キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

教会音楽について

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gipsymania.exblog.jp

 

最近は教会も裕福になってきたようで、なにはともあれパイプオルガンを導入する、というようなケースが増えてきているのだそうです。中には、特別に積立を行って、信徒の子女を音大のパイプオルガン科へ行かせて、オルガニストとして養成するようなところもあるのだとか。

しかし、パイプオルガンは導入したもののオルガニストがいない、または定着しない、あるいは素人が無理やりブーブーやって壊した結果、壁の飾りになってしまって、結局安物の電子オルガンをピコピコ鳴らしているのだとか。まあ、贅沢な(馬鹿げた)お金の使い方です。

僕は、写真のようなシンプルな講壇前にリードオルガンを据えて、手入れして大切に使っているような教会がいいと思います。人物で隠れてしまっていますが、講壇の左前には古いリードオルガンがあります。講壇上に椅子がズラリと並んでいるのは組合教会の特徴です。

ついでにお話すれば、プロテスタント教会の講壇上の配置には大きく分けて二種類あります。真ん中に聖餐台(祭壇)があって蝋燭が常置されていれば、間違いなくルター教会で、上の写真のように、真ん中に講壇(説教台)が、その手前に聖餐台があればカルバン系の教会です。この二種類があって、カルバン系をさらに細かく分けると、前述したように、椅子が並んでいれば組合教会、なければ長老・改革教会、恵みの座があればメソジスト教会です。メソジスト教会は聖餐のとき跪く習慣がありますが、その際に使うスクリーン(柵のようなもの)を恵の座といいます。昔のカトリック教会にはこれと同じものがありました。まあ、あくまで目安ですが、こんな特徴があります。

※少し補足します。メソジストにはいくつかの流れがあって、講壇の配置も一様ではないのだそうです。下の写真は、おそらく聖餐台が中心にあってルター派の教会に近い様式ですが、メソジストの場合、ルター派に近いというより英国国教会に近いと言った方が正確でしょう。また、恵の座も無くて、全くカルバン派の教会の様式を取る教派もあるようです。

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メソジスト教会聖餐式

Sunday Services

 

話を戻しますが、実際は、上の写真の教会にも、後部の歌隊壇にパイプオルガンが導入されているのですが、この程度の聖堂であれば講壇前のリードオルガンだけで充分です。

それにしても、なぜどの教会も教会音楽を更新したがるのでしょうか。ずっと同じ様式を変えないのは正教会ぐらいでしょう。プロテスタントでは「賛美歌21」なるものへ移行しようとしているようですが、案の定不平不満が噴出しています。カトリックは「典礼聖歌」なるものを作成しましたが、これがもう劣悪なものです。昔の「カトリック聖歌集」は廃止して典礼聖歌一本で礼拝を行う教会もあるのだとか、随分気の毒な気がします。どんなことでも、だんだんとレベルを上げていくのが潮の流れだと思うのですが、わざと下げて行くということは珍しい現象だと思います.

もう随分前の話ですが、京都の繁華街にあるカトリック教会のミサに参加したことがあるのですが、わりと上手なオルガニストでしたので、終了後の奏楽を楽しみに待っていますと、バッハのコラール前奏曲「目覚めよと呼ばわるものの声がする」を弾き出しましたので吹き出しそうになりました。礼拝が終わった後の後奏に「前奏曲」を演奏するとはトンチンカンもいいところです。

おかしいのはカトリックばかりではありません。改革教会にも大きな問題があります。改革教会の「改革」はカルバンの宗教改革の「改革」を意味します。「改革教会」を名乗るということは、カルバンの意思を引き継いでいるのだという自覚を持っているということのはずですが、カルバンが定めた教会音楽は、無伴奏、単一音声部で歌われる「ジュネーブ詩篇歌」でした。Wikiから引用してみましょう。

つまりカルヴァンにとって詩篇歌は、福音説教と同じ地位にあるものであり、神の言葉(聖書)にもとづく詩篇歌のみで讃美することをすすめた。

 しかし実際には、改革教会のHPを見ると、大きくなパイプオルガンが設置されていることを宣伝し、ストップ数の多さを自慢しているように見えます。いくつか 見てみましょう。

rcjinagekaigan.jimdo.com

www.ashiyachurch.net

www.fujimicho-kyokai.org

なんとなくキリスト教っぽかったらそれでいい、一応古めかしい伝統の匂いがする看板はかかげておくけど、大衆受けしない理屈とかは面倒臭いからどうでもいいや。

こういうことで本質が失われてしまわないはずがありませんよね。日本のキリスト教の実態はその程度ってところでしょうか。