キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

神とは何でしょうか、実在するのでしょうか。

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Image Gallery moses pillar of fire

 

創世記第13章21-22節

主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。

 

この記述を見ると、神の霊体が超常現象を示しているかのように思えますが、違います。出エジプトイスラエル人の隊列は 非常に長大だったので、列の最後尾であっても先頭の位置が把握できるように、大きな火壺に昼は獣脂を燃やして白い煙を立て、夜は木の枝などを燃やして目印にしたのですが、それを、これは神だ、と表現したわけです。

 

なにであっても、重要なことを知らせる場合に、その主体が「神である」と言う、つまり行政の手段として「神という概念」が利用されたということです。

 

神は実在しません。行政の手段としての方便に過ぎなかったわけです。

 

奇跡

正しいキリスト教論理に於いては、「奇跡は悪である」という結論にしか成りえません。

 

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創世記第1章31節

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。

 

はなはだ良かった。神は天地創造の完成を見て、奇跡無しで満点だと自己評価しています。

 

神は、人間とのコンタクトを自然の現象だけで行う。創世記はそう伝えています。にもかかわらず、さらに「奇跡」が必要だという話が発生するのは、劣った理解、つまり「悪魔」によるものだとしか考えられません。

 

そして「悪魔」の項で申し上げたように、悪魔は実際には神自身なのですから、この奇跡に関する問題も簡単に説明できてしまう、ということになるでしょう。神に反することとはどのようなことか、それは神自身にしか定義することができないはずですが、たとえば奇跡がそれです。

 

キリスト教徒の条件

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福音書において、イエスキリスト教徒になるための最低必須条件を述べています。

マタイによる福音書 第19章16-22節

すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

 

エスは「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言っています。財産を売り払い貧しい人々にほどこしてからついてきなさいと。これがキリスト教徒になるための最低条件だと聞こえます。逆に言えば、財産を捨てられないものはついてくるな、つまりキリスト教徒になる資格は無い、と言っているわけです。

 

悪魔

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キリスト教における「悪魔」とは、神のことです。

 

創世記3:1

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 

 全能の神が創造したこの「狡猾」な生物とは、神自身でなければ、楽園の中で女を誘惑することはできないはずです。

 

創世記第3:4-5

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 

神が人間に選択の自由を与えた、という説明がありますが、それならば神を信仰する必要性についての説明が成り立たないでしょう。神は善であり、同時に悪でもある。だから神が悪性を前面に出して人間に害を加えないように、信じてます、信じてます、と奉仕する。それが「信仰」というもの。これが真実です。

 

悪は悪魔が創った、という人がいますが、なにもないところから何かを創造し得るのは神のみであるはずです。神の関知しないところで、悪は悪魔が無から創り出したというのであれば、それは善悪二元論だということになってしまうでしょう。

 

一神論である以上、悪は、神が創り出したと言わねば理屈が通りません。そして、聖書において、天使は神の象徴として表現されています。読んでみましょう。

 

創世記32:22-32

彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブもものつがいにさわったので、ヤコブもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえにびっこを引いていた。 そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。

 

ヤコブと組打ちをした「その人」は「天使」と説明される場合がありますが、この記録によれば、ヤコブはその人を神だと理解していたことがわかります。すなわち、聖書では神を天使として表現するわけです。

 

キリスト教世界では、悪魔は元来天使であったと理解しています。ところが聖書では天使とは神のことだと説明されています。つまり、悪魔とは神自身のことだ、という理屈が成り立つわけです。

 

神は、創造の業の一端として悪を創造した。それは神自身の悪性を表現したものに過ぎない。神は悪魔でもあるわけです。それが自然な一神教理解なのです。