キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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ウエストミンスター小教理問答書検証 -問37,38-

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この記事も、旧ブログ(キリスト教の問題点について考える)の記事のログを取って頂いていたものの流用です。旧ブログではウエストミンスター小教理問答書を一通りざっと検証しましたが、この記事はその一つでした。

 

ウェストミンスター小教理問答書

問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ(1)、直ちに栄光にはいります(2)。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま(3)、復活まで(4)墓の中で休みます(5)。
  1.ヘブル12:23
  2.Ⅱコリント5:1、5:6、5:8、ピリピ1:23、ルカ23:43
  3.Ⅰテサロニケ4:14
  4.ヨブ19:26-27
  5.イザヤ57:2


問38 信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて(1)、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され(2)、永遠に(3)、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます(4)。
  1.Ⅰコリント15:43
  2.マタイ25:23、10:32
  3.Ⅰテサロニケ4:17-18
  4.Ⅰヨハネ3:2、Ⅰコリント13:12

 

「愛娘の目前で行われました」一昔前なら、馬鹿な読み方をするな、と叱責されるようなニュースの読み方です。一から順に話をしていかなければ何のことなのかわからない。話を人に伝えることは、ただでさえ難しいことであるのに、殺人事件の報道を「愛娘の目前で行われました」とやり始めることが果たして最適なのかどうかということでしょう。

なんとか話にインパクトを加えようと画策してのことなのでしょうが、ニュース報道は、事実をただ淡々と伝えれば、それだけで良いのであって、田舎臭い操作は不必要だと思います。

この問答も田舎臭い押し付けでしかありません。信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けるのか、という提起をする前に、信者は、死の時、キリストから祝福を受ける、というのであれば、まずそれを説明するべきなのに、どんな祝福を受けるのか、という問題に飛んでしまっているわけです。ひょっとして小教理問答だから飛ばしているけれど、大教理問答ではこの点の説明があるのだろうか、と思って確認してみたのですが、言葉が違うだけで、全く同様でした、ご覧ください。

問86 見えない教会の会員が死の直後に享受する、栄光におけるキリストとの交わりとは、何であるか。
答 見えない教会の会員が死の直後に享受する、キリストと共にもつ栄光における交わりとは、次のことにある。すなわち、彼らの魂は、その時全く聖くされて(1)最高の天に受け入れられ(2)、そこで光と栄光のうちにいます神のみ顔を仰ぎ(3)、彼らの体の完全なあがないを待っている(4)。その体は、死にあってもなお続いてキリストに結合され(5)、終りの日に彼らの魂に再び結合されるまで(6)、床にあるようにその墓に休息する(7)。これと反対に、悪人の魂は、その死の時に地獄に投げ入れられ、そこで激しい苦痛と全くの暗黒の中にとどまり、また彼らの体は、大いなる日の復活と審判まで、獄屋にあるように閉じ込められる(8)。
    1 ヘブル12:23
    2 Ⅱコリント5:1,6,8、ピリピ1:23(行伝3:21、エペソ4:10と比較)(*)
      * ピリピ1:23を行伝3:21、エペソ4:10と比較
    3 Ⅰヨハネ3:2、Ⅰコリント13:12
    4 ロマ8:23、詩16:9(*)
      * 1658年版による。1648年版の19:6は誤り
    5 Ⅰテサロニケ4:14
    6 ヨブ19:26,27
    7 イザヤ57:2
    8 ルカ16:23,24、行伝1:25、ユダ6,7


この問86の前にも、やはり、見えない教会の会員は死の直前に、栄光におけるキリストとの交わりを享受するのだ、ということは説明されていません。

このような教理問答書は、結局、情緒不安定な宗教的妄言でしかないわけです。キリスト教が「宗教」ではなくて「真理」であると主張したいのであれば、一つ一つのことを余さず丁寧に説明せねばなりません。

キリスト教の説明は科学の説明では無いのだから、とおっしゃるでしょうか、そんなことはありません。科学とは世の中の事実をあとから説明していることなのですから。科学があって、事実がそれに従属しているわけではないのです。

たとえば、聖書には、神殿への献金フェニキアシェケル貨幣で行われるように指定されていたと記述されていますが、これは、フェニキアシェケルの金含有量が優れていたためであって、そのような判断を行う科学的な考え方があったことを聖書自身が伝えていることがわかります。また、ノアの方舟の製造方法、臨在の幕屋の作成方法の指示内容の説明も「科学的」だと言うことができるでしょう。

このように、聖書の記述内容は、実は、実務的で、また、科学に基づいている場合がほとんどです。聖書は宗教を示唆してはいなかったからなのです。宗教ではなかった聖書を宗教のステージまで引きずり下ろして「真理」と命名してしまったもの、それがキリスト教という宗教であるわけです。

キリスト教は本当に「宗教」ではなくて「真理」なのでしょうか、真理であるというのであれば、万人が共通の理解を導き出すことができる説明が行われるはずです。

「信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。」

え? 信者は、死の時、キリストから祝福を受ける、という前提があるんですか?

というような説明ではダメですよ。ということです。結局、キリスト教という文化も、人を幼稚で感情的な宗教という不必要な遊びに誘う害毒に過ぎないということです。キリスト教を分類すれば、オウム真理教統一教会と同じ列にしか並ばない。これが現実です。