キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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右の頬と左の頬

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emija.hatenablog.com

 

マタイによる福音書 第五章38-42節に次のような言葉があります。

 

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

 

 この「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」ということばについて、「REGINA PACIS」というサイトでは次のように解説しています。

 

今日の福音の一節、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい。(マタイ5:39)」は、とても誤解されている部分だと思います。多くの人にとっては、いや、クリスチャンにとってさえ、ガンジーのような無抵抗主義のことだと思われがちなのでは?


しかし、古代教会の偉大な教父のひとりであるアウグスティヌスは、「右の頬」は「天的or霊的な善いもの」、「左の頬」は「地上的or肉体的な善いもの」のことであり、「右の頬を守るために、左の頬を向けなさい」と説いています。言い換えれば、「この世的・肉的な善いものを犠牲にしても、天的・霊的な善いものを守りなさい」ということです。


これは、「右」や「左」がユダヤ文化で象徴すること、また、この一節があるマタイ5章全体を見ても、合致が行きます。


まず、ユダヤにおいて、「右」は「善いもの、力あるもの、優れたもの」、「左」は「悪しきもの、弱いもの、劣ったもの」を象徴しました。聖書の他の箇所を見ても、そのことは分かります。(創世記48:14やマタイ25:31-33等)


そして、マタイ5章全体を見ると、この章の一貫したテーマは、「天に入るための道」です。39節の前にも、5章の中では「救いへの道vs滅びへの道」対比が数多く書かれています。その文脈から言うと、まさにこの39節のポイントは、「この世的なことは犠牲にしてでも、あなたの救いにとってもっと重要な天的なことを守りなさい」ということであって、無抵抗主義を教えているのではありません。


聖書は、ある一部分だけを抜き出して都合よく引用してはダメ。全体的な文脈の中で解釈しなくては、間違った解釈になってしまいます。

 

 この説明によれば、聖書に「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」と記述されていれば「この世的なことは犠牲にしてでも、あなたの救いにとってもっと重要な天的なことを守りなさい」と変換して理解しなくてはならない、ということになるわけですが、それならば「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」はどう変換すればいいのでしょうか。また「求める者には与え、借りようとする者を断るな。」というまとめにはどうつながるのでしょうか。

 

福音書がそんな暗喩で満たされているのなら、普通文に訳された「解訳版」が出回っているはずだとおもうのですが、そういうものは見たことがありませんね。

 

まあそういう箇所が全く無いとはいいませんが、たとえば黙示録なんかは確かに暗喩が沢山あります。しかし、この箇所はそのままの意味でしょう。ガンジーのような無抵抗主義を奨励しているのです。

 

しかし「聖書は、ある一部分だけを抜き出して都合よく引用してはダメ。全体的な文脈の中で解釈しなくては、間違った解釈になってしまいます。」と言いたくなる気持ちはわかります。そうとでも言っておかなければ、福音書には実行不可能な指示が沢山ありますからね(笑)。