キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

なぜイースト菌が「罪」の象徴なのか

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マッツァー - Wikipedia

 

キリスト教聖餐式で用いられるパンには二種類あります。一つはイースト菌を使わないで作った「種無しパン」、もう一つはイースト菌を用いて作った、「普通のパン」です。

正教会では「普通のパン」が使われますが、カトリックプロテスタントでは「種無しパン」が用いられます。カトリックは種無しパンを用いる決まりがありますが、プロテスタント教会にはカトリックほどの厳格な決まりがありませんので、食パンやロールパンを使う教会もあるようです。

この違いは、福音書の「最期の晩餐」が、「除酵祭」期間中の食事であったのか、「過ぎ越し祭」の食事であったのか、の解釈の違いにより生じているようです。

さて、福音書などでも、パン種(イースト菌)は「罪の象徴」として扱われる場合が結構あります。たとえば、マタイ伝福音書 16:11には、

わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。

とあります。「パン種」は、「謀略」や「悪い計画」のようなことを示す、聖書における隠語、符牒、のようなものであることがわかります。

では、その根拠となった出エジプト記の該当箇所を見てみましょう。

出エジプト記 13:6-7

七日のあいだ種入れぬパンを食べ、七日目には主に祭をしなければならない。種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない。

この箇所もそうですが、聖書には、ある行動を禁じるが、その理由が明確に述べられていない、という事柄がたくさんあります。パン種を置くことさえ禁じるところの理由は何なのでしょうか。例えば、

種を入れないパンの祭りの意味 - 牧師の書斎

というサイトでは、つぎのように説明されています。

なぜ、イスラエルの民たちは「パン種」の入らないパンを食べなければならないのでしょうか。それは、聖書においては、「パン種」は常に「罪の象徴」だからです。ヘブル語で「パン種」のことを「ホーメツ」(חֹמֶץ)と言いますが、その語彙には「酸っぱい」「苦い」という意味があります。私たちを「酸っぱく」し、「苦い」者としてしまうのが罪の性質です。逆に、「マッツァー」、すなわち「種の入らないパン」は「酸味のない甘いパン」という意味になり、罪のない生活の喜びや健全さを象徴しているのです。つまり、過越の祭りを通して、イスラエルの民が神によってエジプトから贖い出されたのは、傷もなく汚れもない小羊の血によったのであるということを確認した後に、罪から離れて神の民としてふさわしく生きるための方向づけとして、七日間にわたる「種の入らないパンの祭り」が制定されたということです。「パン種」はわずかの量でもパン全体に大きな影響を与えます。「七日間」というのは、「完全に」という意味が込められています。

この文章からは、『聖書においては、「パン種」は常に「罪の象徴」だからです。』が答えのようにも読めるのですが、結局、「パン種」が「罪の象徴」であるところの理由はわからないままです。

さて、いつまでも引っ張らないで、その理由を説明しましょう。上のマッツァー(種なしパン)の説明文中に答えがあります。引用しましょう。

トーラーの出エジプト記によれば、イスラエル人がエジプトから脱出するとき、パンを発酵させ膨らませる時間がなかったため、マッツァーができた。

ということなのです。 

つまり、「出エジプト」を成功させるためには、イスラエル全体が充分な緊張をもって状況を把握し、必要を感じたらすぐさま行動できるように準備していなければならないよ、ということだったわけです。

そのためには、パン種で粉を発酵させるような余裕は無いはずでしょ、ということですね。美味しくなくとも、腹持ちが悪くても、発酵過程を省略して非常の備えをしなさい、という意味が含まれているわけです。そんなことで一家族がもたついたのでは、出エジプト計画そのものが頓挫し、イスラエル民族は永遠にエジプトに閉じ込められてしまうことになってしまうかもしれません。

そのような前提に立てば、パン種を用いることは、空気読めてない、非常時の贅沢、出エジプトの成功を妨げる国賊、ということになり、犯罪の象徴となったことの理由を納得することができます。

こういう理由があって、パン種(イースト菌)が罪の象徴になったわけです。聖書の記述には、不思議な、意味の通らないような暗喩や呪文のようなものがあるように思えても、じっくりと解析を重ねれば、納得できる理由が現れてきます。

キリスト教徒は差別主義者

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旧ブログでも記事として書いたことなのですが、旧ブログでは、あるプロテスタント教会での出来事、として書きましたが、既にその問題発言をした当人も亡くなっていることでしょうから、この際、できるだけ事実通りに書かせていただこうと思います。

大学生のころ、僕はまだキリスト教徒として生活していました。いろいろな教会のイベントや活動などにも参加して、同年代のクリスチャンの知り合いもたくさんいたのです。

そんな中で、ある正教徒の友人がいたのですが、彼が、学校で知り合いになった黒人の友人を教会へ連れていったとき、教会の神父が、

「もう二度と連れてきてはいけない」

と彼に言ったのだそうです。

理由は、もし、その黒人男性が教会を気に入って、洗礼を受けたい、と言い出した場合、教会としては拒否することはできない。そんなことになったら、同じ聖杯から領聖(聖餐)することになってしまう。そうなると他の信者の迷惑になる、ということなのだそうです。

正教会聖餐式は、ぶどう酒の入った金属製の大きな杯に細かく割ったパンを浸し、一つづつスプーンですくい上げて、信者の口に入れる、という方式ですので、正直なところあまり清潔とは言えません。それに、どこの馬の骨とも知れない黒人が加わったら迷惑になるだろう、とその神父は考えたわけです。

さすがにちょっと気が引けますので伏せ字にしますが、神父はさらに、

「◯◯人とか◯◯◯◯◯の人とかも連れてきちゃいけないよ」

と言ったのだそうです。

僕はその話を聞いて、心底びっくりしました。でも、実際そんなものなんでしょうね。そういう僕だって、まるきり差別意識が無いのか、と言えばそれは言い切れません。「ああ、やっぱりな」などと考えてしまうこともあります。しかし、聖職者がそんなこと、とも思いますよね。果たしてどうなんでしょうか。

その友人、彼も幼児洗礼ですが、「教会は悪いところ」ということになってしまったようです。でも、考えようによっては、キリスト教の教理が差別そのものですよね。神父はキリスト教的には正しかったのかもしれません。

民族と宗教

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オーストリア人の神職だそうです。珍しいですね。國學院神道を学んで神職になった、とありますから、神道世界のキャリア、とでも言うべき、いわばエリートですね。しかし、いかに日本が好き、といえども、外国人に日本の神職が務まるものでしょうか。

寝ても覚めてもつまらない迷信に振り回されながら暮らしし、大戸には注連縄、大神棚を始め、仏間には仏壇、不浄には烏枢沙摩明王、久度(竈)には愛宕神社の札があり、季節季節にはうぶすなの祭りがあり、冠婚葬祭を報告する。そのような神との関わりがあってこそ、初めて神職足り得るのではないのか、と思われたのではないでしょうか。

 

同様のことをもっと強く感じるのはキリスト教徒のようですよ。米国人の知人が日本観光に来られたとき、カトリック信者だということでしたので、日本風建築で有名な、ある教会へご案内したのですが、

「きれいな建築で、珍しいミサを見ることができて、とても良かったが、日本人の神父に告解したり、日本人の神父から聖体を拝領しようとは思わない。」

と言っていました。日本人のキリスト教徒は、まるでカルト信者のようだ、とも、ミサが終わったのに、若い人がいつまでも教会から立ち去らないのが不思議、とも言っていました。

日本には日本の文化があるのに、どういう理由でキリスト教にハマってしまうのか、がわからない、のだそうです。

宗教は文化の一端でしかない。本場のキリスト教徒はそのことをよく理解できているのです。

 

日本人は、金髪の神職をみても、彼からは祓えを受けたくない、とか、御籤を受けたくない、とかは、おそらく思わないでしょう。そもそも日本の神は、入会儀礼前の人はお断り、とか、教派が違う人はダメ、なんてことはいいません。どの国の民族であれ、子供でもオトナでも、穏やかな心で、安寧な一日を過ごせるように、と願う人を拒否しない存在です。

キリスト教は人間に必要か

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Got Questions Ministries. という団体のサイトに、

なぜ神は、地震、ハリケーン、津波などの自然災害が起こるのを許されるのですか?

というページがあります。答えとして、最初、

神は、宇宙全体を創造し、自然の法則を定められました(創世記1:1)。ほとんどの自然災害は、これらの法則が働いていることの結果です。ハリケーン、台風、竜巻は、様々な天候のパターンが衝突することの結果起こります。地震は、地殻の組成がずれることによって起こります。津波は海底地震が原因です。 

 と述べているのですが、次には、

人類が罪に陥ったことは、私たちが住んでいるこの世界をも含め、すべてのものに影響を及ぼしました。被造物のすべてが「挫折感」と「衰退」の影響を受けています。死と病気と苦しみの原因がそうであるように、自然災害の究極的な原因は罪なのです。

と言っています。自然災害は、神の定めた法則に従って、機械的に発生しているに過ぎないのか、人間が神に逆らって罪を犯すから、法則には無関係に神がわざと起こしているのか、どちらなのでしょうか。

過去の記事、

では、ヴェスヴィオ火山噴火は、麓の同性愛者を懲らしめるための神の罰だった、と考えている人がいることをご紹介しましたが、今回の記事からも、キリスト教徒は、『神は自然災害を利用して犯罪者を処刑している』、と考えていることがわかります。

そうならば、イエス様は何のためにこの世に来られたのでしょうか。教会の理屈で言えば、全人類を、原罪を含むすべての死の軛から解放するために、人の世に生まれ、人の手によって死んで、復活した、つまり、そうであることを誰にでもわかるように証明した、ということであるはずです。その理屈通りであるのであれば、罪が原因で発生する自然災害は、今はもう発生しない、ということになるはずですよね。

宗教なんてそんなもんさ、目くじら立てなさんな、とおっしゃる向きには何も言いませんが、「神の業が人間ごときに正しく分析できるはずがない」と真剣に考えてているあなた、それなら「キリスト教」が存在する必要はありませんよね(笑)。

ガダラ人の地

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Gadarene Demonic Archives - Orthodox Church Quotes

マタイ伝 8:28-34 には

それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。

 とあります。また、マタイ伝 21:18-22 には、

朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。

とあります。これらの記述は、おそらく事実を抽象化しているのでしょう。豚もいちじくも、イエス様を批判する勢力で、おそらくは国家権力のようなものであったのではないでしょうか。

「世の中すべてが俺を否定している」、そのような妄想に苛まれ、

世の中なんてぶっ壊れてしまえばいいんだ、

そう考えたイエス様は、弟子をコントロールして、毒を撒き、多くの人を殺戮したわけです。それで、「早く出ていけ」と言われたのでしょうね。やがてアジトに隠れていたところを引きずり出されて捕縛され、死刑になってしまいます。

しかし、彼を支持する弟子たちは、どうにかしてその過激思想を温存しようと目論んで、悪行であっても抽象化、美化して後世にまで伝えようとしたのでしょう。これこそ「洗脳」がなせる業です。

おわかりでしょうか。どんな陳腐な凶悪犯であっても、エネルギーさえあれば神に祭り上げてしまうことが可能なのです。300年ほども経てばテロリストが神になる。これが宗教の正体です。

インド正教会の司祭が女性信徒をレイプ

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インドといえば、使徒トマスが自ら宣教した、ということになっていて、いわば筋金入りのキリスト教国でもあるわけです。

インドにおける非カルケドン派 - Wikipedia

によれば、インドにはシリア正教会の庇護下にある非カルケドン派があって、この報道が言う「正教会」はいわゆる正統教理の正教会では無いのかもしれません。

しかし、キリスト教キリスト教です。むしろ、非カルケドン派の教会でもそんなことが起こるの? という意外性を感じてしまいます。

記事を引用しておきましょう。

【7月3日 AFP】インド警察は3日、1人の女性に対しおよそ20年間にわたってレイプと脅迫を繰り返した疑いで、キリスト教の司祭4人の取り調べを行っていると発表した。

 氏名非公表のこの女性が警察に明かしたところによると、南部ケララ(Kerala)州の正教会の司祭1人に初めて性交を強要されたのは、女性がまだ未成年だった1990年代だという。

 これを別の司祭に告解したところ、今度はその司祭に脅され、性交渉を求められた。その後さらに2人の司祭がやはり同じ女性を脅迫し、性行為に及んだという。


 報道によれば、女性の夫が教会関係者に抗議する録音がソーシャルメディア上で広まり、被害がようやくようやく明るみに出たという。

 世界各地同様、インドのキリスト教界も性的虐待容疑に揺れている。昨年には同国東部の牧師が、悪魔払いの名目で女性2人をレイプした容疑で逮捕された。また2016年にも、12歳の少女をレイプした聖職者に対し、禁錮40年の有罪判決が言い渡されている。(c)AFP

 

「アーメン」の正しい使い方

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聖典​中​の​場所​の​写真​ ゲリジム山​と​エバル山​

 

過去の記事

で、「不思議なキリスト教」という著作を叩く、日本ハリストス正教会の神父が運営しているブログがあることを紹介しましたが、今回は

大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」

 という記述に対する、神父の感想を見てみましょう。

神父の意見としては、

まず単純に過ぎる。少なくとも「かくあらんことを(そうありますように)」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」となるのである)
「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。
なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。

とあります。

さあ、「アーメン」を説明するぞ、揚げ足取ってやるぞ、という意気込みは素晴らしいのですが、残念ながらどちらのご意見も今ひとつです。聖書を読んでみましょう。

申命記 27:9-26

またモーセとレビびとたる祭司たちとは、イスラエルのすべての人々に言った、「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」。
その日またモーセは民に命じて言った、「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。

これを読むと、「アーメン」は、強制的に言わされる「合意宣誓文言」であったことがわかります。しかも「同意しなければ罰則がありますよ」という意味合いを含んでいることが明白です。これが「アーメン」の本来の意味であるわけです。

誓約書に署名捺印するかのような、従順の姿勢を表白するための「呪文」のようなものであったのだ、ということなのです。宗教的ではなくて実務的な符牒です。

「お前、今「アーメン」と言ったよな、俺は聞いたぞ。神も聞いてるぞ。もう取り消せないからな。いいな。」ということですね。

橋爪氏は

「「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」 

と言っているようですが、正解ではないとしても、まだ近いかも知れません。日本ハリストス正教会の神父は「八木谷涼子」という人の著作を例に挙げて反論しているようですが、どういう根拠でそれが正しいと思ったのでしょうか。「不思議な神父」ですよね(笑)。