キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

教会での“性暴力”

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週間女性プライムに「「この瞬間にも誰かが神父の餌食に」教会での“性暴力”、おぞましい実態と被害者の闘い」という記事があります。読んでみましょう。

 

 1977年。鈴木ハルミさん(当時24)は、宮城県沿岸部にあるカトリック教会の日本人司祭・A氏に救いを求め、相談に乗ってもらっていた。

 そのころの鈴木さんは多くの問題を抱えていた。職場では病院の不正行為を告発し、共闘するはずの仲間に「あなたひとりでやったこと」と裏切られ、自殺を図った。家庭では夫からDVを受けていたのに加えて、義母の介護に集中するため、カトリックでは罪となる中絶をした。

 その苦しみからの救いを求め、A司祭に話を聞いてもらっていた。ところが3回目の相談で、A司祭は突然、鈴木さんを抱きしめ、耳もとで「後悔しないね?」とささやいたのだ。鈴木さんは、「神の代理人」の予想外の行為に頭が真っ白になった。気づけば別室のベッドにいて、全裸の司祭が身体の上に乗っていた。その後、帰宅までの記憶はいっさいない。

 これは司祭の立場を利用した性暴力で、重大犯罪だ。だが当時、鈴木さんは被害の意識よりも、むしろ「私は教会を汚した」と罪悪感を抱いた。罪悪感から逃れるために依存したのが、酒とパチンコと買い物だった。

宗教とは常識人にとっては害悪でしか無い、という事実の好例だと思います。次をご覧下さい。

 ’16年2月、鈴木さんは日本カトリック中央協議会に「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」という救済窓口があることを知り、電話で事件を申告した。カトリック仙台司教区は第三者調査委員会を設置し、委員会はA司祭にも聞き取りを行い、調査報告書を10月19日にまとめた。

 だが11月11日に、鈴木さんが報告書の受領のため教会事務局を訪ねると、対応したH司教(当時)はこう言った。

「あなたは合意してやった」

自浄作用が機能していない、危険な組織である、と評価せざるを得ないでしょう。そのような組織を構成する要員であれば同じ色に染まる、これも当たり前の話です。常識人でありたいと望むのであれば、いますぐ離れるべきです。他のキリスト教の教派、教団、全て同じようなものだと思います。

バベットの晩餐会

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プライムビデオで「バベットの晩餐会」を観ました。とても良い作品だったと思います。今回の記事は、ネタバレを含んでいますので、ご注意いただければと思います。

ja.wikipedia.org

デンマークの海辺の村で倹しく暮らす姉妹と、村の人々、姉妹に思いを寄せた二人の男性と、その縁で姉妹のメイドとして働くことになった、主人公のフランス人バベット。

かつて、パリの有名レストランのシェフであったバベットは宝くじで大金(1万フラン。現在の日本円でおよそ5000万円)を手に入れますが、姉妹と村の人々のため、フランス式の料理でパーティーを開こうと計画をし、旅にでて食材や食器を買い付けて、帰っては自ら料理をし、姉妹と、以前は仲良しだったのに、年を取って意地悪になってしまった村の人々に振舞います。

姉妹は、これでお別れ、と覚悟を決め、さようならと挨拶をするのですが、バベットは、これからもこの家で働くつもりだと告げます。宝くじの当選金はどうしたのかと問い質すと、パーティーのために全て使いつくして無くなってしまったのだ、と答えます。

戸外からは、パーティーの帰り、その料理に感銘を受けた村の人々が和解し、互いにゆるしあい、手を繋いで神を称える賛美歌の歌声が聞こえてきます。


僕は、この作品が、福音書の精神性を簡潔に表現しているように感じました。すなわち、財産とは自らのためではなく、人様のために使うものだ、というイエス様の教えです。金なんて生きるための不足がなければそれで十分なのです。余った分は助け合いのために役立てればいい。

また、次の箇所を思い起こしました。

ヨハネ福音書 12:3

その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。

 

キリスト教のチューリップとは

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キリスト教のチューリップ」をごぞんじでしょうか。ウィキペディアの「ドルト信仰基準」をみてみましょう。

ドルト信仰基準(ドルトしんこうきじゅん)あるいはドルト信条(ドルトしんじょう)は、1618年ドルトレヒト会議で決められた信仰基準。

オランダ改革派出身のヤーコブス・アルミニウスの死後、1610年に彼の支持者たちが、自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出し、アルミニウス主義の認可を政府に求めた。これが元で1618年にドルトレヒト会議が開かれ、その際に信仰基準が決められた。この会議では、アルミニウス主義は公式に認められなかった。その基準は、改革派教会長老派教会といったカルヴァン主義の特徴を5つの特質として明確にしたことで神学史上大きな意味がある。

  1. 全的堕落(Total depravity) - 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
  2. 無条件的選び(Unconditional election) - は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。
  3. 制限的・限定的贖罪(Limited atonement) - キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
  4. 不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) - 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
  5. 聖徒の堅忍(Perseverance of the saints) - いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。

この頭文字をとって「TULIP」(チューリップ)の神学と呼ばれる。「カルヴィニズムの五箇条」として、カルヴァン主義の中心的な教理として扱われることがあるが、このドルト信仰基準はあくまでアルミニウス主義陣営の信条に対抗してつくられたものである。

とあります。改革派成立当初からあった、改革派の信条、と思っている人が多いように思いますが、ウィキの説明にある通り、アルミニウス主義の台頭に触発されて開催された、「ドルト会議」において決定された事柄である、というところが実際です。

このような考え(全的堕落)があるので、福音派など、カルバン主義に依拠する教会は、聖書は人が著したものではなく、神が人に憑依して直接著したものだと主張するわけです。全的に堕落した人間には聖書を記述する能力がないはずだと理解しているからです。

これに対してアルミニウス主義は何を主張しているのでしょうか、ウィキペディアの「アルミニウス主義」を見てみましょう。

アルミニウス主義アルミニウスしゅぎ)は、オランダ改革派出身のヤーコブス・アールミニウス(ハルメンセン)カルヴァン主義神学予定説に疑問を持ったことから生まれた、中知ミドル・ノウレッヂ主義神学も含むカルビニスム修正主義神学カルヴァン主義傍流神学である。

論争途中で亡くなったアルミニウスの死後、1610年に、彼の支持者たちが、ウーテンボハールトを中心に自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出、アルミニウス主義の認可を政府に求めたことから、レモンストランスと呼ばれた。この問題を解決するために1618年ドルトレヒト会議がもたれたが、この会議では、アルミニウス主義は、公式に認められなかった。現在では、メソジストホーリネスなどがこの立場を取っている。

とあります。主張の内容はさまざまあるようですが、最も印象的で、おそらくは保守的なカルバン主義者たちが反発したであろうと思われる箇所は、

カルヴァン主義同様、アルミニウスも「全的堕落」「全的無能力」の教理を受け入れた。ただし、この世に生を受けた人で、全的堕落の状態のままで放置されている者は一人もいない、キリストの十字架による贖いの恵みによって、少なくとも神の呼び掛け・救いへの招きに応答する能力が恢復されたと考えたのである。これに対し、カルヴァン主義は、「全的堕落」をこのような能力すらない堕落した状態であると考える。

であって、「条件的選び」として、

神はあらかじめだれがキリストを信じるか見ており、その予知に基づいて信じる者を天国へ選ぶことを決める。救いは信仰に条件づけられているので、万人救済主義ユニバーサリズム)ではなく、救いの備えが、万人のものであるとする。

と定義しているところがそれであろうと思われます。

しかし双方とも、そのように主張するのであれば、結論として「教会へ行く必要性が何も無い」ということになってしまいます。

人類が全的に堕落していて回復の可能性がなく、神の決定を変更することもできないというのであれば、何のために教会へ行くのでしょうか。また、万民に救いの備えがあるというのであれば、教会へ行く必要は失われるはずです。つまり、そういうのであれば、教会も不必要になった。だから、教会組織は解散しよう、と言って実際に解散してこそそれらの主義主張は、社会において完全に実践されることになるはずです。

なぜそうはならないのでしょうか。それはつまり、人間が宗教に求めるものの究極の実態は「迷信」だからです。カトリックや正教のように、誰でも教会の言う通りにしていれば救われて天国で神と相まみえることができますよ、と考えていたいから、頑張って献金をするのですよ。

『情けない牧師』とは

laurel8.jimdofree.com

 

KOBEインターネット教会、光のイエス・キリスト教会 のサイトに、『情けない牧師が多すぎるのではないか?』という記事がありました。引用してみましょう。

今、日本では牧師が不足しています。無牧師教会も増加の一途です。

これは、高齢化の影響もあって、牧師が高齢で引退する事もあると思いますが、ほとんどは、牧師の収入が安い事が原因です。

しかし、牧師の収入が安くとも、平日に教会を訪れる信者様はほとんど居りません。牧師だって、一般信者様と同じ様に働けば良いではありませんか。

僕もそのように思います。当ブログにおいても常々同様の主張を行っています。しかし、次節がよろしくありません。御覧ください。

…この様な話を、他の牧師にすると、「平日も結構忙しい。」と言う返事が返って来ます。しかし、忙しいのは誰しも同じではありませんか? 牧師だけが忙しいのではありません。牧師だって教会以外の仕事を持って、働けば良いのです。

何がよくないのかといいますと、「牧師は忙しい」のだと同意していることがよくありません。牧師は忙しいでしょうか。牧師が忙しいのは、日曜の礼拝とその前後を含めたとしてもせいぜい3時間、週にたったの3時間程度でしかない、と思います。

この牧師さんのように、交通事故鑑定士という職業人としての側面があるのであれば忙しいかもしれません。学校の教師、医師、看護師などを兼務している場合などもあるかもしれませんが、そういった人たちも忙しいだろうと思います。しかし、そういった兼業は、牧師の仕事がヒマだからできることなのだ、とも言えると思います。

そして、世の中の大多数の牧師は牧師一本の専業牧師だと思います。

最後はこのように締めくくっておられます。

しかし、残念ながら、「甘ったれた牧師」が多いのは事実です!         今こそ、牧師の意識改革が必要な時です。そして、イエスエルサレムの神殿で見た様な、「金まみれの宗教」から脱却する為の「宗教改革」を行うのは今です。

皆で、もっと、真剣に”キリスト教”と言うものを考えてみようではないですか!

私は、他の”インターネット教会”のHPも見ましたが、本気で真剣に行って居るとは思えませんでした。

しかし、「甘ったれた牧師」が多いわけではなくて、「甘ったれた考えの人間」が牧師になるのではないかと思います。楽して生きていく術、と高を括っているようにしか思えませんし、実際、さほど立派な牧師(神父もですが)に出会ったこともありません。

この牧師さんの改革案を実現するのであれば、プロテスタントの牧師按手、カトリックの聖職叙階の条件として、就業していて、一定以上の収入があること、を定めればよいのです。もちろん、牧師や神父としての報酬はゼロです。そうすれば、『情けなくない牧師(神父)』が現れるかもしれません。

宗教を産業と捉える経済理論の紹介

note.com

宗教は産業である、という事は、当ブログにおいて常々主張していることなのですが、上にリンクを貼らせていただいた武内和人さんのnoteに「あらゆる宗教を産業と見なし、経済理論で分析した『信仰の行為』の紹介」という記事がありましたのでご紹介します。

引用しましょう。

著者らは、人間の感情的、精神的、文化的な欲求を満たすための産業として宗教を捉えることを提案しています。この産業で主な消費者となるのは高学歴者であり、特に自然科学の分野で大学教育を受けた人々はそうでない人々よりも信仰の保有率が高いと著者らは指摘しています。宗教家はこの顧客を自らの宗教団体の信徒とするために、さまざまな競争戦略を採用しています。

宗教とは産業、つまり、商売であり、商品は「人間の感情的、精神的、文化的な欲求を満たすための」ものである、と説明されています。

その通りだと思います。専任職業者(神父や牧師)が存在すことがそれを裏付けています。

さらに引用します。

著者らは信徒が他の宗教へ改宗する事態を防ぐために、定期的な礼拝や集会への参加率を高めることも戦略的に重要であると論じています。このような場面で信徒は単に交流を重ね、社会的ネットワークを強化するだけでなく、その宗教が提供している商品、つまり信仰が「実際に効く」ことを裏付ける証言を共有することができます。これは信仰に投資することで将来的に期待される利益、幸福、救済を信徒により強く確信させることに繋がります。ただし、宗教的な救済や利益を確信させるだけでは十分ではありません。信徒の中では最小限の負担で得ようとして、「神を騙す」こともあります。このような逸脱行為に走る信徒が増えると、宗教団体の存続を危うくする恐れがあるため、信徒同士を絶えず接触させ、教義から逸脱しないように相互に監視させることが有効です。

宗教という産業の卑劣なやり口、商品管理の方法ですが、理解できますね。信者という肩書の顧客、その顧客同士をピア・プレッシャーによる緊張下に配置して支配する、という反社会的なそれである、ということになるでしょう。

リタジカルな礼拝を行う教会

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今回は、世界中にあるキリスト教の教会のうちから、リタジカル(儀礼的)な礼拝を行う教会の、礼拝式の様子をYou Tubeから集めてまとめてみました。

カトリック正教会をはじめ、リタジカルな礼拝をおこなう教会は案外たくさんあって、実際には大多数の教会がリタジカルな礼拝をおこなっていることになると言えると思います。それでは見ていきましょう。

 

ギリシャ正教

ギリシャ正教」という言葉はオーソドックスチャーチ全体を示す場合もありますが、この場合はギリシャ地方の正教会という意味だと思います。動画タイトルの「シノディカル」という言葉が具体的に何を指すのか、不勉強で申し訳無いのですが、わかりませんでした。

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ロシア正教

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アルメニア使徒教会

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ジョージア正教

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神聖ケルト教会

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コプト教会

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カトリック(旧様式)

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カトリック 15世紀の様式を再現

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カトリック(新様式)

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カトリック・マロン派

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リベラル・カトリック教会

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パルマリアン・カトリック教会

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フィリピン人の「反ローマ法王」教会

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アメリカ聖公会

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アングロ・カトリック(英国聖公会・高教会派)

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英国聖公会

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聖パトリック正教会

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アンティオキア教会

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ルーテル教会

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メソジスト教会

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長老教会

リタジカル、というほどではないのですが、クワイアがキャソック(黒衣)とサープリス(短白衣)を着用しているのを珍しく感じましたので掲載しました。長老教会の礼拝式では、司式牧師がガウンやストールを着用する場合がよくあるように思います。

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テゼ共同体

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以上に、You Tubeに挙がっている動画から引用させていただきました。私自身は、生後、台湾の長老教会で幼児洗礼を授けられ、小学生からは京都の日本基督教団(旧組合教会)の教会員として育ちましたが、いずれの教会も、牧師は背広姿であって、礼拝の様式にも、ほとんどリタジカルな要素は含まれていませんでした。しかし、これらのような動画を見ると、プロテスタントも(ルーテルやメソジストだけでなく、長老教会であっても)、リタジカルな要素を含む礼拝をおこなう例があることがわかります。プロテスタント全体主義ではありませんので、同じ教派であっても、礼拝の様式などは個々の教会による場合が多いのでしょうが、案外とリタジカルな礼拝を行う教会は多いようです。リタジカルではない礼拝を行うプロテスタント教会は、改革派などカルバンの影響が強い教会と、福音派など、組織としての歴史が浅い新興教会などでしょう。

札幌光星学園神父刺殺事件

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札幌光星学園神父刺殺事件、について記します。今回の記事は、5ちゃんる宗教板の重鎮のお一人である、アストリッド (グノーシス派)さんからのご提案により作成しました。

ウィキから概要を読んでみましょう。

1997年3月7日、当時のカトリック教会マリア会の日本管区長であった神父は、年度末巡礼で札幌光星学園を訪れていた。その時に札幌光星学園の修道院の前で、この訪れていた日本管区長が腹から血を流して倒れているところが発見される。修道院には部外者は入れないため、これは内部の者による犯行ではないかと思われ関係者を集めたところ、札幌光星学園の修道士の姿が無かった。この修道士は神父を刺殺した後、修道院の自室で内側からを掛けて、包丁で腹を刺して自殺していた[1]

犯行の2時間前に神父と修道士が図書館で話しをしていた。この様子はかなり剣呑であった。自殺をした修道士の部屋にはメモが残されていた。これには人事異動に対する不満と、神父を許せないことと、自身はしてはならないことをしてしまったことが書かれていた。自殺した修道士は元々は刺殺された神父よりも上の立場にいる人間であった。だが1990年に刺殺された神父は日本管区長に選出されたことから立場は逆転していた。刺殺された神父は自殺した修道士に東京の修道院への異動を強く迫っていた[1]

自殺した修道士の救急車での最後の言葉は「札幌が好きだった」であった[2]

後日修道士と神父の救いを祈るレクイエムミサ札幌光星学園の聖堂で催され、暁星学園卒業の教え子も参加した[2]

実に驚かされる内容です。修道院というところは、俗世間では実現できない、理想の国、神の国の模倣を実現するところかと思っていたのですが、実際には、ドロドロした出世欲が渦巻く、拙劣な人間関係をしか実現できないようです。

同ウィキの記事から、脚注に示されているPDFの内容を文字に起こして引用しておきます。

「人間以下」と修道士に

  刺殺された神父

カトリックマリア会  ― 煩悩で頭が一杯の我々には 初耳だったが、これはローマに総本部を置き、世界各地で布教活動をしている敬虔なるカトリック系の宗教法人である。日本では暁星学園(東京)、 海星学園 (長崎)など学校教育を通して布教を進めている。 そのマリア会の日本管区長、吉村新一郎神父(六〇) が、年度末巡回に訪れた札幌市の光星学園内の修道院前で、腹から血を流して倒れているのを発見されたのは三月七日のことだった。「三階の図書室の窓が開いていて修道院の外壁には神父の血が付着していた。修道院には部外者の立入りが禁じられているので、内部の者(による犯行)ではないかと思い、関係者に集まってもらったが、 高二の担当をしていた中村勝彦修道士(六三)の姿がなかった。 修道士は内側から鍵を掛けた二階の居室で、刃渡り二十センチの柳刃包丁を腹に刺したまま、仰向けに倒れていた (捜査関係者)。 犯行時刻は午後一時頃と推定されているが、神父と修道士は、その二時間前に図書室で話しているのを別の職員に目撃されている。「二人のやりとりは、かなり剣呑な調子のものだったそうです。 自殺した修道士の部屋からは人事異動への 不満を記した五通のメモが見つかっていて、〝(東京への) 異動は嫌だ〟〝神父は人間として許せない〟〝私はしてはならないことをしてしまった〟などと書かれていた」(地元記者)

一億円の賠償請求 

「神父と修道士は、四十年来の知己だったのです」と言うのは、マリア会本部(東京・千代田区)の神父である。「おふた方とも敬虔なカトリックの家庭に育った方で上智大学の同窓生です。 不仲説などは耳にしたことございません。熱心な教育者でもあった中村修道士だけに、一体何が彼を錯乱させたのか私どもには知る由もありません。事件後、吉村神父のお母様から電話を戴き〝二人はともに天国に召されたのですね〟 と言われたのが唯一の慰めです」 が、別の見方をしているマリア会関係者もいる。「神父と修道士はもともとうまくいっていなかった。 中村修道士は大学時代から吉村神父の先輩格で、 海星学園時代にも指導的な立場 にあったが、七年前に吉村神父が管区長に選出されて立場が逆転した。神父は東京の修道院への異動をかなり強く迫っていたが、修道士はこれを事実上の引退勧告と取ったのではないか」 実際、吉村神父は相当に強引な人だったようだ。現在、大いに紛糾しているのがマリア会が経営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクール (横浜市) の廃校問題である。「亡くなった人の悪口は言いたくないが、吉村さんのやり方はひどかった」と言うのは、先月吉村神父らに一億円強の損害賠償請求訴訟を起した八十八人の原告団の一人である。「理事会が廃校の方針を打ち出したのは二年前、吉村神父が理事長に就任した直後です。慌てて仮処分申請をし、昨年九月には最年少児が十八歳になるまで、向う十四年間は存続させる、ということで和解が成立 したのですが、学校側はその後も父兄のもとにアメリカの学校に転校させたらどうかなどの手紙を送り続けた。完全な違約です」 父兄が説明を求めに出向くと、あろうことか学校側は警察を呼んだという。 「実はマリア会はバブル期にロンドン郊外に学校を造っているんです。この時、資金集めに奔走したのが当時、副管区長だった吉村さんで数十億円の資金を集めたそうですが、この学校がまた赤字で・・・・。 横浜の廃校話も、その穴埋めではないかと言われているんです」(先のマリア会関係者)

果たして、たとえどのようなことが起ころうとも、全力を尽くして組織を守ろうとするのが宗教というものである、ということのようです。

しかし、この事件は、格下の上役からのハラスメントに耐えかねた下役の男が、その上役を刺殺してしまったのだ、ということに過ぎません。被害者の上役である神父もまた犯罪者めいています。それでも、母親をして〝二人はともに天国に召されたのですね〟と言わしめるのが宗教の麻薬性であり、少なくとも一人は殺人犯で、告解を行わずに自ずから絶命した大罪人であるのに、そのものを含めた「二人の故人」のためにレクイエムミサを実施して、それらの魂の安寧を神に願うことが宗教の詭弁性であると思います。