キリスト教の問題点について考える

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聖書と人形浄瑠璃と落語

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前回に続いてまた漱石の話題で恐縮なのですが、どうぞご辛抱の上お付き合い下さい。

今回も「吾輩は猫である」から引用してみましょう。

細君が御歳暮の代りに摂津大掾せっつだいじょうを聞かしてくれろと云うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君が新聞を参考して鰻谷うなぎだにだと云うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると細君がまた新聞を持って来て今日は堀川ほりかわだからいいでしょうと云う。堀川は三味線もので賑やかなばかりでがないからよそうと云うと、細君は不平な顔をして引き下がった。その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、私は是非摂津せっつ三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すってもいでしょうと手詰てづめの談判をする。

おそらく人形浄瑠璃の話をしているんだろうな、ということは何となくわかります。それ以上細かいことは、当時の風俗に特有のことで、別に詳しく理解できなくても小説全体に対する理解を左右するほどのことでは無いだろう、と考えて読み流すことは、邪道だというほどのことでは無いかもしれません。

しかし、この箇所に現れる芝居の外題に含まれる意味を知れば、もっと面白い話の流れを理解することができます。

まず、「摂津大掾」とは、竹本摂津大掾、明治の大名人と讃えられる義太夫節太夫です。木挽町歌舞伎座文楽の東京公演が来ていて、名人摂津大掾が語るのだというので、奥さんがそれを観に行きたいのだと苦沙弥先生に頼んでいるわけです。

「鰻谷」というのは「桜鍔恨鮫鞘(さくらつばうらみのさめざや)」というお芝居のいち部分ですが、苦沙弥先生は、殺人事件を扱った陰気な物語だから気が進まない、と言っています。

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「堀川」と言っているのは、「近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)」というお芝居の、「堀川猿廻しの段」という部分で、与次郎という人物が猿廻しを行う場面があるのですが、その間太夫の語りがなく、ツレ弾きが入った二挺の三味線で華やかな聞かせばがありますので、摂津大掾を聞きたいのだから、その演目を観に行きたいというのはおかしいだろう、と言っているのです。

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三十三間堂」というのは、「三十三間堂棟木の由来」というお芝居のことで、これであればおめでたいお話だし、太夫の語りも十分に楽しめるのだから文句はあるまい、と、奥さんが先生に詰め寄った、というわけです。

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吾輩は猫である」は、特に前調べをせずにであっても十分に楽しめる作品だとは思いますが、こういった事々を知っていれば、もっとたのしめるでしょう。

また、落語の知識についても同様で、

もし善意をもって蒟蒻こんにゃく問答的もんどうてきに解釈してやれば主人は見性自覚けんしょうじかく方便ほうべんとしてかように鏡を相手にいろいろな仕草しぐさを演じているのかも知れない。

という箇所は、落語の「蒟蒻問答」を知っていれば、何を言っているのかをよく理解することができます。

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いかがでしょうか、ほんの百数十年前の作品であっても、それだけを読んで全てを理解することは困難です。二千年近くも前に書かれたものであればどうでしょうか。

漱石であれば、わからない単語をネットで検索すれば、それなりに正しい答えを導き出すことができるように思いますが、聖書はそううまくは行かないようです。なぜなら、キリスト教徒自身がその痕跡を抹殺してしまったからです。

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