キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

プロテスタントの葬式理解

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カトリック教会には、「煉獄」という死後観があることはご存知でしょう。Wikiから少し引用してみましょう。

カトリック教会の伝承では、煉獄は「清めの火」というイメージで語られ、その由来は教会の古くからの伝承だけでなく、『コリントへの第一の手紙』3章13-15節 や『ペトロの手紙一』1章7節などなど聖書のいくつかの箇所に基づいたものだと説明する。また、『マタイ福音書』12章32節 の記述から「ある罪はこの世で、他のある罪はあの世でゆるされ得る」と解釈できることが、煉獄の存在の根拠だとしている]。

さらに、煉獄の教えは、旧約聖書(第二正典)の『第二マカバイ記』12章45(-46)節の、罪のうちに死んだ死者達のための祈りの習慣にも見られるとしており、カトリック教会は初期の時代から、「死者の記念を深い敬愛の念を以って尊び」、罪から解かれるよう、死者のために祈りを捧げてきた。

しかしながら、「煉獄」の存在を認めているのはカトリックだけです。正教会には類似した死後観があるのですが、プロテスタント教会はこのような死後観を否定しています。

例えば、「英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)」というサイトをみますと、「第22条 煉獄について」として、

煉獄、免罪(贖宥)、聖像および遺物の礼拝と崇敬、また諸聖人の執り成しに関するローマ教会の教理は、虚しく作られた勝手な盲信であって、聖書に根拠をもたないばかりか、むしろ神の御言に反するものである。

とあります。

次に、米国の「保守主義福音派根本主義、そして無宗派です。」と自称している「Gotquestions.org ミニストリー」というサイトの「死者のために祈ることについて聖書は何と言ってますか?」から少し引用してみましょう。

死者のために祈るのは聖書的な考えではありません。誰かが一度死んでしまったら、私たちの祈りには何の意味もありません。現実は、人が死んだ時点で 、その人の永遠の運命は確、定します。キリストに置く信仰によって救われて神の御前で安息と喜びを経験する天国にいるか、または 地獄で苦しんでいるかのどちらかです。 金持ちと乞食のラザロの話はこの真理を鮮やかに描写しています。イエスは単にこの話を用いて、死後、不義な者は永遠に神から離され、福音を拒んだことを彼らは覚えていて、苦しみに会っているが、その状況を変えることはできないと教えておられます。(ルカ16:19-31)

愛する人を亡くした人は、死者とその家族のために祈るようにと励まされることがしばしばあります。もちろん悲しみの中にある人たちのためには、祈るべきですが、死んだ人のためには祈れません。誰かが人のために祈ることで、その人の死後、その人の行き先をある程度でも良い方に変えることができるなどとは、誰も信じるべきではありません。聖書は、人間の永遠の運命は私たちが地上で生きている間の行いで決定すると教えています。 「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル18:20)

いずれの教会も、死後の世界は天国と地獄だけであって、その他には何もない、と理解していて、残されたものが死者の冥福に寄与するための有効な方法は何も無い、と説明しています。

 

なるほど、そうなのかもしれません。しかしちょっと待ってください。それならば、プロテスタント教会は、信徒の死に際して、なぜ葬式の礼拝を行うのでしょうか。

Gotquestions.org ミニストリーの同じページから、別の部分を引用してみましょう。

聖書は救い主の御心に従う者は(へブル5:9)死後、すぐに主の御前に行くと教えています。(ルカ23:43;ピリピ1:23;2コリント5:6.8)それでは、彼らに地上にいる人の祈りに、何の必要があるのでしょう?愛する人を失った人たちに同情する一方、私たちは、「確かに今は恵のとき、今は救いの日です。」(2コリント6:2)と言うことを頭に入れておかなければなりません。この文脈では福音時代全体のことを言っているのですが、この節は避けられないこと∹―死と死後に来るさばきに直面する準備のできていない人の誰にでも適用できます。(ローマ5:12;1コリント15:26;へブル9:27)死は終わりです。そのあとは、どんなに多くの祈りでも、生前に拒んだ救いを得させることはできないのです。

それでは、一体どういう理由で葬式を行うのでしょうか。「それでは、彼らに地上にいる人の祈りに、何の必要があるのでしょう?」こちらが聞きたいぐらいです。少しでも神にコマンドを送って、個人の冥福に寄与したいから、という気持ちの現れが、葬式を行う、という行為にあらわれているからなのではないのでしょうか。

 

日本キリスト改革派いずみ教会、のサイトの、「葬儀についての心構え(クリスチャン向け)」というページから少し引用してみましょう。

キリスト教葬儀の目的は、神への礼拝、遺体の葬り、地上に残る者への慰めです。

従って、死者のための祈り、供物、また死者への語りかけなど、異教的風習を排除する事が大切です。

(中略)

このように、主にあって死ぬ者の慰めと幸福を思うとき、残された者がいたずらに嘆き悲しむ理由はもはや無いと言うべきであります。

嘆き悲しむ理由が無いのに、なぜ葬式を行うのでしょうか。僕は今まで何回か教会の葬式に参列しましたが、嘆き悲しまない葬式を経験したことは一度もありません。

 

いかがでしょうか。プロテスタントの信徒が、全員Gotquestions.org ミニストリーの記述通りに死後を理解しているのであれば、とっくの昔に葬式は廃止されているはずなのではないでしょうか。人が死ねば、行政手続きを済ませ、遺体は焼却して灰や骨は斎場に頼んで捨ててもらうか、細かく砕いて海にでも散骨すればいいだけの話です。

なぜ泣きながら教会で葬式を行って、骨は後生大事にお墓へ収めるのでしょうか。その理由は結局、人間誰でも、たとえプロテスタントのクリスチャンといえども、実際には迷信に振り回されて生きているから、ということでしょう。それから、見栄です。誰一人として理屈だけに従順にはなれません。たとえ神であっても世間体には勝てないわけです(笑)。

キリスト教徒が抱いている幻想

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ishikorog.exblog.jp

 

福音書には、神がキリスト教徒へ与える特典内容の予言、と理解されているところの記述がいくいつかあります。見てみましょう。たとえば、

マタイの福音書 6:26-30

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。

キリスト教徒はこの箇所を読んで、神は野草や野鳥にさえ無労働で生きていることを許しているのだから、キリスト教徒にはさらなる大きな特典を与えようとしているに違いない、と解釈したがるようです。それは少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも、イエス様の教えに従えば、苦難が減免される、ということの約束だろう、という程度には理解しているでしょう。

たしかにそうかもしれません。しかし、そうなるべき条件は、キリスト教徒になることではなくて、福音書の同じ箇所の、少し前に示されています。読んでみましょう。

マタイの福音書 6:19-21

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。

つまり、余計なものを持つと、それらを保護することに気を取られて、人として生きていることの大切な意味を見失ってしまいますよ、という警告であり、マタイの福音書6:25の「それだから、あなた方に言っておく」によって、空の鳥と野の花のたとえにつながっているわけです。

また次の箇所、マタイの福音書 11:28-30

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

も、優美な含みを持つ入信への誘い、と受け取れるかも知れないのですが、この箇所も、重荷を下ろすのは、負っているあなた方自身なのだよ、と指摘しているに過ぎません。そうすれば見るべきものが見えてくるだろう、と教えているのです。「わたしのくびき、わたしの荷」とは、「持ち物を捨ててしまう」という行動のことでしょう。

また、天国とは、キリスト教徒が死後に得られる報奨なのでしょうか、マタイによる福音書 13:45 には、

また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。

とあります。持ち物を売り払って買うべき、真珠、とは何のことでしょうか。

マタイによる福音書 19:20-22 には、

この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

とあって、「貧しい人々に施す」ことだということを知ることができます。

お釈迦様は、煩悩を捨てて悟りを得、この世を極楽浄土にしよう、と教えられました。同様に、イエス様も、余計な持ち物を捨てて、この地上に神の国を実現しよう、と教えられたのです。

洗礼を受けてキリスト教徒というタイトルを身に着けた、と安心しているキリスト教徒の皆さん、それは儚い幻想に過ぎません。実際には、「余計な持ち物」を一つ増やしただけのことです。

キリスト教徒は何から救われたいのか

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血の上の救世主教会(ハリストス復活大聖堂)

wondertrip.jp

 

キリスト教徒は、彼らの信仰対象であるイエス様を「救い主」であって、自分たちを救い出してくれる存在であると理解しています。では、一体何から救い出してもらう必要があるのでしょうか。

何からの救いなのか」というサイトがありましたので、引用しながら考えてみましょう。原文は句読点毎に改行されているのですが、そのままでは少し読みにくくなってしまいますので、少々改行を省略しながら引用します。

キリスト教の教会でよく耳にする、”救われました ”という言い方があります。では、何からの救いなのでしょうか。何かの困難から救われたのでしょうか。悪化していた病気から救われたのでしょうか。経済苦からでしょうか。災害からでしょうか。差し迫っていた危険からでしょうか。苦しんでいた人間関係からでしょうか。どれだけのクリスチャンが、聖書の言うところの、”何からの救いなのか ”を、正確に理解しているでしょうか。

 まさに今考えようとしている事ですよね。

イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味との理解なしに、”救われました ”・・・と言うならば、それは、何か混沌とした状態から抜け出した・・・という理解程度なのかもしれません。教会の礼拝では、「使徒信条」を会衆が唱和することになっています。しかし、教会の礼拝における説教で、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が解き明かされないなら、その人の信仰は、キリストなしで、十字架なしで、神の啓示なしで、自分の判断によって神をとらえ、理解することになりかねないし、その神は、罪の赦しからも、”神の裁きからの救い ”からも、かけ離れたものになるに違いありません。使徒信条の内容と意味とを理解しないまま、皆と一緒に唱和することもありえます。

使徒信条」の中に、何から救われるのか、の「何から」が説明されているよ、といっているのでしょうか。

その、神との和解の出来事こそ、神への罪の赦しの出来事こそ、イエス・キリストがご自身の命をささげることによって、罪の代価を命をもって支払ってくださったという出来事こそ、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

「 実に、人は心で信じて義とされ、 口で公に言い表して救われるのです。」(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章10節・新共同訳聖書)

やがて来る神の怒りから、私たちを救ってくださるお方こそイエス・キリストなのです。神ご自身のひとり子イエス・キリストの生と死と復活において ”備えてくださった救い ”なのです。神との和解の出来事なのです。

「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)

どうやら結論としては「神が、神の怒りから人間を救う」のだ、ということになるようですね。それならば、そもそも神が怒らなければよいのではないかと思うのですがどうなのでしょうか。

私たち人間は、だれひとりの例外もなく、神にたいして負債を負っています。生まれながらに神にたいして罪を負っているのです。私たちが、どのようにして罪人とされ、どのようにして罪を赦され、どのようにして罪から解き放たれるのか・・・・。これらの内容を理解しないまま ”救われました”では、その救いは、真実の救いではないかもしれません。

「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)

救いには「真実の救い」と「真実ではない救い」がある、と説明しています。「神の怒り」という災害からの「神自身による救い」がある、と言った、その同じ人が、人間の理解の度合いによって、その救いには、真実の救いとそうでない救いがあるとも言っているわけです。

このサイトのこの文章が、即ちキリスト教の救いを正確に表現している、とは言えないかもしれませんが、かと言ってさほど外れているとも言えないでしょう。概ねこのとおりだと思います。

いかがでしょうか。キリスト教が存在する根本理由ともいうべき重要な「救い」の必要理由がこのような詭弁に過ぎない、ということは、実に由々しいことだと思います。

結局、宗教の存在する理由は、架空の観念の上に成り立っているのです。感情的な側面を抜きにしては成り立たない。これが現実なのです。

「思いわずらうな」とは

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マタイ福音書に、「ソロモンの栄と野の花の教訓」と呼ばれる有名な一節があります。読んでみましょう。

マタイによる福音書6:25-34

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

これを読むと、ブルジョアジーを批判しているのか、というようにも読めます。実際、この箇所に関する説教を検索してみますと、イエス様は経済的な問題について言及しているのであって、キリスト教徒にもたらされる経済的特権を予告しているのだ、と説明している説教が数多くヒットします。

しかし、実際にはキリスト教徒といえども、結構頑張って仕事をしなければ世の中で生きていくことはできません。特権的と言われても、非キリスト教徒に比べて大して差があるとは思えませんよね。

実際には、この箇所は「欲を捨てなさい」と言っているだけなのです。イエス様は金持ちの青年に「すべての持ち物を売り払って貧しい人々に施した後、私に従いなさい」と言われましたが、この箇所では、売り払わなければならないようなものを貯め込むな、と言っているわけです。

なんだ、たったそれだけのこと? と思われたでしょうか。そう。それだけのことなんです。大半の牧師や神父が行う説教は、福音書密教化しようとして行う説教なので、結局のところどういう意味なのかがよくわからないようなものしかありませんが、福音書の言っていることは、そんなに複雑怪奇なものではありません。欲望を捨て去れば、今まで見えていなかったものが見えるようになりますよ、と言っているだけなのです。難解と思えるのは、2000年も前の遠い国における表現が現代日本人にとって親和感に欠けるからです。それほど普遍的な書物では無い、ということですね。

福音書にある都合が悪い記述

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blog.livedoor.jp

 

マタイの福音書には、次のように記されています。

マタイの福音書10:7-8

行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

いかがでしょうか。聖書の記述をその文字通りにしか受け取ることができない、とするのであれば、牧師や神父は、信徒から一円も受け取ってはいけない、ということになるでしょう。神からただで受け取った恵みを、対価を取って分け与えることは犯罪だ、と指導されているのですから。まして、その指導は神自身が直接行ったと記されています。

また、こうもあります。

マタイの福音書10:;9-10

財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。

この指導に従うのであれば、キリスト教の指導者たるものは、そもそも無一文でなければならないはずです。またかれらは、賛同者によるお恵みだけで、かろうじて飢えを凌ぐべきだとも指導されています。

また、キリスト教の指導者になりたいのであれば、病人を癒やす能力、死人を蘇生させる能力、らい病患者を清める能力、悪霊を追い出す能力が必要であるはずです。必要というよりは、それらの能力が無い人は、キリスト教の指導者になってはいけない、ということになるはずです。

聖書の記述には、確かに、書かれてあるそのままの意味で読むところと、比喩を用いて表現されているので、適宜読み替える必要のあるところがあります。この箇所であれば、

病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。

 は、「財産(持ち物)」という名の「病」から人を救い出しなさい、という意味の指導だと読み替えるべきところで、

ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

は、そのままの意味を、変更せずに読み従うべきところでしょう。

いかがでしょうか、教会とは、教会が金持ちになり、教会に依存して生きている職業人たちが安心して生活できることを第一義として聖書を恣意的に解釈し、それを信徒に教え込んでそのとおりだと納得させるところの産業でしかないのです。

上に説明した通り、読み替えるべき箇所を正しく読み替えたところで、産業としての教会の都合には適しない解釈にしかなりません。信徒は、産業としての教会の都合に合わせた、歪んだ聖書の解釈を押し付けられていたのです

キリスト教という宗教が発足した時点で、福音書の意義は失われたということになるでしょう。

聖とは何か

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ubdavid.org

 

「聖である」という言い方をしますよね。「聖と俗」ともいいますが、聖とは何のことでしょうか。聖書に初めて出現する「聖」は、創世記にあります。読んでみましょう。

創世記3:24

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 「回る炎の剣」がわかりにくいのですが、フランシスコ会訳では、

神ヤーウェは人を追い払われた。そして生命の木への道を守るためにエデンの園の東にケルビムときらめく炎のつるぎとを置かれた。

となっています。

聖とは、それに触れようとする者を殺そうとするかのような、強烈なストレスの象徴であったことを伺い知ることができます。

次にレビ記をみてみましょう。

レビ記10:1-3

さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、 10:2主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。 10:3その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。

 ここにもわかりにくい表現がありますので、頭の部分をフランシスコ会訳からみておきましょう。

アロンの 子ナダブとアビフとは、それぞれ 自分の 香炉を 取ってこれに 火を 入れ、その 上に 香を 置き、ヤーウェの 定め 以外の 別の 火をそのみまえにささげた。

まだわかりにくいのですが、おそらく、ナダブとアビブは、香を薫ずるための火、おそらくは石炭か木炭だと思うのですが、それを熾すための手順を、定められた手順ではなくて、より容易な方法をもって行ったのでしょう。しかし、それは許されざる悪行だった、というのです。彼らには死が与えられました。今では考えられないことです。例えば、講壇上の聖書を片付けるときに、右手に何かものを持っていれば、左片手で行ったとしても、それほど目くじらを立てる人はいないでしょう。この箇所からは何を学ぶべきなのでしょうか。

 

以前、我が家を含む眷属一同は、ほとんどキリスト教徒であることを説明しましたが、子供の頃、よく言い聞かされたことに、「決して行ってはならないこと」として、聖書や信仰生活に関することについて、ふざけたり、笑い話にしたりすること、がありました。そんなことをするぐらいなら舌を噛み切って死んでしまいなさい、とも言われました。そしてレビ記のこの箇所が引き合いに出されたのです。

我が家は比較的寛やかなキリスト教家庭でしたので、この指導があったことは、特によく覚えています。

ネットには、「クリスチャンあるある」などといって、信仰生活や聖書解釈などを笑いものにして楽しんでいる人がいるように思いますが、そういうのをみていますと、キリスト教をやめた僕でさえ、ちょっとどうかと思います。

神を遠ざけているのは、実際には人間のほうなのではないでしょうか。自らの主義や信条を貶めることを楽しみにすることほど汚らわしいことはないと思います。自身の大切なものが抜け落ちてカスカスの人生になってしまうでしょう。

信じているのなら、大切にしてください。それが「聖」の本当の意味ではないでしょうか。

犬とパンくず

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christianitymalaysia.com

 

今回は、マタイの福音書に記されている、犬とパンくずに関するエピソードについて考えてみましょう。

マタイの福音書15:21-28

さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

この箇所に出現する「犬」という表現は「異教徒」を示しています。この女はツロ・シドンというフェニキアの都市の出身であったと記されています。現在のレバノンで、イスラエルの北方、地中海沿岸に位置していて、おそらくこの女はギリシャ語を話す人であっただろうと思われます。

異教徒を「犬」と呼ぶ理由は、申命記にその説明があります。みてみましょう。

申命記23:18

娼婦の得た価または男娼の価をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。

 意訳されていてわかりにくいので。欽定訳を見てみましょう。

Thou shalt not bring the hire of a whore, or the price of a dog, into the house of the Lord thy God for any vow: for even both these are abomination unto the Lord thy God.

口語訳における「男娼の価」は「price of a dog(犬の稼ぎ)」を意訳したものであることがわかります。男娼は犬の性交時のような姿勢で客と性交渉を行うので、そのような宗教的習慣のある異教徒を蔑んで「犬」と呼ぶわけです。

さて、それでは、この、異教徒の女とイエス様の間にかわされたお話にはどのような意味があるのでしょうか。異教徒を異教徒だという理由だけで少なくとも一度は拒否されたイエス様の本意は何だったのか、また「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」という程度の答えで「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」とべた褒めする理由は何なのか、考えてみおれば不思議なやり取りではあります。

次のように考えてみてはどうでしょうか。

まず、この女の「娘」を、この女自身の心理状態を象徴する表現と考えることにしましょう。それで、女がイエス様のそばに近づいて、どうか教えを授けてください、と哀願したときに、イスラエルの宗教に慣れ親しんだ人に解りやすいように、そのような前提でいろいろなことを説明しているのだから、異教徒であるあなたがそれを理解するのは容易なことではありませんよ、と、諭したのでしょう。そのときに女は、

困難であれ、僅かな端緒のみであっても、真理であるからには、私はそれを知るべきだと思っています、

と答えたのではないでしょうか。それを聞いたイエス様は、そのような理解こそが真理へ至る道であるのだ、と絶賛したのです。そのようにしてイエス様の教えを聞くと理解し、閉ざされた女の心が開いた(娘の病が癒えた)、と記されているわけです。

おそらく、実際にはこのような会話があったわけではなくて、イエス様の教えが、人種、宗教、国、性といったような人の垣根を超越した真理であることを、このエピソードを通して説明している、ということなのでしょう。

見逃せないことは、イエス様が女に、異教を捨てて自らの教団に改宗するようにとは言っていない、ということでしょう。異教徒は、異教徒であるそのままの状態で、イエス様の理想を実践することができる、福音書はそう教えているのです。

「なんども食い下がってお願いすれば、いつかイエス様も折れて、しぶしぶながらも聞き入れてくださるのだよ」、程度の理解で済ましてしまうのがキリスト教という宗教のようですが、イエス様から見ると「犬の理解」ということになるのではないでしょうか(笑)。