キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「カトリックの教えの間違い」について

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purgatory | Communio

 

arinopapa.arinomamachurch.com

 

というブログ記事を見つけたのですが、案の定ただの悪口、でした。カトリックの肩を持つつもりはないのですが、ヒマつぶしにちょっと検証してみることにしましょう。

 

①司祭の結婚禁止規定

プロテストタントでもいったん牧師になった方が途中でリタイヤすることは珍しいことではありません。
しかしカトリック教会における司祭のリタイヤ率は異常であると言わなければなりません。
大体10人の同期の司祭がいたとしたら、長期にわたって司祭であり続ける人は十人中の一人か二人であると言われます。
その理由は司祭の結婚禁止規定にあります。
聖書には『後の時代になると結婚を禁止したりする』(Ⅰテモテ4:3)者たちが現れるとあります。
そのような教えは、嘘を平気で言う良心が麻痺した者たちの偽善によるものであると、聖書には書かれているのです。(Ⅰテモテ4:2)
ある人たちは「カトリックの教えを納得した上で、献身したのだから、仕方ないでしょう」と言います。
しかしそうではありません。
献身者はカトリック教会の所有物ではなく、神に献げられた献納物であるのです。
ですから間違った教えによって神のものである献身者の生涯を台無しにする権利はカトリック教会にはありません。

 内政干渉でしょうね。余計なお世話です。マタイ福音書19:12に

母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい

とあります。

みずから進んで独身を通すことは、天の国のための働きだとイエス自身が言っているのですから、この人の言い分では、テモテ書簡を利用して福音書のイエスの発言をを批判することになってしまいますね。それに司祭の独身制は禁止されてのことではありません。また、ご自分でもそう言っているように、志願者のうち、最後まで目的を達するものが100%で無いのはどの世界でも同じです。その割合が低すぎて異常だと言いたいのであれば、具体的な根拠を示すべきでしょう。

それに、プロテスタントにも修道会はあります。女子修道会ですが、生涯を通して独身を貫き、神に捧げようとすることは同じでしょう。当然、こちらにも脱落者はあるでしょうね。

www.kanaan.org

 

②マリア崇拝
マリア崇拝ぐらい、真のキリスト信仰に反するものはありません。
この教えをどうしたら、良心に反しないで受け入れることが出来るのか見当がつきません。
マリア崇拝の起源は、教会が宣教をしやすくするために宣教地の女神崇拝に妥協してキリスト信仰の中に女神信仰を取り込んだのが始まりです。
それを徹底的に批判したのがネストリウスでした。
ネストリウスにも批判されなければならない点が多くあったため、両者の争いは泥仕合になりました。
問題を多く抱え込んでいる者同士で争って、片方が勝利し、片方は異端宣告を受けました。
そして女神崇拝という偶像礼拝はカトリックの中に定着しました。
教会会議でネストリウスに異端宣告がなされたのが431年です。
1517年にルターがカトリック教会への抗議行動を起こすまでに1086年の月日がたっているのです。
その間、大多数のキリスト教徒は間違った教えの闇に閉じ込められていたのです。

「真のユダヤ教」として正しくない、というのであればわかりますが、キリスト教という以上、キリストを産んだ母は神の母である、としてマリアを崇敬することこそ、キリスト教の核を成す重要な要素であると言えるでしょう。はっきり言えば、地母神崇拝を捨てきれなかったローマ市民の本音が反映された結果なのです。そのことを理解できない者は「キリスト教徒」たり得ない、ということです。モグリのニセクリスチャンなのです。

それから「1517年にルターがカトリック教会への抗議行動を起こすまでに1086年の月日がたっているのです。」なんて言ってますけど、ルター教会はマリアを「神の母」と認め、聖堂にマリア像を安置して崇敬しているのですよ。

 

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ルーテル教会の聖人崇敬

 

次の動画は、ドイツのルーテル教会で、マニフィカト(聖母賛歌)が唱えられている様子です。祭壇が東面式で、対面式に変更したカトリックよりも、古い様式を守っていることがわかります。


Magnificat (Lobgesang der Maria)

 

 

③煉獄(れんごく)の教理
人間が神から離れるとき真っ先に行うのがオリジナル宗教の創作です。
聖書のどこにもない煉獄というものを創作し、自身のオリジナルの宗教を作り上げます。
プロテストタント・リベラル派も万人救済主義というオリジナルを作り上げました。
近頃は福音派さえもセカンドチャンス論という福音派版の煉獄の教理を作り上げました。
これは言うまでもなく、聖書のどこにもない教えを人間が創作したものです。
自分が死んだ後に神様と会わなければならないとき、聖書にない教えを水戸黄門の印籠(いんろう)のように神に向かって「この教えが目に入らぬか。この教えこそは煉獄・万人救済・セカンドチャンス論である!」とでも叫ぶつもりなのでしょうか。
神様の御前で通用するのは、神の御言葉である聖書の言葉だけです。
なぜそんな当たり前のことが分からないのか不思議でなりません。

プロテスタント教会であっても、会員が死亡すれば葬式を行いますが、人が死ぬと、生前の成績如何によって、天国か地獄に振り分けられる。他の人がどう願おうが望もうが決定された行き先は一切変更されない。そう理解しているのであれば、なぜ葬式を行うのでしょうか。人が死ねば、のこされたものが死者にできることは何もない、そう考えているのであれば、行政手続きを済ませて、遺体は法に従って処分すれば良いだけの話です。違うでしょうか。なんとか神に念を送って故人の冥福に関与したい、そう思っているから葬式をするわけです。煉獄的な発想は人間の自然な感情に組み込まれているのですよ。

 煉獄が無いことが聖書的に当たり前だというのなら、聖書的に天国と地獄は実在することを証明しなくてはならないでしょうね。聖書のどこに、人間は死んだあと天国か地獄のどちらかに行きますよ、と説明されているのでしょうか。どうせ妄想ならいろいろオプションがあったほうが面白いじゃないですか。

 

④避妊の禁止

エホバの証人は輸血を禁止します。
モルモン教徒は子だくさんの家庭が多いです。
このどれもが聖書の教えにもとづいていると主張します。
しかし聖書に当たってみると、引用されている聖句はそんなことは少しも言っていないのです。
カトリックの避妊禁止の教えぐらい守られていない教えも珍しいかもしれません。
しかしこれが良心的カトリック教徒の人権を侵害していることは明らかです。
避妊をする・しないは個人の自由にまかせられるべき領域であり、何人(なんぴと)も侵害してはなりません。
聖書さえも、そのことに口出しをしてはいないのですから。

あえて 聖書本位的に言うのであれば、性行為は子供を作るための行為であって、それ以外、たとえば欲情を満たすためだけであってはならない、ということになるでしょうね。したがって、避妊はアンチキリスト的行い、ということになるでしょう。

とはいえ、エッチをしたい、という要求に抗えないときもあるでしょう。神様がそのように作ったわけですからね(笑)。カトリックは避妊を全面的に禁止しているわけではありません。オギノ式ならOKです。これマジすよ。

 

⑤教会を聖書より上位に置く

今まで見て来たカトリックの教えの間違いは、同じ出所(でどころ)から出発しています。
それは教会会議を聖書より上位に置くということです。
このことを正当化するのにカトリックはレトリックを用います。
それは聖書を編纂したのは教会であるのだから、教会が聖書と違ったことを教えても良いという主張です。
しかしこれは故意に大事な一点を見逃しております。
それは聖書は教会が編纂したから聖書に「なった」のではなく、元々聖書と認められていたものを、教会が聖書として追認したというのに過ぎないということです。

◎確かに教会は真理の保持者です。
しかしそのためには教会は聖書に従うものでなければなりません。
それだけが教会が真理を失わないでいることが出来る唯一の道なのです。

 完全に聖書だけ、と主張したいのなら、説教なんて危険な行為は一切できなくなりますよね。聖書にはこう書いてあるけど、実際にはこういう意味なんだよ、と説明して、それが間違っていたらどうしますか?プロテスタントだって、聖書の解き明かしを行うのは教会だと言っているのです。つまり「教会を聖書より上位に置いている」のですよ。

 

ツイッター見てると、一時間おきに雀の話しているヒマそうな神父がいますけど、ああいうの見てると幸せそうでよかったね、と思いますけどね(笑)。

それにしても、今までキリスト教徒が他の教派の悪口を言っているのを聞いて、なるほどな、と感じたことは一度もありませんね。