キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

光明真言と五智如来

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如来寺五智如来

www.yougyokuin.com

 

過去の記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

に、SNSを通じてご意見を頂戴いたしました。ブログ記事でご回答させてください、とお願いしましたところ、意見の内容をそのまま引用しないのであれば、との条件つきでご了承いただきましたので、こちらで回答させていただきます。

ご意見の内容を要約させていただきますと、

仏教に如来というものは、実際には存在せず、本来あるべき人間の理想的姿を象徴的に表したものだ、という記述があったが、そんなことはない。如来は現実に実在するものであって、たとえば「光明真言」というマントラ真言)があるが、これは「五智如来」に順番に呼びかけて利益を願うマントラであって、非常に強力な効能がある。日本でも平安時代以来1000年以上行われ続けて来ている、ありがたいマントラである。如来が実在する明らかな証拠だ。

ということでよろしいかと思います。

 

私の実家は、明治以降キリスト教に改宗しているのですが、それ以前の先祖は仏教徒だったわけで、位牌や過去帳がありますし、そういうものを捨ててしまうわけにも行きませんので、仏壇や神棚はそのままにしてあります。菩提寺の宗旨は天台真盛宗という天台系の一派でして、これは偶然同じだったのですが、母の実家も同じ宗旨でした。

母は結婚後キリスト教に改宗しましたが、母方の祖母には、比叡山や坂本の菩提寺などによく連れて行ってもらいました。天台宗は、天台真盛宗も同じですが、密教でもありますので、光明真言にも馴染みは深いです。下記のWikiからの引用での唱え方は真言宗の唱え方ですが、天台系では、光明真言

オン アボキヤ ビロシャナ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン 

 と唱えます。両者で少し違うようです。

 

さて、問題の「光明真言」ですが、どのようなものなのか、Wikiを見てみましょう。

光明真言(こうみょうしんごん)は、正式名称は不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)という密教真言である。密教経典である「不空羂索神変真言経(菩提流志訳)」や「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言(不空訳)」に説かれる。

 とあります。発音と意味、として、

oṃ amogha vairocana
オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏大日如来)よ
オン アボキャ ベイロシャノウ 
唵 阿謨伽 尾盧左曩

 

mahā-mudra maṇi padma
偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
マカボダラ マニ ハンドマ
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽

 

jvāla pravartaya hūṃ
光明を 放ち給え フーン (聖音)
ジンバラ ハラバリタヤ ウン
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽

とあり、また、

なお、amogha(アボキャ)は不空成就如来を、vairocana(ベイロシャノウ)は大日如来を、mahā-mudra(マカボダラ)は阿閦如来を、maṇi(マニ)は宝生如来を、padma(ハンドマ)は阿弥陀如来を指すと解釈され、金剛界五仏五智如来)に対して光明を放つように祈願している真言である。

ともあります。これに従って、上記の「意味」を書き換えるのであれば、

オーン 不空成就如来よ 毘盧遮那仏大日如来)よ 阿閦如来よ 宝生如来よ 阿弥陀如来よ 光明を 放ち給え フーン (聖音) 

 となり、不空成就如来はお釈迦様のことですので、

オーン 釈迦如来よ 毘盧遮那仏大日如来)よ 阿閦如来よ 宝生如来よ 阿弥陀如来よ 光明を 放ち給え フーン (聖音) 

という意味である、ということになるでしょう。

ここで、各Wikiから、如来が何を示しているのかを整理してみましょう。

これによって、改めて意味を表すのであれば、

仏法の根本を正しく知り、この世の法則と真理を学び、揺るぎなく、妬まず、怒らず、見下げず、比べず、そのようにして生きることの尊さを追求する自分であるように、その道を示してください。 

という意味が込められている文章なのだ、とまとめることができるでしょう。

そして、この光明真言を唱えるところの意味ですが、

五智如来という五人の如来が、どこかに実在していて、光明真言を唱える人を認識して、超自然の力を持ってその人に介在し、特別にそのひとに利益を与える。

という理解と

五智如来によって象徴された、五種の徳を大切にする生き様を忘れないように、常に唱える。 

という理解があるのではないでしょうか。人によっては、上の理解方法で留まる場合があるでしょうし、もっと理解できる人には、下の段階へ進むべき場合もある、ということです。

実際には、如来や菩薩は実在するものではなくて、色々な事柄を擬人化して象徴するものであるわけです。実在する超人的な、いわば神のような存在なのだという理解はするな、と禁止はされていないかもしれませんが、それは、仏教が迷信化した状態だと言わねばならないでしょう。

皮肉な言い方をすれば、五智如来が実在して、超能力で、光明真言を唱える人を幸せにする、というレベルに留まっている人は、阿閦如来の無瞋恚、無怒に倣うことができず、気に入らないブログ記事を見つけたら、よく考えもせず、ついクレームを入れていまうのだ、ということになるのでしょう(笑)。

ちなみに、キリスト教の聖書理解は、公式には低い方のレベルしかありません。キリスト教を仏教と比べるな、と言う人がいますが、正確には、比べることができないほどレベルが低い、というべきでしょうね。

神や、天国、地獄の実在を公式に説くキリスト教は、迷信化したレベルの仏教理解と比べれば、なんとか釣り合うのではないでしょうか(笑)。