キリスト教の問題点について考える

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キリスト教の左と右

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マタイの福音書を読んでみましょう。

 

マタイによる福音書 12:1-8

12:1そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。 12:2パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。 12:3そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。 12:4すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。 12:5また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。 12:6あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。 12:7『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。 12:8人の子は安息日の主である」。

 

しばしば引用されるのでご存知の方もたくさんおられるのではないでしょうか。律法を、非人情的な当てはめ方をしてはならない、という教えであるという説明を受けたでしょう。

僕もそれはそのとおりだと思うのですが、さらにもう一歩踏み込みたいところです。

ここで、パリサイ人とは、ユダヤ人コミュニティの中の主流派であり、多数派でもあった人々であって、保守的な立場の人々を言っています。どのような団体、例えばイスラエル国であっても、ソロモンの時代のような黎明期にあっては、皆一様に熱い思いをもって国家の運営に当たったものであるが、しばらくするうちに、熱さが失われてしまい、現状の個人に利する局所的な価値のみを保持できればそれでいい、という気風に満足するようになります。これが保守というものの正体であるわけです。

つまり、イエス様は、常に、飽くことなく真実を追求し続けよ、とこのエピソードを通して指導しているのです。そのためには保守的な立ち位置へ立つな、というわけです。

このエピソードを読んで理解するのであれば、保守的なキリスト教というものは、本来、成立してはならないことに気づくはずです。キリスト教徒は、本質として、イエス様のような革命家でなくてはならないわけです。