キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタントの元信徒が運営するキリスト教批判ブログです

盗み行為と神の忍容

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最近YAHOO知恵袋の宗教カテゴリーで、時間のあるときに、気になった質問に、解答できる場合はできるだけ回答するようにしています。

次のような質問がありました。

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キリスト教では盗みをした人は神様から見捨てられますか?子供の頃から盗み癖がありました。万引きも何回もしました。人のお金を取った事もあります。

僕は次のような意見をかきこみました。

神様より前に、盗まれた人のことを考えるべきだと思います。可能であれば、きちんと謝罪してお返しして下さい。

すると、次のように反論されましたので、

もう会えない人がたくさんいます。万引きは不特定多数の人が被害者なので、謝るのも無理です。何十年も前からなので、盗んだ物も覚えてないし持ってません。謝罪して返す事はできません。

さらに、次のように述べました。

それならば、だいたいこれぐらいと、あなたが納得できる金額を、赤十字などへ寄付しましょう。たとえ子供であっても盗みは許されないことです。盗んでしまったら反省して返す、きびしいことを言うようですが、この気持ちがない限りあなたの罪は永遠に許されないと思います。

すると、

他の方のご意見では「神は、そんなに簡単には人を見捨てられません。悔い改めて、神に信頼するのであれば、救われます。」と言っておられますが、具体的な行動をしなければ、神への告白や懺悔では足りないのでしょうか。

僕の答え

ですから、神様より前にと前置きをしています。僕は今はもう教会をやめてしまいましたが、教会では、神に許されようと思うのであれば、まず人に許されなければならない、と教わりました。僕は教会は嫌いですが、この教えは正しかったと思っています。まず人としての責任を全うすること、幼い時の過ちであれ、悔い改める気持ちがあるのであれば、社会的な責任を取ることも必要です。人として社会において罪の償いを行う気持ちのないものは神の許しも得ることができないでしょう。教会はなぜ地獄があると教えるのか、それは我々の心の中にあるからだと思います。

さらに、

やっぱり悔い改めれば赦されるなんて教えは都合の良いでっちあげなんですね。キリスト教は心で懺悔すれば神様が助けてくれるんだと思ってました。

人に許されなければ神は許してくれないとなると、殺人をした人は絶対に悔い改めても救われる事はないですね。

あと、こちらが許しても相手が許してくれなければ、聖書にある「許しなさい、そうすれば許される」って文言もでっちあげですね。

水掛け論の様相を呈してきましたので、しめくくりとして、

「悔い改めました」と口で言えば、許される、と考えているのであれば、それはまあでっち上げの類ですよね。「悔い改める」ということはまず人と和解するということです。たとえ人の許しを得られなかったとしても、自分としてできるだけのことを誠意を持ってやったのであれば、それでいいと思います。重要なことは、実際行動した上で神の許しを願うべきだということです。神は思想を許す装置ではないのです。あなた自身があなたを裁きあなたを許す、神の望んでいることはそういうことです。
僕から申し上げられることは以上です。

盗みのような犯罪を犯したとしても、心の中だけで神に罪の許しを願えばそれで全てチャラになる、と考えていて、そのことに対して同意をしてくれる人がいればそれで良かったのだと、そのように読み取れます。

しかしそれは座ったままなにもせず、聖書(効能書き)には願えば許すと書いてあるんだから許してくれよ。こっちは献金払ってやってるんだからな、と神を脅迫しているようなものです。

どうなのでしょうか。多くのキリスト教の教会はそのように信者に説明しているのでしょうか。しかし、神が許してくれさえすれば社会的な責任は取らなくてもいいのでしょうか。この人は「子供の頃から盗み癖がありました。」と言っています。つまり、今もやっているわけです。でも、謝罪はしたくないし、返済もしたくない。そして社会活動に寄付という形での貢献もしたくない。ただ、あなたは許されているよという慰めの言葉をかけてくれればそれでいいと、そう言っているわけです。あたかも被害者かのようです。しかし、神が許したという確証なんて無いのですから、我々としては人から許してもらう他にはないはずです。クリスチャンであれば、人からの許し(あるいは刑の全う)を得て始めて、よかった神に許してもらえた、と理解するべきなのではないかと思います。

確かに教会は、無限に人をゆるす存在であると教えます。

「神様はどのように人に許しをお与えになる存在ですか」

「 七の七十倍お許しになる存在です」

という堅信式の問答はよく覚えています。しかしこの人のように、神の許しさえ得られれば社会的な責任を果たす必要がない、と考えるのであれば、キリスト教は社会とは何の関係もないところに描かれた絵の餅に過ぎないということになります。関係ないどころか反社会的だとさえ言えてしまうのではないでしょうか。実際、この質問に関して、僕以外の回答者は全員、社会的な責任を取らなくても神の許しは得られる、と回答しています。「盗み?OKOK大丈夫だよ。神に許しをこえば許してもらえる。またやったらまた許してもらえばいいよ。」ということですか。許すということはそういう意味ではないと思うのですけれどね。

社会的な責任を軽んじる神は、社会に不必要な神だと言わざるを得ないと思います。