キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

リードオルガンのススメ

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collection.maas.museum

小規模な礼拝堂であっても、パイプオルガンを導入することが流行りのようになってきているようで、無理をしてでも大きなパイプオルガンを設置するケースが増えて来ているのだそうです。

あるプロテスタント教会で見たケースでは、信徒席が100程度の小さな礼拝堂で、コンクリート造の新しい建築でしたが、やはりパイプオルガンが設置されていました。手鍵盤だけの「ポジティフオルガン」と呼ばれる小さなオルガンなのですが、残念なことに音がほとんど聞こえないのです。おそらく、礼拝堂を設計した時点で、オルガンを設置する予定がなかったのでしょう。通路や窓の位置、天井のたかさ、内装の素材、といったようなことを考え、ある程度の残響がある状態にしなければ、オルガンがある意味がなくなってしまいます。適当に建物を建てて、そこへ買ってきたオルガンを適当に置いただけではダメだということです。

リードオルガンでも同じことなのですが、明らかに言えることは、パイプオルガンよりも価格が低いこと、それと扱いが容易なことでしょう。パイプオルガンのパイプは、風が吹き出す穴の上に、ただ乗っているだけの場合が多く、地震で倒れてしまうこともあります。そのような場合、修理のためにいちいち専門家に来てもらわなくてはなりません。

また、ちょっとピアノが弾けるので、程度の感覚でオルガンを演奏しようとしますと、オルガンが壊れてしまいますので、結局、演奏家を雇用することになってしまいます。

お金が有り余っているのであればパイプオルガン導入もよろしいのかもしれませんが、僕は、リードオルガンで十分なのではないかと思います。すでに新作は行われていないようではありますが、さがせば、中古のリードオルガンを購入することも不可能ではないようです。賛美歌の伴奏ができて、ある程度の曲の奏楽ができる鍵盤数があれば、ストップがなくてもいいと思います。

また、電子楽器であっても、教会用のオルガンとして遜色ないものもあります。これであれば手鍵盤二段、足鍵盤もあり、ストップも豊富でありながら価格も手頃であって現実的です。

piano.miki.co.jp

教会としての体裁を整えるために散財することも、ことによっては必要なのかもしれませんが、それよりも、余裕があって、なおかつ満足度が高くなる工夫を施す。これが重要かと思います。

通りすがりの小さなレンガ作りの鄙びた教会の窓から、バッハの小品を奏楽するリードオルガンが聞こえて来たりしますと、この教会はただ者ではないな、などと感心したりします。

仏教徒危機

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1963年6月11日の仏教紛争に抗議して火刑に処せられたThichQuang Duc

fallenangelsperiod2.weebly.com

前回記事でご紹介した内容から、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

ベトナムの「仏教徒危機」について、」Wikiの「仏教徒危機」からご紹介しましょう。

ja.wikipedia.org

仏教徒危機(ぶっきょうときき、ベトナム語Biến cố Phật giáo變故佛教 英語Buddhist crisis)は、ベトナム共和国(南ベトナム)1963年5月から同年11月まで続いた、政治的かつ宗教的緊張。南ベトナム政府によって行われた数々の弾圧行為や、主に仏教僧侶によって導かれた市民の抵抗市民的不服従)によって特徴付けられた[1]

危機は5月8日に中部の都市フエで、仏旗掲揚の禁止に抗議した9人の非武装市民が銃撃されて発生した(en:Huế Phật Đản shootings)。

仏教徒危機は、1963年11月に発生したベトナム共和国陸軍ズオン・バン・ミン将軍による軍事クーデターをもって終結した。なおこのクーデターでは、ゴ・ディン・ジエム大統領および実弟でもあるゴ・ディン・ヌー秘密警察長官が殺害された。

「背景」から引用します。

背景[編集]

南ベトナムでは、1963年の時点で全人口の70%から90%が仏教徒であると見積もられていて[2][3][4][5][6]ゴ・ディン・ジエム大統領のカトリック寄りの政策が多くの仏教徒の反発を買っていた。少数派だったカトリック教会の一員である彼の政府は土地の割り当て、商売上の恩恵や税の軽減と同様に、公共事業や軍部での昇格においてカトリック教徒を優遇した[7]。ジエムは一度相手が仏教徒だった事を忘れて、「あなたのカトリック教徒の将校を敏感な場所に配置しなさい。彼らは信頼出来る」と上級将校に語っていた[8]ベトナム共和国陸軍の多くの将校がそれによって昇進出来ると考えてカトリックに改宗し、彼らが改宗しなかった場合、多くは昇進を拒否された[8]。それに加えて、ベトコンゲリラを追い返す事を目的とする村の自衛民兵への銃の配布は行われ、武器がカトリック教徒のみに与えられた[9]。何人かのカトリック司祭は私的な武装組織を運営しており[10]、一部の地域では強制改宗略奪、爆撃と寺院の破壊が行われた[11]。一部の仏教徒の村は援助を受け取る為、或いはジエム体制によって強引に追い出されるのを避ける為に「集団で」改宗した[12]

カトリック教会は南ベトナムで最大の地主であり、フランス人によって仏教徒に押し付けられた「私的な」立場は、公的活動を指揮する為に公式な許可が必要とされたが、ジエムはこれを取り消さなかった[13]。教会所有の土地は土地改革の対象外とされ[14]カトリック教徒は政府が全てのベトナム人に義務付けられていた賦役労働英語版からの「事実上の」免除対象とされ、公的支出はカトリック教徒が多数派の村に偏って支給された。ジエム支配下で、カトリック教会は財産取得に関して特別な免除処置を享受し、1957年にはジエムはベトナム共和国聖母マリアに捧げると発言した[15]。公的な行事の場でバチカンの国旗は定期的に掲げられた[16]

ぜひWiki全文をお読みください。

キリスト教徒による宗教的迫害

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ja.wikipedia.org

Wikiに「キリスト教徒による宗教的迫害」という項があります。キリスト教と迫害とを組み合わせて考えるときは、ほとんどの場合、キリスト教は迫害される側として取り上げられがちですが、実際には、死刑囚が処刑されたことをクローズアップしているようなものであることが多いのではないかと思います。

今回の記事では、上記Wikiの記事から、「迫害の事例」の内容をピックアップしてご紹介しようと思います。ぜひ、Wiki全文をお読みください。

古代ギリシャ信仰への迫害

テオドシウス1世によりキリスト教ローマ帝国国教になった後にはかつてキリスト教を迫害していた古代ギリシャ信仰の信者は逆にキリスト教徒によって迫害され、5世紀までにはキリスト教への強制改宗などにより根絶させられた。

非主流派への迫害

中世カトリックは非主流派を「異端」と決め付け、死か改宗かを選ばせる厳しい迫害を行った(一方で、正教会等の他のキリスト教諸教派では異端の殺害は行われていないとされているが、実際には、ロシアに伝わっていた正教旧来の信仰を守り改革を拒否した正教古儀式派の初期の指導者であるアヴァクームソロヴェツキー修道院の修道士たちなど、主流派正教会に破門され殺害されたものも存在する。現在に至るまで、正教圏においても宗教的少数派に対する迫害は継続的に存在している)。

イスラム教への迫害

キリスト教イスラム教徒にたいしても厳しい迫害を行ってきた。歴史的経緯によりイスラム教キリスト教の「異端」とみなされたため、イスラム教徒はキリスト教原理主義者からすさまじい憎悪を浴びせられた。

先住民の諸宗教に対する迫害

大航海時代が訪れると、キリスト教の司祭達は、アフリカアジアアメリカ大陸オーストラリアなどに軍事力を伴った宣教を開始した。ヨーロッパ白人は、全ての先住民を「野蛮人」と断定し、自らの「先進的な」文化やキリスト教を広めて回った。

アフリカ黒人の諸宗教に対する迫害

アフリカ大陸を征服したキリスト教諸国は、アフリカの土着信仰を「邪教」「悪魔の教え」と断じ、宣教師団などを用いてキリスト教への改宗を促す政策を推進した。

ヒンドゥー教に対する迫害

イギリスインド統治の期間中、もしくはそれ以前のヨーロッパ諸国によるインド南部の支配においてキリスト教宣教師たちは盛んにヒンドゥー教を「邪悪」であり、「偶像崇拝」以外何もない空虚な教えであるとして激しく攻撃し、その存在価値を認めなかった。

仏教への迫害

ベトナムでは、ベトナムのカトリックによって仏教徒が迫害される仏教徒危機が発生した。

日本における諸宗教への迫害

日本におけるキリスト教1549年フランシスコ・ザビエルイエズス会耶蘇会)から始まり、戦国大名の中には南蛮貿易での利益を求めて自身がキリシタン大名となり、キリスト教を優遇するものも現れた。

その過程において、一部のキリシタン大名キリスト教信者によって、領内の神社、寺院が焼かれ、僧侶が迫害されるという事例が存在した。ただし仏教徒の大名の領土では、逆にキリスト教徒が迫害されていた事例も存在した(原因の一つにキリスト教が他宗教を「悪魔の教え」と見なしたことによる対立がある。アフリカにおける例を参照)。

この神道、仏教に対する弾圧とポルトガル商人によって行なわれていた日本人奴隷の貿易を宣教師達が黙認していたことを名分として、豊臣秀吉バテレン追放令を発し、キリスト教への圧迫が強まった。ただしこの段階ではまだキリスト教自体は禁止されてはいなかった。あくまで宣教行為を禁止し、外国に売られた日本人を連れ戻すようにとの命令であり、すでにキリスト教徒となった日本人に対して棄教を迫るものではなかった。

思想・科学への迫害

カトリックは信仰と相容れない科学的な考えや、それらに影響を受けた無神論的な思想の持ち主を「異教徒」「異端」として迫害を加えている。

415年に修道士らが女性天文学者ヒュパティアを殺害した際には、指示したキュリロスがその「功績」を讃え、教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられている。

殺害に至らないまでも、ガリレオ・ガリレイのように異端審問で有罪判決を受ける者もいた。

 

聖書的ではない3つの態度

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www.christiantoday.co.jp

 

クリスチャン・トゥデイに「多くのクリスチャンが取り除かなければならない聖書的ではない3つの態度」という記事があります。引用してみましょう。

神は常に私たちの内で働いておられ、それ故、神は私たちの内にキリストの似姿を生み出すことができる、と聖書は教えている。この神の働きによって、私たちの性質が、キリストの性質に形づくられていくのである。キリストは、父なる神の本質の完全な現れだ。そして、父なる神とは、愛、恵み、慈悲に満ちている存在だ。

キリストの性質に形づくられるという過程には、神に敵対する態度を取り除き、キリストのような態度に置き換えることが含まれる。では、神が私たちから取り除こうとしておられる態度とは何だろうか。ここでは、私たちが取り除くべき聖書的ではない3つの態度を見ていこう。 

 その3つとは

  1. いじめ
  2. 被害者を演じる
  3. キリスト教用語で人を操作する

であるということです。

しかし、そもそもキリスト教はいじめから始まっています。イエス様の性質について、マリヤ様の立場について、ただ一つの理解だけでなくてはならず、これに反する意見を主張するものは異端として排斥したわけです。キリスト教の本質はここにあります。だから、キリストを信じるものは常に他人の信条のデテイルを排斥しようとするのです。いじめはキリスト教キリスト教であるところの基本的な条件だと言うべきでしょう。

また、キリスト教徒は、人祖アダムとエヴァが犯してしまった失敗の責任を図らずも負わせられて苦しんでいる、と考えています。彼らがもっとしっかり神の言いつけを守っていたなら、いまごろは何の問題もなく安穏な生活を謳歌できていたはずだというわけです。つまり、キリスト教徒はアダムとエヴァの被害者なのです。常識的な言い方をすれば、被害者を演じている、ということになるでしょう。被害者を演じることが良くないというのであれば、キリスト教を信じることをやめてしまわなくてはならないことになるでしょう。

 キリスト教用語といえば、「ハレルヤ」「主を賛美します」などよりも、「サタン」とか「悪霊」と口走る人によく会います。「主にあって」という人も多いと思いますが、一体どういう意味なのでしょうか。「主の名によってあなたに命じます」と言われたことがありますが、ふざけている様子ではありませんでした。つまり、キリスト教用語を口走りながら、反社会的な思想や行動を披露して見せるからこそ、「キリスト教徒」である、ということになるでしょう。キリスト教用語を使用せず、他人を嫌な気持ちにもさせないのであれば、その人は常識的な一般社会人でしかありません。

この3つの特徴を兼ね備えている人こそ立派なキリスト教徒なのだ、ということになるでしょう。取り除いてしまっては、非キリスト教徒、つまり「常識的な人」に昇格することになってしまうと思いますよ。

「道、真理、命」の意味

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dailyverses.net

 

ヨハネの福音で、イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と発言しています。見てみましょう。

ヨハネによる福音書 14:6-7

エスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

これだけを聞くと、イエス様が、私は神と同等であり神自身である、私を信じるクリスチャンだけが、死後天国に迎えられる、と言っているかのようにも読めるのですが、当然ながらそんなことを言っているわけではありません。もしその意味でそういったのであれば、私は神だから私のいう通りにしていればいいんだ、という意味だということになりますが、それはあまりにもバカバカしいと思います。

そうではなくて、大切なことは、すべて私が説明したこと、譬えを通して教えたこと、これ以外にはありませんよ、と言っているのです。それら以外に、例えば、ただ信じていると言えば、死後安楽なところで転生できる、というような迷信が起こっても安直に靡くなよ、と諌めておられるわけです。

高価なナルドの香油を何に使うべきか、それは自分の考えで決めるためにそこに存在するのであって、為替として置いてあるものではない。そのもの(あなた自身)の価値をきちんと見極める目を養いなさい、という意味です。

からし種とパン種と天国

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en.wikipedia.org

 

福音書で、イエス様は天国をからし種とパン種にたとえておられます。読んでみましょう。

マタイによる福音書 13:31-34

また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。
またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

天国が、からし種やパン種のように、小さなものが成長して、あるいは膨らんで大きくなるようなものである、というたとえは、天国を、神が用意した死後の世界である、と理解しようとする限り、わかりにくいですよね。

この箇所について、「トミーの聖書理解」というブログサイトの「マタイ13:31-33 からし種とパン種の譬え」という記事で、ウェスレアン聖書注解の記述が紹介されていますので見てみましょう。

 この個所は大きく二つの解釈が可能であると思います。
それをウェスレアン聖書注解より抜粋要約すると、
 “①第一の解釈は伝統的なもので、教会歴史の初期のころからのものである。
エスはここで、教会の二重の成長を述べておられることになる。
からし種のたとえでは外面的な成長を、
パン種のたとえでは内面的な霊的成長・・・を表している。

 ②第二の解釈は近代になってからのもので、
からしの木の大きな成長は、世界を支配しようとしていた背教の教会の外面的な伸展を表している。
「空の鳥」は、教会の様々な分野において高い職権の地位についた人々である。
パン種は、教会の中に入り込んだ異端の教えを象徴しており、それによって教会は腐敗してしまう・・。”

エス様は、聞いている人々に少しでも理解しやすいように、たとえをもって話をされたのだと思うのですが、外面、内面だとか、背教とか異端だとか、そのような、日常の生活からかけ離れた、特殊な事柄を理解させるために、わざわざこの話をしたとは思えないです。

次に、同志社女子大のサイトの、近藤十郎先生による「からし種とパン種の話」という記事から「たとえ話の意味と真理」という節を見てみましょう。

からし種は、当時知られていたすべての種のうちで最も小さなもののひとつです。その微小なる種が、いったん地に蒔かれるとやがて信じられないほどの大きさに成長して葉を茂らせ、空の鳥が葉の陰に巣をつくるほどになる、という話です。パン種も同様。イースト菌酵母)のことですが、粉を膨らませるのに大量のパン種は必要ありません。ほんの僅かなからし種によって、3サトンの粉を膨らますことができる、というのです。今日の度量でいえば、およそ40リットルにあたります。どのような真理がこのたとえ話のなかに秘められているのでしょうか。物量的な尺度に振り回されて自分を見失いがちな人間の世界を、イエスは時代の人々と共に、またそのような時代にあって厳しく批判している、ということでしょうか。そのような批判は現代に生きる私たちにも同様に、当て嵌まるのではないでしょうか。

「物量的な尺度に振り回されて自分を見失いがちな人間の世界を、イエスは時代の人々と共に、またそのような時代にあって厳しく批判している、ということでしょうか。」と纏めておられるのですが、「天国はこのようなものである」、と言って語られた譬えであったのですから、その意味が批判だったのだ、という結論には、なるほど、と納得できないところがあるように感じます。

なぜこのように、この箇所に関する解釈を探すと変なものばかり出てくるのかと言いますと、天国とは死後の世界のことである、と決めつけて、イエス様の発言をそのような前提に無理やり当てはめようとするからです。

エス様のこのようなたとえを、教会の利益といったような奸計抜きで考えるのであれば、天国とは、人々の努力によって、今生きているこの世界上に展開されるべき理想の状態であることを説明する言葉である、と理解するべきなのです。

ひとりひとりがイエス様のアイデアを理解し、実践する、その、人ひとりの力はからし種のように小さくて、パン種のようにはっきりとは目に見えないほどの微力であるかもしれないが、皆で力をあわせれば、パン生地が大きく膨れるように、からしの枝が大きく張って、やがて鳥が止まるほどの大きさに成長するように、この地上に神の国を建設する、という目的を果たすことができるのだ、と説明しているわけです。

いかがでしょうか、正しく理解するためには注釈書が必要だったでしょうか、読んだそのままの意味ですよね。イエス様は物事を暗号化するためにたとえで語られたのではありません。そのまま、素直に理解すればそれが正しい場合がほとんどだと思います。すなわち、少なくともイエス様の考える天国は死後の世界のことでは無かったのだということです。

なぜ「ウェスレアン聖書注解」のような注解書が必要なのか、それは、聖書はそのまま素直に読んでしまうとキリスト教組織の利益に反してしまうからです。

「聖書を心から信じている人は完全に頭がおかしい」

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www.afpbb.com

 

2009年9月、と、少し古いものですが、AFPの面白い記事を見つけました。少し引用してみましょう。

「成長するにつれ聖書が嫌いになった」、「聖書は風刺する必要がないほど、それ自体が既にクレイジーだ」と語ったクラム氏は、220ページにわたる同作で、創世記の文言をわかりやすくマンガにし、天地創造からノアの方舟(Noah's Ark)、そしてヤコブの冒険まであらゆる紆余曲折を細かに描き出している。

 

 「Robert Crumb's Book of Genesis」という著作についてはWikiでも紹介されています。

en.wikipedia.org

 

もう少し引用しましょう。

1990年代に米国から南仏に移住したクラム氏は、聖書に対する興味は、以前から抱いていた古代文明への情熱と関係があると言う。「聖書は神の言葉ではなく、人間の言葉だ。最初から最後まで作り話だと思っています」

 

僕の観察によれば、「聖書を心から信じている人」は神を信じていません(笑)。