キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

ラザロの復活

f:id:christian-unabridged-dict:20170809162248j:plain

 

thesestonewalls.com

 

福音書には、イエスが死者を墓から蘇らせたと記されています。見てみましょう。

 

ヨハネ福音書11:43-44

こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

 

話がややこしくなりますので、ここでは仮死状態だったんじゃないか、とか、示し合わせて小芝居打ったんじゃないか、とかは言わずに、素直にイエスが超能力でラザロを死から蘇らせたのだ、と信じることにしましょう。

 

さて、そうだとすると、問題になることがありますね。生き返る直前に、ラザロはどこにいたのでしょうか。天国ですか?それとも地下の義人たちと一緒に眠っていたのでしょうか?

 

新約は、イエス・キリストの復活を持って効力が生じますので、それまではまだ旧約です。ですので、洗礼者ヨハネ、マリアの父母、ヨアキムとアンナ、それにこのラザロなどは旧約時代の人であって、正教やカトリックでも旧約の聖人ということになっています。ですので、新しい都イエルサレムである、天上の教会、すなわち天国は、この時点ではまだ展開されていないことになるでしょう。しかし、ラザロはどこから蘇って来たのかの説明はありません。 イエスもラザロ本人も何も言っていません。

 

おわかりでしょうか、福音書でイエスは、人は、死んだあと生前の行状によって天国か地獄へ行くのだ、などとは一言も言っていません。黙示録にそのようなことが書いてある、という人がいるかもしれませんが、黙示録はイエスの言葉を記したものでは無いのです。そういう決まりがあるのなら、福音書でイエスに言わせねばなりません。あまつさえ、福音書なんてただの伝説、事実じゃないから4つもあるのです。ただの参考資料なんです。それなのに、一言もそんなことは記録されていない。福音書が書かれたときに、そんな思想は無かった、というところが事実だからでしょう。

 

ローマの国教として整えられる過程で、ミトラス教やギリシャ神話、ゾロアスター系の信者たちが、死んだあとは天国か地獄に決まってんだろ、と突っ込んだので、無理くりそういうことにした、ってところでしょうね。

 

次回は、キリスト教の天国の無茶苦茶な定義について説明しましょう。

教会運営

f:id:christian-unabridged-dict:20170807094208j:plain

Please, Place Your Liberties Into the Donation Baskettomekin.wordpress.com

 

聖書に従って「正しい教会運営」を定義するとすれば

 

  • 教会建物は教役者が自費で借りた、または建てたものであること
  • 信徒からは物品や金銭を要求しない
  • 教役者の生活費は教役者自身で働いて賄う

まあ、ざっとこういうことになるでしょうね。その根拠となる箇所を見てみましょう

 

使徒行伝28:30-31

パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。

 

パウロキリスト教徒の手本とも言うべき人のはずですよね。彼のやった通りに模倣することがキリスト教徒の誇りでしょう。

 

パウロは、自分で借りた家で、自分の財力の範囲内で自由に宣教した、と記されています。献金を受けなかったので、金銭の力関係がなかった。だから「はばからず、また妨げられることもなく」と記録されているわけです。マラキ書を根拠にして什一献金を要求したとは書かれていませんね。

 

キリスト教なんて結局カネでしょ?

 

実際はそう言われても仕方がありませんよね。

原爆投下機にカトリック神父が同乗していた

f:id:christian-unabridged-dict:20170806075523j:plain

hiroshima.australiandoctor.com.au

 

「デスコト国連総会議長と歓談した。エノラゲイについて歴史的な発言だ。」というブログ記事がありました。

 

www.tomabechi.jp

 

少し引用してみましょう。

キリスト教徒を代表して謝罪をしたいというのは、原爆を投下した爆撃機エノラゲイの機長がカトリック信徒であったことがまずあるそうだ。機長はカトリックであるにも関わらず、自分の良心ではなく、上からの命令で行動したからだという。また、これは機長個人のことではなく、当時のカトリックでは、個人の良心よりも疑いを持たずに従うことが重要だと教えていたのであり、これを謝罪したいということだった。

更に重要な理由は、これは、私には初耳であったが、エノラゲイには、公表されている12名の軍人乗組員以外に、13人目の乗員がいたということだ。

その知られていなかった乗員は、アメリカカトリック教会の神父が一人乗機していたということだ。これは長年知られていなかったことだ。議長が「アメリカ」カトリック教会と強調して言われた口調には必ずしも当時のバチカンが同調していた訳ではないというニュアンスを感じた。

 

原爆を投下 した「エノラゲイ」の機長がカトリック信者だったということはカトリック教会の意図ではないでしょう。しかし、神父を同乗させて、隊員が躊躇なく原爆を投下できるように幇助した、これはカトリック教会の意図だと考えてもよろしいでしょうね。だからこの国連総会議長でもあるデスコト神父が承知しているわけです。

カトリック教会が原爆投下に賛成し、それを行う助けをした。これは事実です。

 

マザー・テレサの真実

f:id:christian-unabridged-dict:20170805080745j:plain

edition.cnn.com

 

マザー・テレサが「聖人」に認定、疑問の声も」という記事があります。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

一部引用しておきます。

マザー・テレサを表立って批判してきた故クリストファー・ヒッチェンズ氏は、2012年に『The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice(宣教師の立場:マザー・テレサの理論と実践)』と題された本を出版。その中で、神の愛の宣教者会の施設を訪れた医師たちの証言として、患者たちは不衛生な環境の中で満足な食事も与えられず、鎮痛剤もなく、医療ケアが十分に行き届いていないと記述している。その一方、マザー・テレサ本人が医師の診療を受けるときは、高額な米国の医療施設へ通っていたという。(参考記事:「世界の貧困対策、カギは農村と女性」)

 さらにヒッチェンズ氏は、マザー・テレサが投資家のチャールズ・キーティング氏から100万ドル以上の献金を受け取っていたことを明かした。キーティング氏は後に詐欺罪で実刑判決を受けているが、この裁判でマザー・テレサは、キーティング氏と自分の関係を説明することなく情状酌量を求める手紙を裁判所に書き送っている。他にも、数千人の国民を拷問にかけて殺害させたとされるハイチの右翼独裁者ジャン・クロード・デュバリエからも献金を受け取り、その功績を称えていた。(参考記事:「苦難に負けない ハイチの誇り」)

 ヒッチェンズ氏はまた、宣教者会の元修道女であるスーザン・シールド氏の手記(未出版)を引用し、マザー・テレサが死の床にある病人へ秘密裏に洗礼を授けるよう修道女たちに指導していたことも明らかにした。患者に「天国への切符を得たいと望みますか」と質問したあと、熱を冷ますふりをして額に水で濡らした布を置き、祈りの言葉をささやいて、気づかれないように患者に洗礼を授けていた。(参考記事:「聖なる水」)

 

随分金が好きな婆さんだったようです。

カトリックでは一般信徒も洗礼を施すことができますが、よほどの緊急性が無い限り、一般信徒(現行教会法では修道士・修道女は一般信徒)が洗礼を施すのは適当では無いはずです。なぜこういうことをしたかというと、何人洗礼をうけて信徒になったか、という数字が業績だったからでしょう。信徒数を増やしたという業績が、上部組織からの評価となったわけです。マザー・テレサは貧者の世話をするフリをして施設に誘い込み、死にそうになって意識が無くなるのを待って、洗礼を授けて業績に加えていたわけです。

 

もう少し引用しましょう

前出のカニンガム氏は、問題はあるもののマザー・テレサが多くの人々に希望を与え、人が嫌がる仕事を自ら進んで行ったことは事実だと語る。

「それを30年も40年も、来る日も来る日も続けるのは、並大抵のことではありません。彼女の列聖は、慈悲の心とはどういうものか、改めて教えてくれるものでした」 

 

人が嫌がる仕事を自ら進んで行うひとなんて山ほどいます。それを30年も40年も、来る日も来る日も続けても、マザー・テレサのような金持ちにはなりませんし、病気になっても、マザー・テレサのように高度医療を受けることなく死んで行くのです。

同性愛

f:id:christian-unabridged-dict:20170803173002j:plain

Jesus in Love Blog: David and Jonathan: Love between men in the Bible

 

キリスト教、特に正教会カトリックプロテスタント福音派ですが、これらの教会は同性愛を禁じています。何を禁じているのかというと、同性愛行為だけではなくて、同性を恋愛の対象として考える事、そのものを禁じています。その根拠はなにでしょうか、聖書を読んで見ましょう。

 

レビ記20:13

女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。 

 

なるほど、本当に書いてある、それはダメだわな、というのは幼稚な読み方、本質を知ろうとしない姿勢です。もっと踏み込んで解析してみましょう。

 

そもそも律法とは、総則(十戒と言われる箇所)と、細目から成っています。レビ記には細目が記されているのですが、今問題にしているこの箇所は、総則のどの条項についての細目なのでしょうか、見てみましょう。同じレビ記の少し前の章に明記されています。

 

レビ記18:1-2

主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしはあなたがたの神、主である。 

 

つまり、十戒の「わたしのほかに神があってはならない。」を補足する細目をこれから述べますよ、と言っているのだということがわかります。

しかし、「わたしのほかに神があってはならない。」を補足するために同性愛を禁じるでしょうか。そんなことはおかしいですよね。この命令は、同性愛を禁じる命令では無くて、敵対国の習慣に同調するな、ということを言っているわけです。具体的に言えば、ギリシャ少年愛です。同性愛そのものではなくて、ギリシャの風習に侵食されるな、イスラエルの独自性を守れ、というのが本当の意味なのです。 

だから「女と寝るように男と寝るな」と表現されているのです。同性愛者は女と寝るつもりで男と寝ますか?考えればわかることです。

ギリシャには風習としての女性同性愛はなかったので女性については言及されていないわけで、本当に同性愛そのものがダメだというのであれば、男女とも明確に禁止されているはずではないでしょうか。

 男であれ、女であれ、真剣に心の底から好きになったものが同性であったとして、それを罰する神は合理的ではありません。神は、叡智の限りを尽くして作り出された人間の道具です。そんな不合理なものを神として君臨させるはずがないのです。

 

聖書には、同性愛を賞賛する記述があります。

サムエル記下1:26

わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。

 

 これは盟友ヨナタンに対するダビデの賛辞です。この感情は明らかに同性愛です。それ以外の可能性を探る必要はありません。聖書、少なくともユダヤ教の聖書は、本質的な意味に於いては同性愛を禁じてはいないのです。

 

他人を性の道具にして嬲りものにしたり、淫らな欲求のために他人と性的な遊戯をしたりすることは相手が同性異性に関わらずよくないことです。

しかし、純粋な恋慕の情までを押し殺すべきと強制するのであれば、聖書を正しく理解する能力のないものによる、野蛮な洗脳だとしか言いようがありません。

イエス・キリストは実在したのか

f:id:christian-unabridged-dict:20170731094926j:plain

 

イエス・キリストは空想上の人物です。なぜハッキリ言えるのかと言えば、ズバリ、キリスト教徒による一次史料が無いからです。

 

ナザレのイエス - Wikipedia から引用しましょう。

 

キリスト教徒による一次史料は少ない。
エスの名前が初出するキリスト教外の文書では、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(18:63)やタキトゥスの『年代記』などのごく一部にイエスに関する記述があるが、前者は後代の一部加筆を疑われており、後者は同時代史料でないばかりか、キリスト教徒(「クレストス」を開祖とする宗教)に言及したものである。したがって、イエスの実在性の根拠とするには問題を含んでいる。
しかし、紀元後30年ころにローマ皇帝に対する反逆罪で磔刑に処せられた人物のあったことについては、ローマやユダヤ側の史料によってもある程度裏づけられる[39]。また、十字架刑は、当時のローマ法で規定された刑罰であった。
2008年にキリストに言及した最古のものであると考えられる記述を持つ容器がアレキサンドリアの海中遺跡でフランス人考古学者のフランク・ゴディオ氏を中心とする発掘調査グループにより発見された。この容器は紀元前2世紀後半から紀元1世紀前半のものであり、容器の表面には古代ギリシャ語で「DIA CHRSTOU O GOISTAIS(魔術師たるキリストによるもの)」という文字が刻み込まれている[40]。
2012年ハーバード大学の研究者がイタリア・ローマで開かれた学会で、キリストの妻についての発言を記載した古いパピルス片が見つかったと発表した。発表を行ったのはハーバード大学神学校のカレン・キング教授。パピルスの紙片は縦3.8センチ横7.6センチほどの大きさで、エジプトのキリスト教徒が使うコプト語の文字が書かれている。この中に、「キリストは彼らに向かい、『私の妻が…』と発言した」と記された一節があった。紙片は個人の収集家が所蔵していたもので、2011年にハーバード大学に持ち込まれ、キング教授が調べていた。ニューヨーク大学の専門家に鑑定を依頼した結果、本物のパピルスであることが確認されたという。キング教授によると、内容はキリストと弟子との対話を記録したものとみられ、2世紀半ばごろに書かれたとみられる(のちの調査によれば断片自体は6-9世紀におそらく写されたもの)。表裏の両面に文字が書かれており、書物の1ページだった可能性もあるという。ただしこの紙片は、キリストが結婚していたとする説を裏付ける証拠にはならないとキング氏は指摘する。一方、キリストが未婚だったことを裏付ける証拠もないといい、キング氏は記者会見で「キリストが結婚していたかどうかは分からないという立場は、以前と変わっていない」と強調した[41]。

 

実際に存在して、今のように崇められるようになったのであれば、資料が存在しないはずがないのです。そういうと、「当時は取るに足りない小さな存在だったのだから資料が見つからないのは当たり前だ」 というようなことを言う人がいますが、それならば福音書にも記録されないでしょう。

 

また、福音書の次の記録を見て下さい。

 

ヨハネ福音書19:25-27

さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。
エスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。
それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。 

 

弟子の一人が、イエスの母を引き取って、その後共に暮らしたのだ、と記録されています。それならば、今日何月何日はイエスの誕生日だ、何月何日は十字架で亡くなった日で何日は復活した日だと、はっきりと何月何日かを言い伝えているはずです。それが、どうして生没年月日があやふやなのでしょうか。イエスの生まれた年も特定することができないのは、福音書のこの記述とは矛盾する事実です。そんなことを記録せずに魚の口から銀貨一枚出てきたことを記録するのもおかしな話です。

 

福音書は、最初から寓話として書かれた、ということが真実でしょう。寓話として書かれたものを事実だと思い込もうとするから無理が生じるのです。

修道女逮捕

f:id:christian-unabridged-dict:20170728094035j:plain

アルゼンチンで「コサカ クミコ」という日本人修道女が逮捕されました。自分の勤務する聴覚障がい者養護施設の児童を、性的な目的で神父に周旋したというのですから驚きです。以下にリンクしておきます。

 

www.unidiversidad.com.ar