キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

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キリスト教と同性愛

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過去の記事「同性愛」では、キリスト教が同性愛を禁じることは、聖書に忠実ではないのだということを書きました。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

また、福音書にはつぎのような記述があります。

マタイによる福音 19:12

母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。

 

この、「母の胎内から独身者に生れついているもの」というのは、同性愛者のことなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

そうであればイエス様は、同性愛者の存在を知っていて、少なくとも否定はしていなかった、と考えることができます。

にも関わらず、教会が同性愛者を排斥しようとすることは、あまり正しいこととは思えませんね。しかし実際には、キリスト教の教会というところは、聖書の精神性を追求するところではありません。聖書を言質としか理解できない稚拙な団体なのです。

「聖書にこうかいてあるんだからいいんだろ、ダメだとかいてあるから禁止だ。違うか」、と、

教会は、聖書から禁忌事項を導き出して人を緊縛するための機関だということです。禁忌事項が多ければ多いほど安心する人が集まっているのです。キリスト教の醍醐味は魔女裁判にこそあるわけで、その味わいを深めるために禁忌事項を大量生産している、というわけです。

同性愛者を排斥しようとする偏見に満ちたキリスト教徒と、そのような信徒に抗って立場の正当化を図ろうとする同性愛者のキリスト教徒の言い争い、という構図はたびたび見受けられます。同性愛者は人間ではない、と、悪口の限りを尽くして罵るキリスト教徒に対して、同じように口汚なく反論する同性愛者のキリスト教徒。聞き苦しいですよね。

僕は、キリスト教徒としての自覚に囚われていた頃、「実は私、キリスト教徒なんですよ。明治から6代続く筋金入りのキリスト教徒一族でしてね」と人に言うとき、どうだ、すごいだろ。お前らとは違って神に選ばれた特別な人間なんだぞ、という気持ちがありました。同じキリスト教徒でも、憧れで洗礼を受けたようなにわかクリスチャンとは重みがちがうんだぞ、という気持ちもありました。皆さんどうですか? あるでしょ? キリスト教徒は非キリスト教徒より優れているのだ、という考え方はすべてのキリスト教徒にあります。そういう考え、要するに差別が好きでなければキリスト教徒にはなりません。残念ながらこれは真実です。

差別したさで入信してはみたけれど、差別される側に立たされたとわかったとたん差別者を非難する、それはおかしいです。キリスト教は、人を差別することが好きな人の集団だということは解っていたばずなのですから、差別が嫌になったならやめればいいだけです。それがマトモな考え方というものです。

同性愛者はなぜ差別されるのか、それは、同性愛者に享楽的で退廃的な傾向が強いからでしょう。不特定多数の他人と性交渉を行う、他人の悪口を言いたがる、自分一人の権利ばかり主張したがる。そのような傾向があります。違うでしょうか。そういうものを宗教が排斥することは当然のことだと思いますよ。宗教というのは差別の基準に過ぎません。高尚な精神性を示すようなものではないのです。

しかし日本の法律では排斥されていません。同性愛者はそれだけで犯罪者だと言われないですよね。当たり前のことだと思います。

わざわざ同性愛者を排斥するような愚劣な団体へ入り込んだ上、その団体に対してそれはやめろと言うのは、どういうんでしょうか、要するに馬鹿じゃないですか、と思うわけなんですけど。