キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

牧師の適性

f:id:christian-unabridged-dict:20180223093552j:plain

 

「牧師に躓いた」よく聞きますよね。牧師の言動に嫌気がさして教会へ行きたくなくなったのだ、というわけです。

 

「広島アライアンス教会」の、「キリスト教Q&A Q9:牧師につまづいた」から引用してみましょう。

私も牧師の1人として、耳の痛い話です。建前から言えば、人を見るな、主を見上げて、ということになるでしょう。牧師も人間です。いろいろなことがあるでしょう。そこが魅力でもあり、つまずきにもなるのですね。そんな牧師をも神さまは赦して用いておられる、この点へ目を向けることができれば文句はでないのですが・・・。

「牧師も人間」と言っていてはだめでしょうね。牧師は人間であってはならないのです。牧師は人間を漁る漁師です。人間より高い存在でなければ人間を漁ることはできません。少なくとも、福音書でイエス様が、こうしなさい、と指導していることはすべて実践している必要があります。すべての持ち物を貧しい者に分け与えたか、七の七〇倍まで人を赦しているか、それが出来ないのであれば、その人は牧師になるべきではなかった、ということです。

もし他教会へ行くとしたら電話ででもよいですから、「当分休んで、他の教会へ行きます」と連絡してください。あなたが嫌っていても、牧師のほうはあなたのために祈っているのですから。

牧師が祈りに条件を付けてどうしようというのでしょうかね。馬鹿馬鹿しいにも程があります。その信徒が教会を去ったのは牧師に牧師たる資格が不足していたからでしょう。たとえ違ってもそうだと思いなさい。それに、その物言いは、こちらには非がないんだから、こちらの気分を悪くしないように、きちんと気を遣ってくれ、と言っていることにしかなりませんが、気はたしかでしょうか。

心理学的なことはさておいて、信仰上のカウンセリングを受ける必要があるでしょう。小さなグループに参加して、もう一度初歩から、信仰のイロハから学びなおしてください。

僕は、これほどの悪文を他で見たことはありません。信徒が牧師に躓いて教会を去ったというのであれば、それは100%牧師に非があります。牧師は、どこにでもいるただの人間ではダメです。しかし、ただの人間であってさえ、こんなに低劣な文章を書いて、発表することはないでしょう。世の中には「恥」というものが存在するからです。

逃げていくカモに罵声を浴びせているだけではないでしょうか。とても正気の沙汰とは思えません。

牧師には人間的な難しい欠点があるかもしれません。しかしそれでも神さまは用いておられ、また用いていただかなければならないのですから。 

そういう考えをする人がいるから、牧師による性犯罪が無くならないのでしょうね。

 

牧師になりたければ、まず、一般社会で働いて、自分の家族が食うに困らない経済基盤を据えて下さい。そうすれば、信徒の献金を当てにせずに牧師としての仕事に専念することができるわけです。信徒から金を恵んでもらいながら、牧師だなどといえますか?言えませんよね。それでは乞食です。

使徒行録28:30-31 によれば、パウロは、

自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。

とあります。自分の財力だけで教会を運営し、訪問者を受け入れた、つまり、食事を与え、希望すれば寝床も貸し与えた、ということでしょう。これが「宣教」です。経済的にも自立していたから、「はばからず、また妨げられることもなく」と記録されているわけです。

使徒行録28:23 によれば、意見が合わないときには、

朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。

とあります。「もう一度初歩から、信仰のイロハから学びなおしてください。」などとふざけたようなことは言っていません。

この悪文は故人が著したものだと説明されていますが、これを教会の是としてはりつけている、この教会のセンスはこの悪文の通りなのでしょうね。こんなところへ居ついてしまう人間もいるかと思うと、たしかに躓くほうもどうかとは思います。躓く前に気づけよ、ということでしょうかね(笑)。

偽牧師とは

f:id:christian-unabridged-dict:20180221093456j:plain

gsbh.org

 

ブライダル業界に暗躍する偽牧師たち」というブログ記事がありました。引用してみます。

私はブライダル・コーディネーターを養成する専門学校でキリスト教の講師を務めている傍ら、方々で偽牧師の醜聞を耳にする。
最近は、本物の牧師に司式をお願いしたいという特別な依頼も舞い込んでくる。
偽牧師の蔓延は、ブライダル業界のみならず、キリスト教界にとっても、由々しき事態である。

偽牧師が結婚式場で司式のアルバイトをしているのだとか。しかし、「本物の牧師」って、どういう条件で成立するのでしょうか。

使徒伝承を守る、正教会カトリック教会、聖公会、ルター教会、長老制を守る、長老教会や、監督制を守るメソジスト教会救世軍などであれば、それぞれの規約によって定めるところの手続きを経なければ牧師(神父)では無い、と言うのは理解できます。しかし、そうであってさえ、正教の神父がカトリックへ行ってもカトリックの神父とは認められませんし、聖公会の牧師がルター教会へ行ってもルター教会の牧師では無いわけです。

このブログを書いた牧師は単立教会の牧師だと名乗っているようですが、単立教会の牧師の条件とは何なのでしょうか。単立教会の神学校なんてものは無いでしょうから、神学校へ行ったとしても、それは他の教派が建てた神学校でしょう。しかし、その教派の方針に同調できなかったので単立教会を興したのでしょうから、その神学校を出たということは、今、牧師であることとは関係無い、ということになるでしょう。

つまり、単立教会の牧師は、「私は牧師ですよ」と言いさえすれば牧師になるわけです。ブライダル牧師と一緒だと思います。

式場で、ブライダル牧師が、正教の婚配機密やカトリックの結婚ミサの真似を始めた、というのであれば(多少は)問題だと言うべきかもしれませんが、聖礼典でもなんでもない、プロテスタント式の結婚式を行ったからと言って、何が問題なのでしょうか。

偽牧師を糾弾したいのであれば、偽ではない、というところの成立条件を示すべきでしょうね。

また、「ブライダル宣教」という大義名分を掲げる人もいるが、それが、もし主の働きならば、お金を取ってはいけない(マタ10:8)。
確かに牧師は、教会の仕事をして給料をもらうが、それは信者の献金である。

この牧師は「ブライダル・コーディネーターを養成する専門学校でキリスト教の講師を務めている」とご自分でおっしゃっていますが、無報酬なんでしょうか。まあ『主の働き』ではないから報酬はもらってる、と言うこともできるかも知れませんけど(笑)。

2分に1組離婚しているカップルの大半はキリスト教式で愛を誓約したのではないか?
実際、ブライダル宣教を通して救われた人の数は数える程度である。

余計なお世話だと思いますよ。『縄張りを荒らすな』と言いたいのであれば、「本物の牧師」による結婚式の、「偽牧師」によるそれよりも勝る効能が何なのか、説明してみたらどうですか。

効能が同じなら料金が安い方がお得ですよね。ジェネリック医薬品は「偽物」とはいいません。理解できるでしょうかね(笑)。

荒れ野での誘惑

f:id:christian-unabridged-dict:20180217095604j:plain

www.patheos.com

 

福音書には、イエス様が宣教に先立って、荒れ野で断食を行い、悪魔からの誘惑を経験したことが書かれています。読んで見ましょう。

マタイによる福音 4:1-11

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

この「悪魔」というのは、実在の権力者であって、イエス様を懐柔するために誘惑したのだ、という解釈を聞いたことがありますが、山上の説教前、つまり、まだ認知度が不十分な状態では、だれも懐柔しようとは思わないでしょうね。

キリスト教徒は「悪魔」が大好きです。ちょっと嫌なことを言われでもしたら、すぐに「あの人は悪魔よ」などと平気で言います。

ですが、悪魔が実在するかどうかということは、実はどうでもいいことなんです。悪魔というものが実在する、という聖書の読み方、即ち低次元的な読み方、それから、何かを象徴的に例えながら表現しているのだ、と理解しながら読む、高等批判的読み方があります。イエス様は、実在の悪魔であれ、自分自身に潜む負の意識にであれ、どちらであったにせよ、楽なメソッドへの誘惑と戦った、という事実を見れば良いのです。

悪魔とは、ヨブ記に見る通り、神の手下として表現されているものなのですから、神を誘惑するはずはありません。ですから、福音書において、イエス様は神では無い、と表現されていることになります。しかし、荒れ野で断食をし、誘惑と戦い、「神に成った」と説明されているのです。イエス様が神に成ったとき、悪魔が去り、みつかいたちがみもとに来て仕えた、とあります。

お釈迦様は、死ぬほどの苦行を行った後、菩提樹の下で悟りを得られましたが、イエス様も修行と誘惑を経験しながら、仏教で言う悟り、涅槃へと入られたのだと説明しているわけです。大切なことなのに、随分あっさりとした説明で済ませていますよね。

これが、キリスト教で言う「神成」です。以前の記事でも説明しています。

 

 

 

福音書は、イエス様は、神になることができた初めての人間なのだ、と説明しているのです。この理屈を理解することができれば、今まで福音書キリスト教に関してモヤモヤしていた色々な事柄が、一気に解決するように感じると思います。

その理解を踏まえた上で、三位一体、を考えるのであれば、神秘などといった子供だましの説明ではなくて、実に科学的である、とさえ評価することができると思います。

教会は、イエス様が悟りを得て神と等しい者となった、神成を達成した、ということを、「神の子」と表現したわけです。

ですので、「神成」の教義を捨て去っていない、正教会だけがキリスト教として唯一正しいのだ、と言えるわけです。

また、正教会の聖人とは、イエス様に倣って「神に成る」をなし得た偉人達、仏教で言うならば、お釈迦様に倣って阿羅漢となることができた人たち、ということになるでしょう。

それが正しいというのであれば、なぜそのことをはっきりと教えないのか、と思いますよね。教会の言い分は「誤解されたなら危険な結果招いてしまうから」というようなことなのですが、そうではなくて、もしそう言ってしまうと、教会の存在意義が変わってしまうからでしょう。パリサイ人とは、変化を恐れる人たちのことです(笑)。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

f:id:christian-unabridged-dict:20180215130716j:plain

slideplayer.com

 

マタイ福音 27:46 に

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 という記述があります。なんだ、偉そうに言って、結局土壇場では弱音を吐くんじゃないか、と言われるようなこともあるようですが、キリスト教徒であれば、教会で教わってご存知の通り、これは詩篇第22の冒頭です。見てみましょう。

詩篇第22

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。
われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。
すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。
わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。
わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。
多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。
わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。
わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。
彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。
しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。
わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。
わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。
主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。
大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。
貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。
地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。
国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

冒頭だけ取り出すと、神を疑って嘆いているかのように聞こえますが、全文を読めば、神の素晴らしさを讃え、感謝の意を表すところの詩であることがわかります。文語訳には「あけぼのの鹿の調にあはせて伶長にうたはしめたるダビデの歌」との説明文が添えられています。

エス様は十字架での死に際して、神を讃える詩篇を唱えられた。ということが記されているわけですが、福音書のこの箇所が言いたいことは、そういうことではありません。次の箇所を読みましょう。

マタイによる福音 27:47-49

すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。

聖書はヘブライ語で記されていたのですが、イエス様当時は、異教徒の言語であるアラム語が日常語になっていて、ヘブライ語で話をすることはなかったのだそうです。

この「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と言った「そこに立っていたある人々」には、山上の説教を現場で聞いた人、また、癒しの業を受けて目が開いた盲人も含まれている、と考えるべきでしょう。彼らは、イスラエル人であって、おそらくはパリサイ派に属するユダヤ教徒だったでしょうが、ヘブライ語詩篇を理解することはできなかったのです。つまり、今ちまたで流行中のカリスマにくっついて歩く、ミーハー的行為には同調するけれども、その本質には興味がなかったのだ、ということが暴露されているわけです。

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。

とはかれらのこと。と、ここまで言えば勘の良い方であればお分かりでしょう。これはつまり、「キリスト教徒」のことを言っているわけです。

天の国を得たければ「持ち物」を捨てなさい、と書いてありますが、誰か、実際に捨てた人がいますか?いないでしょう。おそらく一人もいないと思いますよ。それでも「キリスト教徒」だと自覚しているんですよね。しかし、それでは、実質的には傍観者に過ぎないですよね、ということです。

「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ってイエス様を馬鹿にして見ているのは、実は「キリスト教徒」なんですよ。

天の国と王家の婚宴

f:id:christian-unabridged-dict:20180215085049j:plain

www.popsugar.com

 

福音書を読んで見ましょう。

マタイによる福音 22:1-14

エスはまた、譬で彼らに語って言われた、「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。

 イエス様は、人が神の国を目指すことは、決してなし得ないような無駄な望みではなくて、誰にでもできることだ、と言われました。即ち、全ての持ち物を捨てればいいだけだ、と。

しかし人々は、自分の畑や商売、といった「自分の持ち物」に執着して天の国に目を向けようとはしないわけです。そして問題は「キリスト教徒」である人々でしょう。招かれているのにわきまえを有しない無礼者、これはキリスト教徒のことです。

上に引用した福音書の少し後に、このような記述があります。

マタイによる福音 23:4

重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。

マタイによる福音 23:13

あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。

この「パリサイ人」あるいは「律法学者」というのは、全てキリスト教徒を表しているのです。

 

大学時代の経験をお話しましょう。当時、まだ僕はキリスト教徒でした。都心で買い物をした帰り道、日曜日で朝の礼拝に参加できていなかったことを思い出したのですが、ちょうど有名な教会の近くにいることに気づき、少し足を伸ばして夕礼拝に参加することにしました。

石造らしい重厚な外見で、屋内もシンプルな、プロテスタントらしい美しい教会でした。受付で署名を済ませ、後方のベンチの側廊側に座って、ぼんやりと電灯に施された珍しい装飾を観察していたときのことです。口から生まれて来たのかと思わせるようなかしましいご婦人が現れてこちらへ近寄ってきたのです。鶏のような顔の厚化粧で、香水に浸かってきたかのような強烈な臭気を漂わせています。

なにを言い出すかと思えば、礼拝式の聖書朗読で新約聖書の書簡の朗読をしてくれ、という依頼でした。依頼というよりは命令に近かったように思います。しかし、聖書朗読というのは礼拝式の中心をなす重要な要素なのですから、よそ者の立ち寄り者が、あ、そうですか、はいはい、と安請け合いするようなことでは無いと思いましたので、はっきりとお断りしました。

ちょうどそのとき、二人の若い女性が、入り口から入ってきたのです。お二人とも日本人のようには見えたのですが、受付の男性とは英語で会話しているようでした。

次の獲物を発見した鶏のご婦人は、「ちょっとアナタ」と奇声を発しながら二人をホールドして、例の聖書朗読命令を発したのです。しかし二人はそれを理解できません。受付の男性が、そのことをご婦人に説明しますと、ご婦人は、

「まあ、日本人のような顔なのに日本語がダメなの、かわいそうにねえ、オホホホホ」

と言って身廊から講壇へ向かって立ち去ったのです。

今、あの女性は何と言ったのか、聞かれた男性、彼は高校生ぐらいに見えましたが、悪気ではなく、なるべく正確に言わなくてはならない、と思ったのでしょう。

「あなた方は日本人のように見えるのに、実際には日本語を理解できないし、カタコトの日本語さえしゃべれないので、かわいそうに思う、と言ったのです」と説明しました。

二人はしばらく顔を見合わせて呆れていたようですが、間もなく出ていってしまいました。

 

あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。 

実は、 キリスト教徒こそが反キリストであり反聖書的である、という実例です(笑)。

 

なぜ断食を行うのか

f:id:christian-unabridged-dict:20180213191449j:plain

www.whatchristianswanttoknow.com

 

記事「断食」でも引用しましたが、福音書の次の箇所

マタイ福音書 6:16-18

断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

において、イエス様は断食を行うなと言っているわけではありません。人に評価してもらうためにするものでは無い、と言っているのです。それだけではなく、神に評価されるために行うものでもありません。人知れず断食をしたとしても、それが、ただ空腹に耐えるために行って、耐えた分だけ神からの評価が高まる、と思って行うのであれば、他人には知られなかったとしても、神に見せるために陰気で見苦しい顔つきをしているだけのことになってしまいます。

え、それもダメだって言うなら、一体断食って何のためにするんだよ、と思われたでしょうか。それでは、なるべくわかりやすく断食の意味をご説明させていただこうと思います。

キリスト教徒が断食を行う必要がある、というところの理由は、苦しむために、ではありません。むしろ逆なのです。人間って、そんなにたくさん食べなくても大丈夫なんだね、ということに気づくことが目的です。それに気づけば、贅沢な食材も、衣服も、住宅も、学歴も、財産、資産も、別に必要ないよね、ということにも気づきます。これが断食を行う必要の意味です。おわかりいただけたでしょうか。

エス様は資産家の青年に

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」

と要求しましたが、今すぐすべて捨てなさい、と言ったわけではなかったのです。断食を通して得られることがらを理解して、少しずつでいいから何か始末して飢餓に苦しんでいる子どもたちを扶けられるのではないか、と考えなさい、と言っているのです。福音が世に伝えられて、既に2000年が経った今、飢餓人口は8億1500万人だと言います。世界の人口の11%にあたります。

つまり、キリスト教のやり方では、真実の神の国を実現出来なかった、キリスト教は失敗だった、ということです。

だからといって、他に成功した宗教、とか、将来成功する見込みのある宗教がある、というわけではないのですが(笑)。

ネットを見ていると、有名人との2ショット写真をアップして俗人ぶりを露呈している聖職者や、他人や他教派の悪口ばかり言っている人、人の聖書の解釈の間違いを指摘しているわりにはご本人の解釈もどうかと思われる人、貴石や珍木で作られれた信心用具の自慢をしている人、ヨーロッパへ巡礼旅行した、と自慢している人、聖書のコピペを貼り付けて皮肉の代用にする人、病気だ病気だと大発表して同情発言してほしい人、キリスト教徒の実体は、だいたいこういう傾向へと落ち着きつつあるようです。

キリスト教なんて早めに捨てたほうが賢明だと思いますよ。人生の無駄もいいとこです。

迷信

f:id:christian-unabridged-dict:20180211093317p:plain

迷信的人:把佛教菩萨当作神明去膜拜_怀恩菩提心

 

仏教には「信仰の対象」が存在しませんので、厳密に言えば、仏教は宗教ではなくて思想の体系だと言えるかもしれません。大衆化の過程において自然発生した迷信的な部分は仕方ないとしても、根幹的な部分には迷信の要素は存在しないはずです。

しかし、実際にはそうでもないのです。例えば、有名な「般若心経」を見てみましょう。「観自在菩薩が悟りを求めて熱心に修業を行っていたとき」で始まる「空性」の見解を短くまとめた文章ですが、『実体は空に異ならず、空は実体に異ならず』このあたりはまあ良いとして、『実体は無く、肉体、感覚、思想、行い、意識といった、人間の存在そのものも無いのだ』のあたりからだんだんおかしくなってきます。実体は空である、と説明するのであればまだしも、実体は無いのだ、と言うから意味がわからなくなってしまうのではないでしょうか。空とは、あるべきもの、あるように見えるものが無い、ということですが、無と言ってしまうと、そもそも最初から何も存在しないことになってしまいます。

それから、何もない、何もない、無明も、老死も、お釈迦様が説明した色々なことも、実際には無いのだ、と言い切りながら、最後には、結局この世で至上のものは、呪文なんだよ、この呪文を唱えなさい、

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

 と説明しています。「空」だの「無」だのと論理不十分な説明をしながら、最後には呪文を唱えるのが一番良いのだよ、と言っているわけです。

般若心経の他にも、念仏だけしていれば、あるいは南無妙法蓮華経と唱えれば、それだけで救われる、というような極端なものがあったり、護摩焚きをしたりするのを見ると、どうも本体そのものが迷信に汚染されてしまっているのではないかと思えます。

もちろん異論もあるのでしょうが、初期仏教が純粋なお釈迦様の思想だけを追求することに対し、北伝仏教(大乗仏教)には、このように、教えの本体そのものに迷信的要素が入り込みやすいように見受けられます。

 

キリスト教ではどうでしょうか。記事「キリスト教の理念は団体主義であること」で申し上げたとおり、本来、キリスト教徒は「既に真の光を見」たもの、つまり、神そのものである「真理」を体感して、仏教でいう涅槃に至っている状態なのだ、という理解であるはずなのです。なにもかも知り尽くした状態だというわけです。

しかし、実際には、機密(正教会)、秘跡カトリック)、聖礼典(プロテスタント)と呼ばれる、人間が知り及ぶことのできない神の秘密の儀礼、が存在し、それを行うことが必要である、と考えていて、既に真の光を見て、なにもかも知り尽くしている、という理解とは矛盾することになります。

結局、宗教に頼りながら生きることは、迷信に振り回されながら、ただ死を目指しているだけだということになるのでしょうね。