キリスト教の問題点について考える

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永遠の刑罰と永遠の生命

 

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福音書には、「永遠の刑罰」とか「永遠の生命」というような言葉が出てきます。これは死後どうなるか、といっているように聞こえます。見てみましょう。

マタイ福音書 25:40-46

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

「永遠の刑罰」、恐ろしい表現ですね。死後、永遠の刑罰を受けてしまう恐れがあることこそが、キリスト教の存在理由だ、という人がいるほどです。

しかし、同じマタイ福音書の22:32では、

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である

と言っていますね。死後の世界、などといった子供だましの戯言には振り回されるな、という注意です。同じ文書のほんのすこし後で、同じ人物が全く逆のことを言うはずがありません。たとえ宗教テキストと言えど、常識的な読み方をするべきだと思います。

それでは、この箇所の言っている永遠の刑罰とは何か、永遠の生命とは何か、どう考えればよいでしょうか。死後のことを言っているのではないのでしょうか。

 

矛盾したことを言うようで恐縮なのですが、これは死後のお話です。一体何が言いたいのだ、と突っ込まれそうですが、死後のことには違いありません。

しかし、死後も意識が生き続けて、というようなことではありません。たとえば、ヒトラーを考えて見ましょう。端的に言って、彼は犯罪者でした。たくさんの人を惨殺し、不和による悪政を敢行したのです。

そして彼は死にましたが、だれか、彼の行動を是認する人がいるでしょうか。合理的な意味において、かれは全く認められてはいないでしょう。悪しき人物としての評価が全てだと思います。つまり、これが「永遠の刑罰」なのです。

 

死は、その人にとっての最後です。死後も意識だけあり続ける、というようなことはありません。しかし、社会における、その人の記憶はいつまでたっても消えませんよ、ということ、これが永遠の刑罰であり、永遠の生命なのです。

からしっかりと生きていきましょう、というわけです。名指しで讃えられることばかりではありません。生きている自分の生命をどう使うのか、と考えながら生きていれば必ず良い実が生じるよ、と、福音書は教えているのだと思います。