キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

聖骸布と聖痕

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聖骸布」というものがあることはご存知でしょうか。Wikiには、

キリスト教でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布。トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている。イエス・キリストの風貌を写したという布には、聖ヴェロニカの聖骸布やマンディリオンなど複数あったといわれる。

 とあります。

放射性炭素年代測定(炭素14法年代測定)などによれば、おそらくは偽物であるだろう、というところへ落ち着きをみせているようですが、上記記事によれば、

「今回の検査で発見された、これらの生物学的ナノ粒子の存在は、聖骸布に包まれた人物が物理的な暴行によって死んだことを示唆しています。人工的に作られたものではありません」(ファンティ教授)

とあって、聖骸布に残されていた血痕から、その人が暴行を受けた痕跡が発見された、というのですが、だからといって、それがイエス・キリストの痕跡であるという証明にはならないでしょうし、放射性炭素年代測定(炭素14法年代測定)が示す矛盾が払拭されてしまうことにもならないと思うのですが、いかがでしょうか。

 

少し話は変わるのですが、アシジのフランシスコ、という人物をご存知でしょうか。三つの修道会、フランシスコ会コンベンツアル聖フランシスコ修道会カプチン・フランシスコ修道会の創設者であり、その後のキリスト教世界に大きな影響を与えた人でもあるのですが、彼には「聖痕」という傷が、手のひらに現れた、と伝えられています。

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下の御堂壁画/聖痕を受ける聖フランチェスコ(1310-19年39歳:ピエトロ・ロレンツェッティ) – 西洋絵画

この、ピエトロ・ロレンツェッティの絵画でも、フランシスコは、手のひらに聖痕を受けている様子が描かれています。

ところが、聖骸布の人物には、手のひらではなくて、手首に釘が打ち込まれた痕跡があったのです。

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Wikiの「聖痕」から引用してみましょう。

聖痕現象は磔刑がキリストの図像として成立した13世紀から報告されており、とりわけ宗教的な恍惚状態(法悦)にある女性に多く見られる。キリストの受難に対してきわめて強い共感を抱いて自己同一化する精神状態との関連が指摘されている[1]。報告例には、調査の結果、自傷行為による捏造が明らかになったケースもある。

解剖学的な実験では、手のひらに釘を打ったとは考えにくく、手首に打ったとする説が現れた。これにより、今まで手のひらに多かった聖痕が、手首に多く現れることが報告されている。脳の思い込みが人体に影響するという解釈も存在している(「非科学的超常現象を解明せよ!」聖痕)。

 

いかがでしょうか。「聖痕とは自傷行為による捏造」だ、というよりも、「信仰とはただの思い込み」でしかないことに気づくべきでしょう。

ペットロスとキリスト教

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某匿名SNSに、次のようなつぶやきが書き込まれていました。一部伏せ字にしてご紹介します。

家族の一員として生活を共にしていた大切なペットを失う事はとても大きな悲しみです。そしてその悲しみは何年経っても消える事はありません。ルーテル◯◯教会では天国に旅立った皆さんの大切なペットの為にXXXX牧師がメッセージを語り、皆様のペットのお名前を読み上げお祈りをいたします。

 

旧約聖書をよめば、動物は、人間の罪を償うために焼き祭りを通して神に捧げる通貨の一種であって、それに霊はともなっておらず、死んでも天国とか地獄とかは無関係のはずです。

しかし、この牧師はペットが死ぬと、無条件に、彼らが自らの意思で天国に向かって進んで行って、当然のようにそこへ到達しているかのような説明を行っています。

まあ、顧客不足で困窮している状況はよくわかりますし、お気の毒だとは思いたいところですが、ちょっとキリスト教理解がお粗末過ぎはしないでしょうか。

これではカトリックや正教の聖像崇敬を偶像崇拝とは笑えないでしょう。プロテスタントの信者は、飼っていたペットが死ぬと、信仰や教義、キリスト教の理屈は飛んで行って無くなってしまうのですか。大した「信仰」ですね。どうせ常日頃ステーキや豚しゃぶや唐揚げを食べていたのでしょう?

それに、「天国に旅立った皆さんの大切なペット」と言っているのに、どうして「皆様のペットのお名前を読み上げお祈りを」しなければならないのでしょうか。カトリックの「煉獄」思想も真っ青になる浅はかさです。

キリスト教といっても、実際にはペットに依存する生き方をする人が育つわけです。そしてそのケアのためには、教義も理屈も投げ捨ててめちゃくちゃなことをやりだす。

まあ、キリスト教というのはこういう世界ですよ(笑)。

聖書を信じない

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Will the Holy Spirit ever bring a message contrary to Scripture? – Grace Online Library

 

本庶佑氏がノーベル賞を受賞し、「教科書に書いてあることを信じないこと」と発言したことについて、あるワイドショーが、「教科書には嘘がかいてある」という意味の発言をした、と批判的に解説していてびっくりしました。

本庶氏が「教科書に書いてあることを信じない」と言ったのは、教科書通り学んで、それで終わりにするな、と言う意味なのです。実験をして自分の目で確かめることをして、やっと学んだと言える、ということですね。「教科書には嘘がかいてある」と言ったのではありません。

いかがでしょうか。前の日の発言でさえ、正確に理解出来ない場合が現実にあるのです。

聖書はどうでしょうか。新約聖書はおよそ2000年前の著作物です。旧約聖書であれば、さらに前のものです。教会の解釈は正しい、といいながら、いくつもの種類の教会があって、互いに我が教会だけが正しいと言って、別の教会の解釈を否定しています。また同じ教会の信者であっても、聖書を読んで教会の解釈を学んだ結果、全員が全く同じ神理解を共有しているとは言えないと思います。

教会が言っている、教科書的解釈は、本当に正しいのだろうか、と自分自身の頭で、自分自身の経験を踏まえて考えてみることは必要なことだと思います。

日本で一番美しい礼拝堂 その2

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「浪花教会」ヴォーリズが大大阪に残した素晴らしき教会建築 - SMILE LOG

 

過去の記事「日本で一番美しい礼拝堂」

では東京の、聖路加国際大学のチャペルをご紹介しましたが、今回は、大阪の三休橋筋にある、日本基督教団浪速教会をご紹介します。

 

過去の記事「教会音楽について」

でも取り上げた礼拝堂です。

 

ご覧の通り、とてもシンプルなインテリアデザインです。キャッチアイ画像で引用したサイトでは、

プロテスタント教会は華美な装飾が無く質素なのが特徴的と言われていますが、重厚でこってりとした色合いの框組木製パネルと、クリーム色に塗られた壁や天井、そして数種の彩りが添えられているだけで絶妙なバランスがとれていると感じました。

と評価されていますが、僕は、キリスト教建築の完成された様式がプロテスタント教会に反映されているのだ、と理解したいと考えています。

いかに質素であろうとも、カトリックや正教の聖堂には、人物像や人物画、装飾的な建具や建築部材が必ずあって、未発達で拙い宗教観や、情緒的で不安定な思想を連想してしまうのです。

サティアンまがいのプレハブ小屋で、催眠商法礼拝を行う類の教会は別ですが、少しはしっかりしている教会であれば、礼拝に参加して、ベンチに座って正面をみれば、この例に見るように、そのシンメトリーの美しさに眼を奪われるでしょう。また、そのシンメトリーを支えるかのような、意図的なアシンメトリー、この例でいえば、植物やオルガン、ピアノなどからくる安定感ですね。そういった様式は、実は視覚からキリスト教の精神を宣教しているのです。

その理解を促すことが実現できていれば、その教会は、教会として用を成しているのだと評価することができるでしょう。

プロテスタントとは、自称「キリスト教徒」のこと?

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またもや変なブログを見つけてしまいました。僕の悪いクセです(笑)。

早速引用してみましょう。

 

(そこで偽証人のおばさんは「でも、カトリック教会は本当に33年に創立されたかどうか・・・」と反論しようとしたけど、これは客観的な歴史的事実なので、「本当に広島に原爆投下があったかどうか」と同レベルのトンデモ論だから、ちょっと笑っちゃったけどw) 

意味を知らずに「客観的」という言葉を使っているようですが、この人は、イエス様が紀元元年に生まれて、紀元33年に亡くなった、と思っているようです(笑)。

 

例えば、エホバの偽証人は他の多くのプロテスタント「宗派」と違って、イエス・キリストの神性を否定しています。そう、彼らにとって、イエス・キリストは神ではありませんし、地獄も存在しません。すごいでしょ?キリストは神じゃない!と言いながら「我々は本物のキリスト教徒です」って(笑)。「キリストも地獄も全て幻」という、賢人ごっこの仏教徒なら分かるけどさ、自称「キリスト教徒」だよwwwやれやれw

仏教が賢人ごっこなら、キリスト教は罪人ごっこでしょうね。罪人ごっこをしているうちにいつの間にか本当の罪人になってしまうよりも、賢人ごっこをしているうちに賢人 になるほうがよほどマシだと思いますよ。

エス様本人が何も言っていないのに、勝手に神に祭り上げてしまったり、異教の思想のパクリである地獄を怖がったりしてるほうがよほど「やれやれw」だと思いますけどね。

 

要するに、プロテスタントの様々な宗派が皆聖書を正しく解釈していることは、論理的にあり得ません。

当たり前です。聖書を正しく解釈しないところが「キリスト教」という組織です。プロテスタントが生じる前のカトリック時代からの伝統なのですから。

それと「論理的」という言葉は、ただなんとなく雰囲気で使っているだけでしょうが、一体どういう論理をもって「論理的」と言っているのか説明できるのでしょうか(笑)。

 

これで十分ご理解いただけたと思いますが、「聖書のみ権威あり」というのは、聖書自体が否定している、人間の命令によってのことにすぎません。

  • そこで主は仰せになった、「この民は口先で私に近づき、唇で私を崇めるが、その心は私から遠く離れている。彼らが私を畏れ敬うのは、教え込まれた人間の命令によってのことにすぎない」。(イザヤ29:13)
  • (イエスは仰せになった)「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は私について証しするのもである。それなのに、あなた方は、命を得るために、私の所に来ようとはしない」。(ヨハネ5:39-40)

「聖書のみ」という言葉を否定するために、聖書を引用してやりこめようと努力するところが、愚かで可愛らしくも思えてしまうのですが、プロテスタントの言う「聖書のみ」とは、信仰生活の規範を、「聖書と聖伝」に求めるカトリックや、「(聖書を含む)聖伝」に求める正教会とは異なり、旧・新約聖書66巻だけから求めますよ、ということであって、権威がどうこう言っているわけではありません。

五つのソラ - Wikipedia には、

ルターは、教皇も教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張したのである。 

と記されていますが、ルターは、カトリック教会が、教会や教皇、 教会会議の「権威」を主張したことに対して、敢えて批判的に「権威」という言葉を用いたのであって、「聖書のみ」という言葉の意味としては、聖書の権威がどうこう、ということであるよりも、上述したようなことだ、ということです。

カトリックに限らずですが、キリスト教徒は「権威」という言葉が好きのようです。というか、福音書でイエス様が否定していることは、全部好きのようです(笑)。

 

よく知りもしない状態で、一人前に批判するな、なんて偉そうなことを言うつもりはありません。僕だって言うほどのことはありませんが、こうやってキリスト教批判のサイトを立ち上げているわけですし(笑)。

それにしても、あまり賢そうには見えませんよね。まあ、自戒も込めつつ(笑)。

カトリック司教が修道女をレイプ

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この事件における深刻な問題は、

 被害者の修道女は6月下旬、2014年から2016年にかけてムラッカル容疑者に13回レイプされたと告訴していた。しかしインドで最もカトリック教徒の人口が多いケララ州の警察は、9月に入るまでムラッカル容疑者の正式な取り調べを行わなかった。

 この警察の怠慢が怒りを呼び、修道女5人と支援者数十人が数日間にわたって抗議デモを行った。インドのカトリック教会で、内部から反発が出るのは異例。

 とあるように、カトリック教会を取り巻く隠蔽体質にあるでしょう。

 

こういうことが起きると、「キリスト教徒も人間だから」、「聖職者といってもただの人間だから」、甚だしきは「罪深いという自覚があるからこそキリスト教徒になったわけだから」などと言うのを聞いたことがありますが、聞き苦しい詭弁でしかありませんよね。

神の召しを得たと感じてキリスト教徒になっても、聖職者になっても、結果として反社会的な犯罪者を生じさせることしかできないのなら、そんなものは不必要だということになるでしょう。プロテスタント正教会も同じことです。

棄てられた福音書

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ご存知の通り、新約聖書には福音書が四つあります。しかし、実際にはもっとたくさんの福音書があったのです。

外典福音書 - Wikipedia

によれば、新約聖書に含まれる四つの福音書以外に、

などの福音書があったことが伝えられている、と説明されています。

各リンク先をお読みになれば判るとおり、正直言って現行の四福音書と比べてみても、それほど顕著な差があるとは思いにくい内容です。似たりよったりなのです。

例えば、「ペトロによる福音書」の説明

2人の天使に支えられた(たぶん)イエス・キリストが墓から出てくる後から、十字架が付いてくる。天からの声「あなたは、(冥府で)眠っている人々にも宣教しましたか」に、十字架が「はい」と答える。

十字架が自分で墓から歩いて出てきて、天の声に「はい」と答えるなんて、荒唐無稽、とj感じるでしょうが、現行の福音書には、墓の蓋が開いていて、天使が座っていた、と記されているし、イエス様の洗礼のシーンでは、

また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

と記されていることも事実です。十字架が墓から歩いて出てくる程度のこと、ほとんど同じレベルだと思います。もしこの福音書が正典として採用されていたら、キリスト教のシンボルである十字架には足が付いていたことでしょう。

 

トマスによる福音書の記述を読んでみましょう。

7 イエスが言った、「人間に食われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に食われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」

簡潔に書かれていますので、懇切丁寧で過剰に説明的な文章を読み慣れている現代人には直感的ではありませんが(すべての聖書で同じことですが)、これは、獅子が人間に、あるいは人間が獅子に変身する、というようなことを言っているわけではありません。それぞれ、食われれば消化されて、食った者の要素の一つに変化するだけだ、ということを言っているのです。

77 イエスが言った、「1 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
2 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」

過去の記事「キリスト教と三宝」で申し上げましたが、三位一体の「子」であるイエス様を仏教の三宝で言い表すのであれば、「悟った人(仏陀)」である「仏」に相当するでしょう。そして、トマス福音書のこの記述を読むのであれば、動物にも植物にも、土であれ空であれ、また、たとえお釈迦様を殺そうと企んだ提婆達多にさえ仏性は存在するのだよ、と教えられたお釈迦様の教えが思い出されます。

なぜ、これらの福音書が排斥されたのか。それは、政治の道具として利用しやすいものではなかったからです。

このブログを読んで、キリスト教を仏教と比べるな、と憤っているクリスチャンがいるようですが、残念ながら、それは逆です。歪められて本体の面影さえ判然としなくなったポンコツ思想は、仏教に例えなくては本来の意味を知ることができなくなってしまっているわけです。