味もあるのだそうです。

上に引用したブログの写真は大徳寺という北大路にある大きな臨済宗のお寺の雲水ですが、この他にも東福寺建仁寺相国寺妙心寺などの禅寺や、延暦寺本願寺の托鉢に出会わすこともあります。

仏教というと、葬式を連想しがちで、死後を重んじる宗教、というイメージが強いですが、お釈迦様は死後のことについてどう教えたのでしょうか、「火ヴァッチャ経」という教典に記されている、お釈迦様と外道の修行者の問答を見てみましょう。「阿含経を読む」というサイトから引用します。

ヴァッチャよ、これをいかに思うか。もし汝の前に火が燃えているとしたならば、汝は<わが前に火が燃えている>と知るだろうか」
「友ゴータマよ、もし、わたしの前に火が燃えていれば、わたしは、むろん、<わが前に火が燃えている>と知るであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝が、<この火は何によって燃えているか>と問われたならば、ヴァッチャよ、汝は何と答えるであろうか」
「友ゴータマよ、わたしは、<おお、わたしの前に火が燃えている。この火は、草や薪があるから燃えているのだ>と答えるであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝の前のその火が消えたならば、汝は、<わが前のその火は消えた>と知るであろうか」
「友ゴータマよ、もし、わたしの前のその火が消えたならば、わたしは、むろん、<わが前のその火は消えた>と知るであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝に<その火は、ここからいずこに行ってしまったのか。東か、西か、あるいは、北か、南か>と問うものがあったならば、ヴァッチャよ、汝は、かく問われて、なんと答えるであろうか」
「友ゴータマよ、それは見当違いというものである。友ゴータマよ、実に、かの火は、草や薪があったから燃えたのであり、それが尽きて、あらたに加えられず、もはや燃えるものがなくなって消えた、というべきである」

これをもって、釈迦は死後に無関心だった、とか、仏教は現世利益至上主義だとか言われる場合もあるようですが、そうではなくて、単に、お釈迦様は嘘を言わなかっただけのことでしょう。死んだことがないのに、自分で確認できないようなことを説明のしようが無い、というだけのことです。

死後の世界を明確に定義している宗教があるようですが、それは確認した上でのことでしょうか。そうでなければ虚言でしかありませんよね。

体とは別に霊魂というものがあるのであれば、夜、体が寝ても意識は寝ないはずです。意識は体の一部だから、体と共に意識も睡眠するのであって、体が死んでも意識だけは生き続ける、ということは考えにくいですね。

仏教は生きている間を大切にするために、執着せずにものを捨てなさい、ということを教えます。また、「死」はすべてを捨て去って、煩悩さえも一切残っていない清らかな状態を彷彿とさせるので、「涅槃(=悟った状態。成仏と同義)」と喩えられるわけです。

仏教を、現実的な生き方の提案であるというのであれば、キリスト教は生を否定する死の宗教だといえるでしょう。

ディオニュソスとキリスト

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www.theoi.com

 

「始まりに向かって」というブログの『「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」・・パンとワインの味わい』という記事を見つけました。臼井隆一郎の「パンとワインを巡り神話が巡る」(中公新書)を紹介されています。同書から一部引用されていますので、ここでも拝借してご紹介させていただきます。

エスは「神の子」である。
この時代に「神の子」を主張するということは当然、別の「神の子たち」との競争関係に入ることを意味するであろう。
「わたしが命のパンである」と言うイエスは、今まで見てきた食の英雄ヘラクレスやワインの神ディオニュソスとどのような位置関係にあるのであろう。(略)
エスが神の子であるならば、はっきりと名前そのものが「神の子」(=ディオヌソ)と意識されるディオニュソスとの関係が問題になる。
エスは12月25日に生まれたことにされた。 ディオニュソスの誕生日を踏襲したのである。
厩(うまや)に生まれたイエスのゆりかごは飼い葉おけであった。
飼い葉おけで眠る赤ん坊は他にもいる。
ギリシアアテネからエレウシスに向かう儀式の行列の先頭には乳母に変装した男やディオニュソスの赤ちゃん時代のおもちゃを座布団に乗せて運ぶ人々がいた。
ディオニュソスのゆりかごであった飼い葉おけを運ぶ人もいた。
厩(うまや)で動物を従えて生まれ、飼い葉おけに遊ぶ幼子イエスは、エレウシス復活信仰の象徴というべき幼子ディオニュシスに酷似しているのである。
ディオニュソスは奇跡をおこなった。
エスもワインの奇跡をおこなった。
4,5斗も入った水がめの水をワインに変えるのである。
エスディオニュソスと同じく奇跡を起こすことが出来るのである。
しかしディオニュソスディオニュソスたらしめているのは、ディオニュソスみずからの受苦を介して、ワインそのものとなり、人に飲まれ吸収され、人と合体することによって、神とも人とも区別のつかない“バッコスの境地”を作り出すところにあった。
エスディオニュソスに匹敵し、それを凌駕する神の子の実を示すためには、イエス自らがワインと化すことである。
エスが犠牲のワインそのものとなってわれわれの前に立ち現われてくるのは、イエスが地上の最後の夜をすごすゲッセマネの夜である。
翌日は逮捕、処刑されるという最後の夜、イエスは苦しげに言う。
「父よ、あなたはなんでもお出来になります。この杯をわたしから取り除けて下さい。」
エスは自分を、生贄としてのワインを入れる献酒杯に注がれるワインに見立てている。
実際イエスは、踏みしめられ絞りぬかれるブドウそのものである。
場所はオリーブ山の麓のゲッセマネ
ゲッセマネとは油搾り器のことである。
エスは言う。
「わたしは命のパンである。」
「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつでもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もまたわたしによって生きる。」
こうしたあきらかに食人を思わせる言い回しは、やはり驚くべきことである。
動物の血を飲むことはユダヤ人には禁じられている。
ましてや人間の血を飲むなどもっての他である。
パンを裂き、ワインを飲むことで暗示される、肉を引き裂き、血をすするという事態を含む神話の圏域はディオニュソスの圏域であろう。
それは巨人や信女に八つ裂きにされ、食いつくされるディオニュソスの再現以外の何ものでもない。
エスにはパンの供養(エレウシス)、ワインの生贄(ディオニュソス)、小羊の屠り(ユダヤ)のそれぞれが等しく見られるにも関わらず、一つ類を絶した構造がある。
倶犠には、倶犠に献げられる聖なる犠牲獣と、共同体を代表して倶犠を献げる聖なる祭司が不可欠であるが、
その両方を、イエスと言う一人の人間が担っていることである。
エスはみずから圧搾され飲まれるワイン、引き裂かれ分配されるパン、そしてほふられる小羊の三重の生贄であると同時に、
その生贄儀式が聖書に書かれた通り成就するために、式の進行を完全に取りしきる祭司である。
そしてイエスは、動物倶犠の手順を踏んでいるのである。

 過去記事「神の類似」でも、キリスト教が色々な宗教の寄せ集めであることが証明されている、ということをご紹介しましたが、今回は豊穣とワインの神、ディオニュソスがキリストのモデルだったのだ、と説明されている著作のご紹介ですね。

日本でも、神前には米と塩、水に加えて酒を供えます。酒の神には奈良県の大神(おおみわ)神社、京都の松尾大社など、神社としても古くから存在するものがあって、大神神社の、山そのものを神体とするようなものはとても古いものだと言われています。

動物倶犠という形式は日本には見られないようですが、これもユダヤ教のオリジナルではなくて、中近東からヨーロッパ、アフリカなどに見られた一般的な様式だったようです。吉川英治三国志には、中国にも同様の宗教儀式があったことが記されています。

キリスト教は、次々に証明者を惨殺し、証拠を隠滅しましたので、あたかもキリスト教の様式が世界で唯一無二であるかのように感じている人が多いわけですが、実際にはそんなことはありません。宗教に関するアイデアなんて、大概ありきたりのものにすぎないのだ、ということなんですよ。