キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

判官贔屓とイエス・キリスト

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「竹のひと節 義経千本桜/忠信狐之段」 「河連法眼館」の場面。楊洲周延画。

ja.wikipedia.org

判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉をご存知でしょうか。判官とは源義経のことです。Wiki判官贔屓」では次のように説明されています。

判官贔屓(ほうがんびいき)とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象を指す。「判官」の読みは通常「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に「ほうがん」と読む。

一の谷、屋島、壇ノ浦と続けざまに戦果を挙げ、見事に平家を制圧した義経ではありましたが、兄、源頼朝からは憎まれ、とうとう自害して果ててしまうことになります。

その理由を同じくWikiから見てみましょう。

源義経治承・寿永の乱後半の平家追討において活躍したが、三種の神器のうち天叢雲剣を取り戻せなかったことや、兄である源頼朝の許可を得ることなく後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられ、頼朝の家来である御家人を使役・処罰するなどの独断専行を行ったことが頼朝の反感を買った。さらに義経の上官として平家追討を指揮した源範頼や、頼朝が義経のもとに奉行として派遣した梶原景時が、平家追討後の義経の傲慢な振る舞いについて訴えたことで頼朝の心証は一層悪くなった。頼朝の怒りを知った義経は起請文を献じて弁明したが、「これまで勝手にふるまいながら、いまさらあわてて弁明しても、もうとり上げることはできない」、「こちらが不快に思っていると聞いてはじめて、こうした釈明をするのではとても許せない」と、かえって怒りを増幅させてしまった。

義経と頼朝の間にあった様々な事柄は、いろいろな文書に残っていて、それらを多角的に知ることができます。例えば「平家物語」では、客観的に淡々と壇ノ浦までの義経の事績が述べられていますが、九条兼実の日記「玉葉」では、頼朝寄りの位置からの記録があり、作者不詳の軍記「義経記」にはイジメの被害者としての義経が描かれています。その他、「吾妻鏡」、「源平盛衰記」などからも、その事績を知ることができます。

演劇作品の主題としても多く扱われていて、能では「安宅」、「屋島」、「橋弁慶」など、人形浄瑠璃では「義経千本桜」、「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」など、歌舞伎では「勧進帳」などがあります。

このように、様々な別人による義経に関する記録が残っていて、それぞれ、別の角度から義経という人物を照らし出しているので、人物像が立体的な具体性を持って活き活きと描き出されていて、それが演劇などに反映される、という結果を生み出しているわけです。

さて、このことを念頭に置いて、イエス様について考えて見ますと、やはりその傍証の少なさ、ということを思わざるを得ないのではないでしょうか。Wikiの「ナザレのイエス」には次のような説明があります。

キリスト教徒による一次史料は少ない。

エスの名前が初出するキリスト教外の文書では、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(18:63)やタキトゥスの『年代記』などのごく一部にイエスに関する記述があるが、前者は後代の一部加筆を疑われており、後者は同時代史料でないばかりか、キリスト教徒(「クレストス」を開祖とする宗教)に言及したものである。したがって、イエスの実在性の根拠とするには問題を含んでいる。

いかがでしょうか。福音書には「エジプトへ戸籍登録に行った」と書かれていますが、エジプトからはそのような記録が出てきません。「ローマ軍による正式な裁判の被告となった」と書かれていますが、ローマ帝国の資料にはそのような記録が存在しません。

エス様については、事実上、福音書で一方的に事績が主張されているだけなのです。平面的で具体性にかけている、と言うべきでしょう。実際のところ、実在したとはちょっと考えられないですよね。

つまり、キリスト教という宗教にとって、イエス様が実在していたかどうかはそれほど重要な問題では無い、ということなのです。建造物と儀式と教義の三点セットさえあればカネが集まってくる。実際にはこれだけのことなんですよ。実体は商業なのです。一応教祖も必要だよね、ということで創作された架空の存在に過ぎないのです。

イエス・キリストは実在した、というよりは、チンギス・ハーンは実は源九郎判官、伊予守、義経だった、という方がまだ「へー、そうかもね」とうなずいてみる価値があると思います(笑)。

自然災害は神の罰か

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www.independent.co.uk

上の記事は「自然災害は神が同性愛者を罰するために起こされたものである」と主張するキリスト教ロビイストの住居が、ルイジアナの洪水で破壊されたことを伝える記事です。

神が、同性愛者を罰するために彼らに天災を及ぼす、という考え、キリスト教徒の皆さんはどう思われるでしょうか。そんな考えは極端な考え方であって、普通のキリスト教会はそんなことを主張しないし、穏健なキリスト教徒であれば、そんなことを考えもしないよ、と思われたでしょうか。

しかし、ツイッターを見ていますと、美しい花が咲き乱れている風景の写真を添えて、神の業は素晴らしい、このような造形は神の業の他には考えられない、というような、キリスト教徒の発言をしばしば見ます。

また、酷暑の昼下がりに夕立があれば神に感謝し、虹を見れば神のサインだと驚き怪しみ、病気が治ったら神様にお祈りしたおかげ、と喜ぶわけです。

しかし、良いことは神の恵みだと喜ぶけれども、悪いことと神は無関係、というのは通らない話でしょう。実際、夕立は涼しさをもたらす一方で、同じ夕立であっても、地域によっては、農業に害を及ぼすなどの深刻な災害を顕しているかもしれません。自然の現象が全て神の業によるものだと言いたいのであれば、その現象には利害の両面が混在しているのだということも理解できねばなりません。

つまり、上の記事のロビイストのように、自然であれ、人為的であれ、すべての現象は神の意志の顕れだと理解する人は「正しいキリスト教徒」だと評価できるわけです。

心身に障害がある人、自然災害の被害にあった人、戦争によって死んだ人、人種差別や部落差別をされる人、同性愛者や犯罪人などは、神に嫌われている人であって、直ちに切り捨てるべきゴミだと、キリスト教徒であればそのように理解するべきなのです。

そんなことないよ、神様は優しい方だよ、と言いながら、その同じ口で「今日の青空はどうだ、鳥がさえずっていて美しい花も咲いている。神の恵みに感謝しよう。」などと言っている人は、「偽善的なキリスト教徒」と言うべき人であって、キリスト教の意味をきちんと理解できていない人であるわけです。

あのロビイストが洪水の被害に遭った理由ですか? 彼も同性愛者だったからなんじゃないですか。知りませんけど(笑)。

ブッダの毒舌

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www.gei-shin.co.jp

平野純さんのご著書「ブッダの毒舌」を読みました。原始経典「スッタニパータ」からいくつかの言葉を取り上げておられます。

僕は以前、岩波の「スッタニパータ」や「ダンマパダ」を読んでみたことがあるのですが、訳文が固い、というか、法律の文章を読んでいるようで今ひとつ頭に入ってこなかったことを覚えています。

平野さんのこのご著書は日常の親しみある文章で訳されていて、とても良かったです。もちろん、岩波の訳をされた先生も有名な先生ですので、頭に入って来なかったのは、僕の頭がお粗末なせいなのですが(笑)。

ここで少しご紹介させていただきましょう。

死を嘆くな。

死にとらわれる自分を嘆け。

妻子も父母も財産もあらゆる欲望のもととなるものを

捨ててただ一人歩め。

いかがでしょうか、福音書のイエス様の言葉を思い起こさなかったでしょうか。次の箇所です。

マタイによる福音書 10:34-39

地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

いかがでしょうか、この二つの提言はほぼ相似です。そして、その言葉数の違いを見てください。また、われわれ東洋人に理解しやすい言い回しはどちらでしょうか。

キリスト教徒の皆様にもおすすめの一冊です。

 

本ブログで過去にご紹介した平野純さんのご著書です。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

安全な教会

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gompa.seesaa.net

ときどき「どの教会へ行けば安全でしょうか」というご質問を頂戴します。「カトリック聖公会であれば安全だと思います」と答えさせて頂いているのですが、要するに、十分の一(什一)献金を要求しない教会へ、ということです。ただし、人間関係に問題がないか、変な信者がいないか、ということになってきますと、カトリックであれ聖公会であれその危険性が無いとは言い切れません。

献金について、例えばカトリックであれば、「カトリック要理の友」の「第34課 教会のおきて」という項目において次のように定められています。

カトリック信者は神のみ旨にかなうために、神の十戒だけでなく
教会のおきてを守らなければなりません。 
 キリストは教会をおたてになったとき、教会に、信者を指導する権限をお与えになりましたから、キリストに従う心で教会の指導に従順に従わなければならないのです。

   カトリック教会のおもなおきては次の5つです。
  1、日曜日と守るべき祝日にミサ聖祭にあずかり労働を休むこと。
  2、少なくとも毎年一度罪を告白すること。
  3、少なくとも毎年一度復活祭のころに聖体を受けること。
  4、定められた日に償いの務めを果たすこと。
  5、おのおのの分に応じて教会の維持費を負担すること。

 とあります。第5のおきてについてはさらに、

第5のおきてを守るために、信者は教会に対する経済的な責任を負い、身分に応じて維持費を負担します。金額はきめられていませんが、神への愛のために犠牲の心をもって献金するべきです。

 と述べています。

カトリック教会には、各信者は教会の維持費を負担する義務がある、という定めがありますが、その金額については各個人に任されていて、暗に什一を要求する、ということも無いようですので、献金についてはそれほど重大な心配ごとには繋がらないのではないかと思います。たとえば、月額500円であろうと、毎月納めていればそれで良い、ということになるでしょう。

聖公会についても、カトリックとほぼ同様ではないかと推察されます。もし、そうではないよ、という事例などありましたら、是非お知らせくださればと思います。

プロテスタント教会の場合、日本基督教団に参加している教会であれば、まさか什一献金などという愚かな真似はしないだろう、と思っていたのですが、過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でご紹介しました通り、説教が即ち什一献金のおねだりだという情けない教会が実在することがわかりました。ゴキブリは一匹みれば百匹いるのだとか。ですので、プロテスタント教会は全滅です。

念の為、日本基督教団サイトで、教規、および教憲を確認してみたのですが、献金については、使いみちについての少々の言及と、それを行わない信徒に対する処罰の定義が見られるものの、献金が信徒の義務である、という明確な定めはありませんでした。

では、献金しなくても良いのか、というと、しないものを罰する定めはある、ということですね。面倒臭いことを言い出す信者がいたら、マラキ書かなにか適当に引っ張り出して煙に巻いておけ、ということでしょうか。確かにそのほうが臨機応変な対応が可能で便利かもしれません。詐欺師のマニュアルというものがあるのであれば、まさにこのようなものであることでしょう。

問題は正教会です。正教会といえば、キリスト教としての歴史は最も長いのだし、日本へはロシアの公的機関を通じてもたらされたという経緯もあって、由緒ある穏健な教会だ、と理解されている方も多いのではないかと思うのですが、次のブログ記事をご覧ください。

ameblo.jp

元、神戸正教会の信者さんだった方のブログのようです。引用してみましょう。

そういえば
正教会の教会に行かなくなって、
いくつか気付いたことがある。

まず心的に余裕ができた。

日曜日や祝日が丸々潰れるから休めない感が嫌だったり、
教会に行ったらしなきゃいけないことがあるとストレスになったり、
古参信者から何か言われやしないかとヒヤヒヤしなくてよくなった部分などでかなり楽になった。

金銭的についても楽になった。

思い出しながら、
金額を出せるものは出してみました。
あくまでも僕個人の例になりますが、
これから正教会に興味を持ち、
通うかもしれない人は参考にしていただきたい。
因みにカトリック正教会みたいに献金献金献金とうるさくないらしい。

まず交通費
直接教会に支払うものではないが、
教会通いに関してかかった経費として考えたい。

正教会の教会はカトリックのようにたくさんなく、
特に西日本は寂しい。
うちは家から神戸の教会まで、
往復5000円弱の交通費がかかっていた。

そして教会に支払う月々の献金が10000円。
塾の月謝を払う封筒みたいなのがあり、
きちんと支払ったら支払った月の欄にスタンプが押される。
月々の献金は教会に通わなくても、
教会に属しているだけで支払わないといけないので、
滞納するとどえらい金額になる恐れがある。
しかも教会によっては滞納していると督促状がハガキで送られてきます。

月々の決まった支払い以外には、
教会に参祷したらローソク代(一本100円か200円)とパン代(100円)。
これらは任意です。

儀式の最後にも献金を求められます。
金額は自由ですが、
硬貨だけで支払ったり支払わなかった時は他信者から白い目で見られます。

あと
復活祭や堂祭の時にも献金を求められます。
セミナーに参加しても献金を求められます。

年に何回か送られてくる、
教区の会報にも献金の振込用紙が同封されていて、
一口3000円の献金を求められます。
この献金については名前と金額が公表されるので、
誰が支払い、
誰が支払わなかったのかが一目瞭然になる。

教会の施設を新たに建設する時も献金を求められます。

結婚式や葬式をしてもらったら、
かなりの金額を献金します。
これは場所代みたいなものです。

洗礼を受けたら、
場所代と正教会訳聖書代で15000円くらいを請求されます。

教会によっては、
信者でなくても入場料という献金を求められます。
ニコライ堂など)

他にも僕の知らない献金があるかもしれない。

これだけ献金献金と金を集めまくっても正教会が経済的に苦しいのは、
司祭など神品にかかる人件費が大き過ぎるのと、
コアな信者の大半が御老人だから、
一回当たりの献金額が少ないからのようだ。

正教会が大好きな人ならば、
献金献金と言われても嫌なものでもないし、
教会の為に休みが潰れても負担に感じはしないでしょう。
僕がそうでしたから。

だけど
気持ちが少しでも冷めてしまうと、
教会に支払う献金も、
教会の為に休み返上で働くことも、
負担に感じるようになってきます。

 教会へ行くための交通費が一往復で5000円だとか。仮に月4回であれば、それだけで2万円、月月の献金が1万円ですから合計3万円。礼拝後の献金が硬貨であれば白い目で見られるというのですから、最低千円は払えということでしょう。千円として、合計3万4千円、さらに建物や什器備品の修理費や更新費用、その他諸々、これは大変です。遅れれば督促状がハガキで送られるというのですから、サラ金で借金したようなものですよね。

ちょっと大げさ、と思われたでしょうか、いいえ、これは本当のことだと思います。また別の教会の方ですが、知り合いの正教徒が、聖堂の屋根修理と壁の塗り替えの費用を信徒の頭数で割った金額を当然のように請求されてびっくりした、と言っていたことを思い出します。10数万円だった、と言っていました。ですから、このブログの記事内容は大げさではないと思います。それでも、信者全員に配られる月会報に、献金額が名指しで掲載されるそうで、みんな、競うように献金するのだとか。まあ、お金の有り余ってるひとにしか楽しめない悪い趣味、という感じがしますよね。

キャッチアイ画像に拝借したのは神戸の正教会ですが、皆さん、なにかおかしいとは思われませんでしたでしょうか。そうです。これは神戸正教会を裏から撮った写真なのです。僕も何度か見学に伺ったことがあるのですが、三宮を降りて、加納町から教会へ至る道を辿って行きますと、まずみえてくるのは、この写真に見るように、教会の裏です。教会の正面は、おそらく写真として撮影できないような位置にあったのではないかと記憶しています。神戸正教会の写真といえば、この写真のような裏側のものしかでてきません。

なんでこんなことになっているのかといいますと、正教会の聖堂は、東向き、入り口が西の端に、祭壇(至聖所)が東の端になるように建てなければならない、という決まりがありますので、それに従って建てられているからです。これ、本当の話です。イスラームみたいですよね。でもキリスト教の話です。正教会という組織が、いかに杓子定規的な硬直したものであるかを理解することができるでしょう。

正教会の話ばかり長々としてしまいましたが、「安全」かそうでないかを論じるのであれば、上のような事例に鑑みて、安全ではない、と言うべきだと思うわけです。

ですから、教会へ行ってみたいけどどこが安全なのか、を言うのであれば、カトリック聖公会の教会で、できるだけ大きくて信徒数の多い所がいいでしょう。

ただし、どちらの教会も、性虐待やハラスメントと無縁ではありません。それをご承知の上で、よろしければお試しになってみてください。

さらに、はなむけとして『君子は危うきに近寄らず」という言葉をお贈りしておきましょう。幸運を祈ります。

 

カドゥケウスの杖

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www.crossfit.com

いつもツイッタでお話相手になってくださっている方が、病院のロゴにはヘビがいるよね、というお話をしておられました。

僕は、救急車や病院にヘビのマークがあるのは、旧約聖書のエピソードから採用されているのだ、と思い込んでいましたので、民数記の次の箇所を書き込んでリプライしてしまったのですが、

民数記 21:4-9

民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

その直後に、別の方が次のようにリプライされました。

カドゥケウスの杖ですね。

ja.m.wikipedia.org

これは、キリスト教に批判的であるはずの僕としたことがうっかりしていました。医療のシンボルにヘビのマークが用いられているのは、聖書のエピソードがオリジナルになっていると思いこんでいたからです。

聖書は古いもの、と思われているかも知れませんが、聖書(キリスト教でいう旧約聖書)が書物として現れるのは、せいぜい遡っても紀元前500年頃、イエス様が現れるよりもたかだか500年ほど以前にすぎません。NHKのテキストから説明をお借りしましょう。

textview.jp

旧約聖書」、つまり「ユダヤ教の聖書」はいくつもの文書(英語では「book」)の集合体であり、古代ユダヤ教が展開する中で、徐々に作られていった。いつ、どのように編纂されたのだろうか。千葉大学文学部教授の加藤隆(かとう・たかし)氏にうかがった。まとまりのあるものが最初に成立したのは前5世紀から前4世紀頃で、ユダヤ民族がペルシアの支配下にあった時期です。ユダヤ教民族宗教としてそれなりに本格的に成立したと言えるのは、「出エジプト」の出来事の時です。前13世紀のことです。この時から、聖書の最初の部分が生じるまで、8、900年の時間が流れています。ユダヤ教には長い間、「聖書」は存在しませんでした。ユダヤ教は聖書に基づいて存在しているのではない、ということになります。

 一方、ギリシャ神話の最も古い文献はホメーロスの「イーリアス」などが紀元前9世紀にまで遡ることができますので、ギリシャ神話にあるケーリュケイオン、あるいは、より正確にいうのであればアスクレーピオスの杖のお話を、民数記側がパロディとして持ち出しているのであろう、と推察できるでしょう。つまり、みんなの知っているあのギリシャ神話のヘビの杖の逸話は、実は出エジプトの故事に基づいているんだよ、というようなことを言いたかったのかもしれません。しかしほとんどの場合、パロディされる側はパロディする側より上位です。聖書の著者は、ギリシャ神話ヘブライ神話よりも上位であることを無意識に告白してしまっているわけです。

おそらく、聖書が著された当時、聖書を読んだ人たちは、文中に含まれる論理的な箇所も、情緒的な示唆も、おそらくは現代の読者よりも、もっと深く具体的に理解できたのでしょう。おわかりでしょうか、上で引用したNHKテキストの説明にある通り、聖書は、ユダヤ王国が瀕死の状態になって、初めて生まれてきた文書なのです。その実体は、極右勢力によるヘイトに満ちた聞き苦しい捨て台詞のようなものです。

俺の言っていることが一番正しいんだぞ、いいか、本当だぞ、神だぞ『カミ』だ。どうだ参ったか。

と言っているようなものです。普通なら、ああ、そうですか、とにっこり笑ってそっとしておくレベルなのですが、「それは大変」と操られてしまっているのがクリスチャンと呼ばれる人たちです。

くだんの親愛なるツイッターさんは、聖書の『自分にとって益になる部分をピックアップして(読んで)ます』とおっしゃいました。

僕は、尊敬を込めて『理想的な聖書理解だと思いますよ!』とお答えしておきました。

「エジプト王パロ」とは

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lowch.com

パロ(ファラオ)とは何のことでしょうか、Wikiの「ファラオ」から説明を引用してみましょう

古代エジプトの君主の称号〈君主号〉。神権皇帝。古代エジプト語の「ペル・アア」が語源である。旧約聖書では「パロ」(文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書)もしくは「ファラオ」(新共同訳聖書)という転写で登場。クルアーンでは「フィルアウン」として出てくる。

ペル・アアとは「大きな家」の意味であり、王宮そのものを表す言葉であったが、転じて王宮に住む者、つまり王を意味するようになった。

なお、1世紀頃のローマ帝国では「エジプトの『ファラオ』は初代の王の名前でこれを代々襲名している」という俗説があったらしく、ヨセフスはこれについて『ユダヤ古代誌』第VIII巻6章2節で「ファラオはエジプトの言葉で王や王権を意味する」、「即位前は各王は個人名がちゃんとあって即位後にファラオと呼ばれる」、「(初代王の襲名自体は珍しいことではなく)アレクサンドリアの王(プトレマイオス王朝のこと)も即位すれば初代同様プトレマイオスローマ皇帝も即位すればカエサルと呼ばれ元の名前では呼ばれなくなる。」と説明している。

 キャッチアイ画像を借用したサイトにも、

「ファラオ」とは、古代エジプトの統治者の称号で、日本語では「国王」「君主」を意味します。

と説明されていて、「ファラオ」が「エジプト王」を意味することばであることを知ることができます。

それでは次に、「川西聖書教会」という教会のサイトの、「説教出エジプト6章」という頁から少し読んでみましょう。

さて第二に知らなければならない事は「神様の御心は誰も理解出来ない」と言う事です。今日の箇所でも明白なように、語っているモーセ本人ですら自分の思っていた事と神様がなさる事が相違していたのでずいぶんと苦しみました。語られたエジプト王パロには絶対に許容出来ない事でした。

 「エジプト王パロ」という表現がありますね。次の箇所、

ですから実際に神様が御心を示されたこの時、語るモーセも聞いたエジプト王パロも当事者である神様が救おうとされたイスラエル民族も結局神様の御心を理解できなかったのです。

 にも「エジプト王パロ」とあります。

しかし、Wikiにあるように、「パロ(ファラオ)」は「エジプト王」を表しているのですから、この文章のように「エジプト王パロ」と言ってしまうと、その意味は「エジプト王エジプト王」ということになってしまいますよね。日本の天皇を、「ジャパニーズ エンペラー ミカド」と表現するようなものです。

この牧師さんは「パロ」が、出エジプト記中の当該記事当時のエジプト王の個人の名前だと理解しているのでしょう。

牧師だというからには、神学校で聖書やユダヤ教、オリエントや北アフリカの歴史などは学んでいるはずだと思いますが、「エジプト王パロ」なんていう変な表現をしてしまうのが実際のところだ、ということのようです。

しかし、ちょっとまてよ、と僕は思いました。

自慢するわけでは全く無いのですが、僕は中学、高校時代に、新旧約聖書を何度も通して読んでいます。早ければ1ヶ月で一回、遅くても2,3ヶ月で一回、6年間で数十回は読んだのではないかと思います。エレクトロニックのインフラが充実している現代の世の中にあって、あえて計算尺のカーソルと滑尺で三角関数を計算するような楽しさを感じていました。読むたびに新しいものを発見しましたし、何度読んでも古くならない精神性を学ぶことができたとも感じました。

しかし、そのようにして聖書から学び得た結果は想像以上に尊いものでした。「教会の教えている事柄と、聖書が語る実際とには大きな隔たりがある」という感覚がそれです。教会とは、聖書の精神性を伝える者ではなくて、聖書を利用して成立する産業なのだ、という事実を知ることができたわけです。

「真面目なキリスト教徒」として生きて行くためには、あまり聖書を読まないほうがいいでしょう。「エジプト王パロ」と言って違和感を感じない程度がちょうどいいということではないでしょうか(笑)。

什一献金アンケート結果

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christian-unabridged-dict.hatenablog.com

2019年1月25日の記事で、「教会から十一献金を要求されたことがありますか?」というアンケートをお願いしました。結果は、サンプル数が21で、最も多かったのが福音派教会、ついで単立教会、その他、日本キリスト教団カトリック教会、正教会、という順でした。

教会は、信徒に什一献金を行わせようとして、旧約の十二小預言書の一つ「マラキ書」の記述を引用します。読んでみましょう。

マラキ書 3:8-10

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

カネの好きな牧師は、この、恐ろしい命令とも取れる文章を引き合いに出して、信徒からカネを取り上げようとするわけです。

次に、Wikの「マラキ書」から引用してみましょう。

当時、捕囚から帰還した頃は市民権の保証がなく、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。しかし、エルサレムはペルシアからも独立出来ず、ハガイ2:2で語られたような約束された栄光を見てはいなかった。

また民の中の資産家はそれを増やす手段を選ばず、軽率な離婚や異邦人との結婚などを行っていた。祭司はそれを止めようともせずにむしろ助長させていた。平気で皆が律法を破るようになっていたのである。

このように祭司の堕落[1]や、軽薄な雑婚・離婚[2]、捧げ物の不履行[3][4]などが蔓延していた。

上記のようにネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。しかし鈍感になっていた民は繰り返される預言に対して「どのように」と繰り返した。(マラ1:2他、多数)その民衆を呼び覚ますために預言者が遣わされたのである。

これを読むと、「十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。」と言うところの意味は、収穫物という対価であるというよりは、イスラエルの神、またイスラエル国家への忠誠と信頼を十全にせよ、という意味であることが理解されるでしょう。

キリスト教とは、613もある律法の細目を一つひとつ全て頑なに守ろうとするユダヤ教の縛りから離れて、イエス様によってもたらされた新しい、しかも真実の希望へと目を向ける神の民である、と自認している人々の集まりであるはずです。旧約の律法の規定・制約を示す言葉尻にうろたえる必要は無くなっているわけです。僕は高校の宗教の時間に、613という数字を「ムイミ」という語呂合わせで覚えるように教えてもらったことを覚えています。

つまり、その箇所はカネのことではなくて、実際には、異教の習慣や考え方に同調して安易な生活を選び、堕落しないように注意しなさい、という意味が書かれているのです。

よろしいでしょうか、キリスト教の教義は厳しく、私や家族の生活を苦しめる、と感じている人は、キリスト教の本質を正しく学ぼうとしないからそうなるのです。はっきりいいますが、聖書を利用して信徒からカネをむしり取ろうとする牧師は下劣な詐欺師に過ぎません。悪なのです。悪から遠ざからず、言われるがままに悪に利するものもまた、悪だということを理解して下さい。