キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

安息の年

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Shavuot

 

創世記で、神は6日で創造を終えて7日目に休息した、と記述されているので、週の最後である第七日は安息日と定められています。ユダヤ教キリスト教は土曜日、イスラームでは金曜日です。キリスト教では日曜日が安息日だと思っている人がいるように思うのですが、キリスト教でも安息日は土曜日で、日曜日は「主の日」です。

キャッチアイ画像に引用したシャブオットとは、過越祭、仮庵祭に並ぶユダヤ教の三大祭で、日本語では七週祭、または五旬祭と言いますが、春の収穫をお祝いするところのお祭りです。

七週祭は、過越祭を基準にして七週間を経た次の日であることから、五旬祭は過越祭を基準にして50日目(1旬は10日)であることからそう言われますが、シャブオットは50日という意味で、そのギリシャ語がペンテコステです。このシャブオットのお祭りの最中に、聖霊が降臨した、という記述が残っているので、キリスト教ではペンテコステ聖霊降臨をお祝いしています。どうも「ペンテコステ」を「聖霊降臨」という意味だと思っている人がいるような気がするのですが、そういう意味ですので覚えておけばいいでしょう。

 

さらに、ユダヤ教には、「安息年」というものがありました。引用してみましょう。

 

出エジプト記 23:10-11

あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない。そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、その残りは野の獣が食べることができる。あなたのぶどう畑も、オリブ畑も同様にしなければならない。

 

レビ記 25:3-10

六年の間あなたは畑に種をまき、また六年の間ぶどう畑の枝を刈り込み、その実を集めることができる。しかし、七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。あなたは畑に種をまいてはならない。また、ぶどう畑の枝を刈り込んではならない。あなたの穀物の自然に生えたものは刈り取ってはならない。また、あなたのぶどうの枝の手入れをしないで結んだ実は摘んではならない。これは地のために全き休みの年だからである。安息の年の地の産物は、あなたがたの食物となるであろう。すなわち、あなたと、男女の奴隷と、雇人と、あなたの所に宿っている他国人と、あなたの家畜と、あなたの国のうちの獣とのために、その産物はみな、食物となるであろう。あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。

 

6年間耕作をして7年目には休みなさい、と言っていますね。人の疲労を休めるため、というよりは、当時は性能の良い肥料がなかったので、土地の疲労を休めるため、という意味合いが強かったのではないかと思います。

こちらも七年を七回繰り返した50年めは「ヨベルの年」として特にお祝いし、恩赦などが執り行われたと記録されています。

 

さて、そんなどうでもいいようなことを長々と説明して、結局何が言いたいのかといいますと、「什一献金」などと言って、旧約聖書から古臭い律法を持ち出して信者に押し付けるのであれば、安息年も守らなければなりませんね、ということです。七年毎に一年間無献金の年を規定しないのであれば、什一献金を受け取るものは神に呪われることになりますよ。

 

そもそも、什一献金とは、カトリック教会が始めたことです。 十分の一税 - Wikipedia から引用しましょう。

旧約聖書』の「レビ記」・「申命記」では、全ての農作物の10%が神のものであると説かれている。これを根拠に教皇庁は十分の一税を徴収した。シリア正教会は『シリア正教カテキズム』で、十分の一税を教えている。しかし、ローマ法にはこの規定がなく、あくまでも自由意志に基づく納付であるとする見解も存在し、同じキリスト教国であってもビザンツ帝国では課税されていなかった。

 偶像崇拝だ免罪符だと、ツッコミドコロは飽くまでブチのめす癖に、自分たちの利益になるとみるや、真似どころか拡大解釈して強請り取りの口実として便乗悪用し、まんまと口を拭って知らん顔。

「恥」という言葉の意味を知っていますか?

落ち穂拾い

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落穂拾い (絵画) - Wikipedia

 

ミレーの落穂ひろいです。旧約の律法を主題にしていることはご存じだったでしょうか。

 

落穂拾い - Wikipedia を見てみましょう。 

旧約聖書レビ記」19章9節から10節に定められた律法に、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」とある。また「レビ記」23章22節には「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。」、「申命記」24章19節には「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」とある。これは近代の農村社会でも貧者の権利として一部に残っていた慣習である。
「ルツ記」では、未亡人となったルツが義母のナオミを養うために、裕福な遠縁の親戚ボアズの畑で落穂拾いをする。ボアズは姑につくすルツに好意をもっていた。この姑ナオミのおかげで、ルツとボアズは結ばれ、ダヴィデの祖先となる。
ジャン=フランソワ・ミレーの絵画「落穂拾い」のテーマでもあり、農村の貧しき人々を描いただけの作品ではない。

 律法は、人間を緊縛するための禁忌事項で満たされた冷徹な文書ではありませんでした。貧者をいたわり、異教徒である外国人にも配慮した、人間性豊かな思想が現れた法であったのです。

マラキ書には、十分の一税を怠るなという戒めがありますが、落穂ひろいの箇所を読めば、誰にでも一律に適用されたわけではなかったのであろうと想像できます。まずは貧しいものをいたわってやれ。いわばこれがモーセの律法の精神だったのです。

什一献金というならば、その前に貧しい信者には教会が生活の保証をする、という条件が必要になるでしょう。

心の貧しいものとは

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blog.youversion.com

 

マタイ福音書五章には「山上の垂訓」と呼ばれる箇所があります。見てみましょう。

エスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

この、最初にある「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」については、解釈に苦心しているようで、ネットで検索すると、いろいろな説明が見つかりますが、「こころの貧しい人」とはどういう人のことなのか、言葉数は多いのですが、結局どうなのかがはっきり説明されているものが見つかりません。

しかし、はっきり言って、どの説明も考え過ぎなのです。日本語で「心が貧しい」というと悪口になりますが、そういう慣用的な意味合いに囚われているようです。

これは、ヘブライ語アラム語に特有だとか、霊的な秘められた意味合いがどうだとか、そういうことはなくて、その意味そのままで良いのです。

「心が貧しい」とは、「精神性や知識が充分ではない状態」を意味しているのです。翻って言えば、「向上心を捨てない」ほどの意味になるでしょうか。逆に言えば、「もうこの辺でいいや。もう十分だろ」と達観するものはダメだ、ということになります。

常に向上心を捨てずに進歩を目指すもの、そのような人によって、天国(理想的な社会)が実現されるんだよ、だからあなたがたは、そうなりなさい、と教えているわけです。

 

聖書と数字

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askgramps.org

 

聖書には様々な数字が現れます。イスラエルの12部族、イエスの弟子が12人、12の小預言書、黙示録の新しいエルサレムには東西南北に3つづつ、合計12の門がありますし、年に12回実を結ぶ生命の木がありました。

また、出エジプトに要した年数が40年、荒れ野での断食が40日間、のように、特に12と40が多く出現します。

12という数字は、太陰暦による12ヶ月、一日の昼と夜がそれぞれ12時間、というように、人間にとって自然な区切りである数のようで、1ダースが12、12ダースが1グロス黄道12宮、十二支、十二単衣、十二神将など、世界中に区切りの数として12が現れています。

12は、最初の完全数6を二度繰り返した数でもありますが、「二度繰り返す」ということは出エジプト記の幕屋建設の指示と報告にあるように、宗教的には「天地」や「応答」の関係を表していて重要なことのようです。法華経にも同様の表現があります。40は、その12と、二番目の完全数28を足した値です。

日本の場合は3と8でしょう。大和三山三種の神器、八岐の大蛇、八咫烏は三本足、八重垣、八雲、大八洲(島)、八尋殿、八百万の神、八百八町、八百八橋など。

日本には「嘘の三八」と言って、お話に3と8が出てきたら、実話ではなくて喩え話や神話の類だと思え、という格言がありますが、聖書も同じです。

12人の兄弟の子孫が、それぞれ識別できる状態で独立した部族を形成し、40年かけてエジプトからカナンに向けて移動した、と読んだところで、これは実話じゃなくて物語だな、と理解しなくてはなりません。

一人の男が、40日間荒れ野で断食をして、12人の弟子を得て説教をし、死刑になって蘇って40日後昇天した、とあれば、創作神話だな、と気づかねばならないわけです。

神の類似

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The Jesus Parallels

 

suschonyaku.en-grey.com

というブログ記事を見つけました。引用してみましょう。

キリスト教徒が崇拝する「神」と「イエス」は、実際には古代の異教の神々の混合物である。「処女懐胎」、「岩の墓への埋葬」、「三日後の復活」、「聖餐」(訳注:いずれもキリスト教の教義)は実際にはイエスと何の関係もない異教の産物なのだ。キリスト教の儀式の全ては、人間が作ったものだ。キリスト教は数十の異教の上を転がって巨大化した雪玉であり、改宗者に受け入れられやすくするために、多くの異教の儀式や信仰を取り入れている。最近このような記事を目にすることがあるだろう。

キリスト教の体系に異教の痕跡があることは、否定できない。エジプトの太陽の円盤は、カトリックの聖人の後光になった。女神イシスが奇跡によって授かった息子ホルスを抱くところを描いた岩壁画は、イエスを抱くマリアの像の青写真である。そしてカトリックの儀式のほとんど全てが、それ以前の異教からとられたものだ。。

キリスト教にオリジナルのものは何もない。キリスト教以前の神であるミスラ(神の子、世界の光と呼ばれた)は、12月25日に生まれ、岩の墓に埋葬されてから三日後に復活した。ついでながら、12月25日はオシリス、アドニス、ディオニソスの誕生日でもある。ヒンズー教の神クリシュナは生まれたとき、金、乳香、没薬を与えられた(訳注:イエスは生まれたとき、東方の3賢人からこれと同じ物を与えられたとされる)。キリスト教の祝日すら、異教から盗用したものだ。

 

キリスト教にオリジナルのものは何もない」とありますね。これは、日本で発生する新興宗教をみれば良くわかります。創価学会立正佼成会日蓮宗の焼き直し、天理教金光教神道のモノマネ、PL教や幸福の科学も何らかの既成宗教のモノマネに過ぎません。宗教というのは、何もないところから突然見慣れないものを持ってきても宗教としては認識されないわけです。神鏡や仏像、しめ縄がなければ誰も納得しない、要するに経済効果を生じさせることができない。キリスト教もそれと同じだったというわけです。

 

この記事(http://en.wikipedia.org/wiki/Jesus_Christ_in_comparative_mythology)は、イエス キリストがヘレニズム文化の他の神、特にディオニソスのパロディーであることが19世紀以来注目されてきたと指摘している。記事ではさらに、キリスト教とそれ以前に存在した宗教の、著しい類似を立証している。

キリスト教徒がこの事実を受け取るのは非常に困難だろうが、事実は事実である。キリスト教の「聖なる儀式」や、キリスト教の核となる考え(処女懐胎、復活その他)は、イエスの時代に存在した他の宗教から来たのだ。キリスト教の起源についての基本的な事実を理解すれば、その儀式や考えが馬鹿げていることは明らかだろう。 

 

うまくまとまっていますね。その通りだと思います。

キリスト教徒はゾロアスターを信じている

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www.thoughtco.com

 

この記事もログから拝借しました。

 

今回は「ミカエル」という天使について考えて見ましょう。ミカエルはユダヤ教カトリック教会、正教会プロテスタント教会、およびイスラームにおける共通の認識で、実在する天使であると考えられています。

人の名前にも使われていますね。 マイケル、マイク、ミハイル、ミシェル、ミゲルなどです。ミカエルが旧約聖書に登場するのはダニエル書10:13が最初です。見てみましょう。

ペルシア王国の天使が21日間わたしに抵抗したが大天使長のひとり、ミカエルが助けにきてくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。

この記述により、天使ミカエルはユダヤ人の守護者、キリスト教徒の守護者であるということになっているようです。しかし、この記述内容はダニエルの感じた〝幻〟なのです。なぜダニエルの幻に出てきたミカエルが現実に存在する天使だということになるのでしょうか、おかしな話です。

そして最大の問題はこれからです。上で引用したダニエル書の記述をよく見て下さい。「ペルシア王国の天使」と書かれていますね。ダニエルは、ペルシア王国の天使、つまり、ペルシアの宗教であるゾロアスター教の天使に抵抗されたのだと主張しているわけです。助けにきたミカエルが実在であるなら、このゾロアスターの天使も当然実在でしょうし、ゾロアスターの天使が実在していたのだということは、すなわちゾロアスター教の神も実在していることになります。

ダニエル書のこの記述によってミカエルの実在を信じているキリスト教徒は、同時に、キリスト教の神以外に、少なくともゾロアスター教の神が実在することを信じていると告白していることになります。聖書とはこのような矛盾に満ちたおとぎ話に過ぎないということが現実なのです。

宗教なんて結局ダニエルのような稀代の大嘘付の吹く笛に踊らされているだけのことです。一度冷静になって鏡を見てみてはどうでしょうか。

大地震

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www.news.com.au

 

こちらの記事も、過去に書いた記事ですが、ログを残して下さっていましたので、少し修正を加えた上、貼り付けて一記事とさせていただきます。これは東北地震発生後に書いた記事です。

 

文字の色や大きさを変えながらブログ記事を書くのは、あまり好きではないのですが、今回の記事は、書き方が拙いせいか、主旨とは違った伝わり方をする恐れがあるようでしたので、この記事に限って、大切なところ、言いたいところだけを赤色で表現しておきます。わかりにくければ赤色のところだけ読んで下さい。

 

地震が発生しました。被害は甚大で多くの死傷者や不明者が出ています。また、原子力発電所からの放射能漏れが心配されています。まさかわが国で、このようなことが起ころうとは、このようなニュース映像を目にしようとは、ほとんどの人はこのようなことが現実なのだろうかと信じられない気持ちなのではないでしょうか。

キリスト教において、災害と神とはどのような関係にあるのでしょうか。キリスト教においては、この世にありとあらゆるすべてのものは神の創造によるものです。人にとって良いものも悪いものも直接の神の業によるものです。もちろん地震も台風も神が直接起こしているわけです。

新約聖書においては、黙示録に天国や地獄、恐ろしい戦争や災害についての記述があるのですが、普段口を酸っぱ くして「黙示録は暗号文なのだから、直接読んで理解できることはその通りの意味ではない」のだと主張しているにもかかわらず、

「黙示録にはっきり書いてあるではないか、お前は文盲か」

と反論されます。黙示録をそのままにしか理解できないというのであれば、黙示録に、神は災害と戦争をもたらすものだと書かれているのですから、この地震による災害は神がもたらしたものだと考えるべきでしょう。また、同書には神によって「ハルマゲドン」がもたらされるのであるとも書かれています。ですので、あらゆる戦争は神によるハルマゲドンの予形だと捉えることも可能です。

ソーシャルネットワークの自称クリスチャンである方々は「お祈りします」と発言しているようですが、あなた方ご自身の信仰対象である神様が引き起こした災害によって被害を受けた方々に対して「お祈りします」というのはどういう意味なのでしょうか。誰に、何をお祈りするのでしょうか、その内容を具体的に教えていただきたいものです。

ソドムの例にもあるように、神は気に入らない人々を自然災害という表れを用いて殲滅するのです。「それは旧約だ」という言い訳は聞けません。暗号でないというのであれば、黙示録にはもっとあからさまに反対分子を残酷に殲滅する予告があります。

今回の地震による災害も、神の意思の表れであって、被害者は神に反するのもので、元々罰を受けるべき悪人だったのだ、といわねばなりません。

神に従順な僕であるというのであればそうするべきです。