キリスト教の問題点について考える

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夏目漱石に見る福音の真髄

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夏目漱石の「吾輩は猫である」から引用してみましょう。

西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分(だいぶ)流行(はや)るが、あれは大(だい)なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境(さかい)にいけるものじゃない。向(むこう)に檜(ひのき)があるだろう。あれが目障(めざわり)になるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪(しゃく)に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。

苦沙弥先生と同級の、ヤギヒゲが哲学者然とした人物、八木独仙氏との会話で、哲学者が述べる世界観です。

もう少し読んでみましょう。

西洋人の遣(や)り口くちはみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭(ほうてい)へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。寡人政治(かじんせいじ)がいかんから、代議政体(だいぎせいたい)にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道(トンネル)を堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大(おおい)に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下(もと)に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下(もと)に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観(み)るのもその通り。――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。 

次に、マタイの福音書から一節読んでみましょう。

マタイの福音書 17:20

よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。

マタイの福音書 21:21

よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。 

福音書のこれらの箇所に関する説教としては、乗り越えられないと思われるような困難な山(課題)があっても、正しい信仰を持ってさえいれば、必ず乗り越えることができるのだ、というようなものであることがほとんどだと思いますが、僕は、これらの箇所にふれるたびに、上に引用したヤギヒゲの哲学者先生の言葉を思い出します。

漱石福音書を意識してこの作品に織り込んだのかどうか、それはわからないのですが、哲学者先生は、福音書のこの箇所が示す示唆を正しく理解していると言えるでしょう。即ち、イエス様は、山を動かすことが目的なのではなくて、山を動かせば成就するような事柄について、より現実的に成し遂げられる方法を理性的に求めなさい、それが「信仰」なのだ、と説明しておられるわけです。

「信じれば動く」とばかり教えて、信じるとは一体何のことなのかを教えないから、キリスト教はいつまでたってもオカルトの一種から上へ登ることができないのです。