キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

什一献金のゆくえ

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お気づきの方もおられるかと思いますが、私は以前、「クッキングホイル」と名乗って、FC2ブログで「キリスト教の問題点について考える」というブログを書いていました。記事を保存せずに終了してしまったのですが、幸い、この記事はログを取って下さった方がありまして、残っていました。今回、ほぼそのまま貼り付けて記事にさせていただきました。

 

日本ホーリネス教団東京中央教会の一信徒である野村富恵氏のサイトにある「什一献金について」という記事を引用しながら考えて見ましょう。この記事は、結論を具体的に述べていないのですが、結局什一献金は必要なのだということを言いたいようです。記事の最後に「あなたの宝のある所には、心もあるからである」 というマタイ伝の言葉を引用して締めくくっていますが、この福音書の記事を読んで「宝」即ち金だというような短絡した、キリスト教の本質からかけ離れた理解をすることが「什一献金」という馬鹿げた考えに繋がるのでしょう。

什一献金を強要する際に、必ずと言っていいほど引用されるのがマラキ書の「神のものを盗む」という表現ですが、案の定この記事でも引用されています。マラキ書の「十分の一を捧げないものは神に呪われる」という恐ろしい表現は、一体何のことなのか、簡単なことです。全収入の十分の一、ピンと来るものがありませんか、そうです、「税」なのです。旧約聖書のいわゆる「献げもの」というのは、税のことなのです。国家運営、つまり、公共インフラ整備、福祉、役人の給料などを国民の努めとして負うこと、それが「神への捧げ物」であったわけです。イスラエルに於いては三権の長がすべて「神」であった、いわゆる「神権政治」を採っていたのでそういう表現になるわけです。国の施策、公共インフラや福祉行政の恩恵には浴しているのに、国民の義務である納税を免れるようなことは許されることではない、これは当たり前のことであって、違反者は神から呪われる、即ち行政処分されますよ、ということを言っているのです。どこをどう読んでも牧師に金をめぐんでやらなければならないという意味にはなりません。

現代日本に於いては、キリスト教徒であろうとなかろうと、国税地方税は宗教機関を経ずに納められます。これで国民の義務は正常に果たされているのです。その上、なぜ教会に率の決まった納付金を納めなくてはならないのでしょうか、ここが既におかしな話なのです。

氏は同記事において更におかしな話をしています

遺失物法第4条に利益を得た物は報労金として5~20%を払うことになっていて、大方10%に落ち着くようです。ですから什一と言うのは前掲のレビ記27:30を引いて来るまでもなく当然の相場(と言う表現は適当ではないかも知れませんが)なのです。 

と言っていますが、とても「なるほど」とは言えないですね。空に遊ぶ鳥のように、野に咲くゆりのように、自由に生きよう、もう明日どうしようかと悩むな、負い目あるものに安堵と休息の日々を与えてあげよう、と発言したイエス様に従いたいと希望すると、おとしものの謝礼の相場にしたがって(税を支払った上さらに)全収入の十分の一を教会に納めなくてはならないのでしょうか。

またこうも言っています。

聖書は部分だけで読んではいけません。

 またこうも。

これは聖書を良く読まないで自分の都合の良いところだけを引用するからです。

すべてご自分のことです。聖書の表現を利用して信者から一円でも多く金を巻き上げる教会の手助けをする、大変失礼ながらあえて言わせていただきますが、あなたの失っているものは「視力」よりも「正義」です。

キリスト教徒でありながら、なぜ大昔のイスラエルの国民生活の様式に振り回されねばならないのでしょうか、パウロはこう言っています。

Ⅱテサロニキ 3:10-14 働かざるもの食うべからず。

実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい、もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。

(不可能な人は別ですが)労働して生産しないものは死んでしまえ、という意味です。イエス様がもたらした新しい契約下では、レビ人は不必要になったということです。牧師や神父などという遊びながら信者を脅迫して金をせびるような不良分子こそが、神から呪われた存在なのだということです。パウロの説明にもとづいてキリスト教というものが存在しているのだから彼の指導にしたがってもらいたいものです。パウロ本人だって自分で稼いだ金をを資本にして宣教活動を行なっているのです。信者から金を巻き上げるなんていう下品なことはしていません。返って食事や着るものの世話をしています。

一歩譲って、どうしても什一献金が必要だというのであれば、その理由を言うべきでしょう。どういう理由があって沢山献金してもらう必要があるのか、そして当然ながら収支を明らかにしなくてはなりません。誰からいくら、結果として一年間にいくら集まって、何にいくら使ったのかということです。どうせ出来損ないの牧師の息子や娘がちゃんとした学校へ入学できないことをカムフラージュするために外国のカルチャースクールへ行かせたとか、苦労知らずのカス嫁のぶくぶく膨れた指の飾り物になった程度のことでしょう。バカバカしくてやってられない結果が出てくると思いますよ。

そしてこの引用、

エスの許に来た青年も資産が多いが故に天国に入れなかったのです。「駱駝が針の穴に入るより難しい」のです。

ウソを言ってはいけませんね。その青年が天国に入れなかったとなぜ言えるのですか、見ていたのですか、そんなはずはないでしょう。あなたは嘘つきです。聖書には「あとは自分で考えなさい」という箇所が何箇所もある。それを利用して他人を脅迫する手段にする、そんなあなたは人間のクズです。あなたこそ「生まれてこなければよかったのに」と神から軽蔑されるでしょう。

そしてこれ、

70年生かして頂くとそう言う世の裏側を沢山知っています。金第一ではなく、神第一で生き、献げ物を考えたいと思います。

70年も生きてきて金の話ばかり。福音書のどこをどう読めば真実の捧げ物が什一献金だということになるのか、あなたのような「狂信者」がいるからキリスト教がカス宗教に堕落してしまったのです。

自分の能力で稼いだ金は自分で責任を持って使えばいいのです。家を建ててもよいでしょうし、趣味に費やしても良いでしょう。世の中はそうやって回っていくものだからです。それが神の業です。自分で良いと思った使い方をする、それが人間としての責任です。何か人のために使いたいがどうすればよいのかわからない場合は、国連なりユニセフなりに直接送金すれば良いのではないでしょうか。怠け者に脅し取られるよりはよほど有意義です。

什一献金に疑問を感じている人、苦しんでいる人、バカバカしいから教会へ行くのをやめてしまいなさい。そうすればずっと良い人生になります。本当の神は献金の額で人の価値を上下するような低劣な価値観の持ち主ではありません。生きていることは面白いことだな、と思える人生を。