およそ半世紀ほど前に、在位わずか33日の「ヨハネ・パウロ一世」という教皇がいました。wikiから引用しましょう。
ヨハネ・パウロ1世(羅: Ioannes Paulus I、伊: Giovanni Paolo I、1912年10月17日 - 1978年9月28日)は、ローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会の教皇。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用した。宗教事業協会(バチカン銀行)の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。
革新的な人でもあったようです。引用を続けましょう。
ヨハネ・パウロ1世は、様々な意味で型破りな教皇であった。複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、たとえば教皇演説の中で、それまでの教皇が伝統的に自らを「朕」と呼んでいたのを初めて「私」に変えたほか、豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否した。教皇用の輿の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるをえなかった。
また、難解な教会用語の平易化、具体的な戦争批判、避妊の容認、バチカン銀行の改革、などを推し進めようとしていた、とあります。最後までは成し遂げられなかったとしても、わずか33日の在位期間にこれだけの業績があるとは驚くべきことだと思います。この人が長生きしたら、カトリック教会はどのように変わっていたのでしょうか。
wikiには、「謀殺」説として、
帰天間もなく不可解な証拠隠滅や情報操作が行われた上に、ヨハネ・パウロ1世によるバチカン銀行の改革と自らの追放を恐れていたマルチンクス大司教が、普段は早朝に起床することがないにもかかわらず、なぜか当日午前6時45分に教皇の寝室近辺にいたこともあり、まもなくヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、そしてマルチンクス大司教と関係の深かった「ロッジP2」のジェッリ代表、さらにこの2人と関係の深いアンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説がバチカン内部から囁かれることになった。
とあります。
イエス様も、腐った政治と宗教とカネの問題に、正面から切り込んだ結果、殺されてしまいましたが、この人はイエス様の弟子と呼ぶに相応しい人であったのかもしれません。