キリスト教における「悪魔」とは、神のことです。
創世記3:1
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
全能の神が創造したこの「狡猾」な生物とは、神自身でなければ、楽園の中で女を誘惑することはできないはずです。
創世記第3:4-5
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
神が人間に選択の自由を与えた、という説明がありますが、それならば神を信仰する必要性についての説明が成り立たないでしょう。神は善であり、同時に悪でもある。だから神が悪性を前面に出して人間に害を加えないように、信じてます、信じてます、と奉仕する。それが「信仰」というもの。これが真実です。
悪は悪魔が創った、という人がいますが、なにもないところから何かを創造し得るのは神のみであるはずです。神の関知しないところで、悪は悪魔が無から創り出したというのであれば、それは善悪二元論だということになってしまうでしょう。
一神論である以上、悪は、神が創り出したと言わねば理屈が通りません。そして、聖書において、天使は神の象徴として表現されています。読んでみましょう。
創世記32:22-32
彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえにびっこを引いていた。 そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。
ヤコブと組打ちをした「その人」は「天使」と説明される場合がありますが、この記録によれば、ヤコブはその人を神だと理解していたことがわかります。すなわち、聖書では神を天使として表現するわけです。
キリスト教世界では、悪魔は元来天使であったと理解しています。ところが聖書では天使とは神のことだと説明されています。つまり、悪魔とは神自身のことだ、という理屈が成り立つわけです。
神は、創造の業の一端として悪を創造した。それは神自身の悪性を表現したものに過ぎない。神は悪魔でもあるわけです。それが自然な一神教理解なのです。