キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「道、真理、命」の意味

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dailyverses.net

 

ヨハネの福音で、イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と発言しています。見てみましょう。

ヨハネによる福音書 14:6-7

エスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。

これだけを聞くと、イエス様が、私は神と同等であり神自身である、私を信じるクリスチャンだけが、死後天国に迎えられる、と言っているかのようにも読めるのですが、当然ながらそんなことを言っているわけではありません。もしその意味でそういったのであれば、私は神だから私のいう通りにしていればいいんだ、という意味だということになりますが、それはあまりにもバカバカしいと思います。

そうではなくて、大切なことは、すべて私が説明したこと、譬えを通して教えたこと、これ以外にはありませんよ、と言っているのです。それら以外に、例えば、ただ信じていると言えば、死後安楽なところで転生できる、というような迷信が起こっても安直に靡くなよ、と諌めておられるわけです。

高価なナルドの香油を何に使うべきか、それは自分の考えで決めるためにそこに存在するのであって、為替として置いてあるものではない。そのもの(あなた自身)の価値をきちんと見極める目を養いなさい、という意味です。

からし種とパン種と天国

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en.wikipedia.org

 

福音書で、イエス様は天国をからし種とパン種にたとえておられます。読んでみましょう。

マタイによる福音書 13:31-34

また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。
またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

天国が、からし種やパン種のように、小さなものが成長して、あるいは膨らんで大きくなるようなものである、というたとえは、天国を、神が用意した死後の世界である、と理解しようとする限り、わかりにくいですよね。

この箇所について、「トミーの聖書理解」というブログサイトの「マタイ13:31-33 からし種とパン種の譬え」という記事で、ウェスレアン聖書注解の記述が紹介されていますので見てみましょう。

 この個所は大きく二つの解釈が可能であると思います。
それをウェスレアン聖書注解より抜粋要約すると、
 “①第一の解釈は伝統的なもので、教会歴史の初期のころからのものである。
エスはここで、教会の二重の成長を述べておられることになる。
からし種のたとえでは外面的な成長を、
パン種のたとえでは内面的な霊的成長・・・を表している。

 ②第二の解釈は近代になってからのもので、
からしの木の大きな成長は、世界を支配しようとしていた背教の教会の外面的な伸展を表している。
「空の鳥」は、教会の様々な分野において高い職権の地位についた人々である。
パン種は、教会の中に入り込んだ異端の教えを象徴しており、それによって教会は腐敗してしまう・・。”

エス様は、聞いている人々に少しでも理解しやすいように、たとえをもって話をされたのだと思うのですが、外面、内面だとか、背教とか異端だとか、そのような、日常の生活からかけ離れた、特殊な事柄を理解させるために、わざわざこの話をしたとは思えないです。

次に、同志社女子大のサイトの、近藤十郎先生による「からし種とパン種の話」という記事から「たとえ話の意味と真理」という節を見てみましょう。

からし種は、当時知られていたすべての種のうちで最も小さなもののひとつです。その微小なる種が、いったん地に蒔かれるとやがて信じられないほどの大きさに成長して葉を茂らせ、空の鳥が葉の陰に巣をつくるほどになる、という話です。パン種も同様。イースト菌酵母)のことですが、粉を膨らませるのに大量のパン種は必要ありません。ほんの僅かなからし種によって、3サトンの粉を膨らますことができる、というのです。今日の度量でいえば、およそ40リットルにあたります。どのような真理がこのたとえ話のなかに秘められているのでしょうか。物量的な尺度に振り回されて自分を見失いがちな人間の世界を、イエスは時代の人々と共に、またそのような時代にあって厳しく批判している、ということでしょうか。そのような批判は現代に生きる私たちにも同様に、当て嵌まるのではないでしょうか。

「物量的な尺度に振り回されて自分を見失いがちな人間の世界を、イエスは時代の人々と共に、またそのような時代にあって厳しく批判している、ということでしょうか。」と纏めておられるのですが、「天国はこのようなものである」、と言って語られた譬えであったのですから、その意味が批判だったのだ、という結論には、なるほど、と納得できないところがあるように感じます。

なぜこのように、この箇所に関する解釈を探すと変なものばかり出てくるのかと言いますと、天国とは死後の世界のことである、と決めつけて、イエス様の発言をそのような前提に無理やり当てはめようとするからです。

エス様のこのようなたとえを、教会の利益といったような奸計抜きで考えるのであれば、天国とは、人々の努力によって、今生きているこの世界上に展開されるべき理想の状態であることを説明する言葉である、と理解するべきなのです。

ひとりひとりがイエス様のアイデアを理解し、実践する、その、人ひとりの力はからし種のように小さくて、パン種のようにはっきりとは目に見えないほどの微力であるかもしれないが、皆で力をあわせれば、パン生地が大きく膨れるように、からしの枝が大きく張って、やがて鳥が止まるほどの大きさに成長するように、この地上に神の国を建設する、という目的を果たすことができるのだ、と説明しているわけです。

いかがでしょうか、正しく理解するためには注釈書が必要だったでしょうか、読んだそのままの意味ですよね。イエス様は物事を暗号化するためにたとえで語られたのではありません。そのまま、素直に理解すればそれが正しい場合がほとんどだと思います。すなわち、少なくともイエス様の考える天国は死後の世界のことでは無かったのだということです。

なぜ「ウェスレアン聖書注解」のような注解書が必要なのか、それは、聖書はそのまま素直に読んでしまうとキリスト教組織の利益に反してしまうからです。

「聖書を心から信じている人は完全に頭がおかしい」

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www.afpbb.com

 

2009年9月、と、少し古いものですが、AFPの面白い記事を見つけました。少し引用してみましょう。

「成長するにつれ聖書が嫌いになった」、「聖書は風刺する必要がないほど、それ自体が既にクレイジーだ」と語ったクラム氏は、220ページにわたる同作で、創世記の文言をわかりやすくマンガにし、天地創造からノアの方舟(Noah's Ark)、そしてヤコブの冒険まであらゆる紆余曲折を細かに描き出している。

 

 「Robert Crumb's Book of Genesis」という著作についてはWikiでも紹介されています。

en.wikipedia.org

 

もう少し引用しましょう。

1990年代に米国から南仏に移住したクラム氏は、聖書に対する興味は、以前から抱いていた古代文明への情熱と関係があると言う。「聖書は神の言葉ではなく、人間の言葉だ。最初から最後まで作り話だと思っています」

 

僕の観察によれば、「聖書を心から信じている人」は神を信じていません(笑)。

ぶどう酒と革袋のたとえ

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www.psephizo.com

福音書の「ぶどう酒と革袋のたとえ」と呼ばれている箇所を読んでみましょう。

マタイによる福音書 9:14-17

そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。 

まだ醗酵が止んでいない醸したての新酒からは、炭酸ガスが発生しますので、古くなってくたびれた革袋に詰めて栓をしてしまうと、革袋がその膨張に耐えられなくなって破れてしまいます。そのように、イエス様によってもたらされる新しい考え方を受け入れる時代、世の中、考え方は新たに生まれ変わらなくてはならない、という教えである、という解釈がほぼすべてではないかと思うのですが、そうではなくて、ここで最も言いたいことは、古くなったぶどう酒とくたびれた古い革袋です。

とりあえず苦しい顔をして断食さえしていれば、人から評価を受けるのだ、と理解している人、またそのようにしか人を評価することができない人、不要な議論をふっかけてマウントをとることに血道を上げる人。そのような考え方を、雑菌に侵されて酸っぱくなり、捨てるしかなくなった古いぶどう酒に、そのような考え方しかできない人間を、古びて役に立たなくなってしまった革袋にたとえているのです。

救いようのないバカ人間は実在します。どうしようもないからそんなものは捨てておけ、と言っているわけです。

劇団四季出身の牧師は年収800万(笑)

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note.com

 

また悪いクセで面白いブログを見つけてしまいました。

女性牧師の話題のようですが、牧師が女性ということは、非原理主義というか、どちらかというとユルくて自由な風潮の教会なのでしょう。前任の牧師は「悪くない」牧師だったのだけれど、今の牧師は劇団四季出身の女性で歌は上手なのだけど、うつ病の罹患歴があり、余裕のない態度で好きにはなれない、ということです。偶然スーパーマーケットで出会ってもお互い知らん顔をするような間柄なのだそうです。

ある主日礼拝で、「奉献の祈り」の奉仕を担当することになったのだそうで、少し引用してみましょう。

司会者・オルガン奏者・奉献の祈り担当者は礼拝前に牧師からお祈りを捧げてもらうのがルールです。

礼拝は午前10時半からスタートなので、10時15分くらいにお祈りをします。

私は10時10分くらいに教会に着き、おはようございますと挨拶すると牧師室から牧師、司会者、オルガン奏者が出てきました。

司会者のLさんが「あ、お祈りもう終わったから」と一言。 

そりゃあそうでしょう。「10時15分くらい」に始まる祈祷会に、「10時10分くらい」に教会に着いてるようじゃだめですよね。当たり前だと思いますよ。

で、色々腹が立つことがあったので、奉献の祈りの奉仕で、

緊急事態宣言が解除され礼拝にきたけど、兄弟姉妹は私を邪魔者のような目で見て教会はいばらの森のようでした。

このいばらの森が開かれることを願います。

 と発言したのだそうです。

正直に話すと8割は嫌味と腹いせですw 

とも書いておられます。 

その後、牧師が行う、その月の誕生月信徒のためのお祈りで、自分への名指しのお祈りの内容がぞんざいだったと不平をおっしゃって、それから、他の会員の奉献のお祈りの内容にはケチを付けたのだそうですが、僕にはなぜこの記事を書いて世間に晒そうと思ったのかがちょっと理解できませんでした。まあ、おもろいな、とは思ったのですけど(笑)。

 

教会は人間関係を求める場ではない、神様と交わる場。

とかいておられるのですが、牧師や他の会員とはもちろんですが、神様とも交わってはいませんよね。

 

しばらく今の教会とは距離置いて、落ち着いたら他の教会を見つけようかと思います。

ぶっちゃけ、カトリックには興味あるし。

と書いておられますが、どこへ行ってもおなじことの繰り返しだと思いますよ。キリスト教の教会というのは、そのような、「嫌な思い」をしてストレスを溜めることを目的にしている人が集まっているところなんですよ。あなたはまともな人だから、そういう変な人達と交流しようとすると摩擦が生じるのだし、いもしない神に語りかける、なんて愚行はできないわけです。どうか安心してください。

それから、牧師謝儀ですが、家賃、光熱費、携帯代を別に払っているなら、贅沢に考えても月10万、年120万円で十分だと思います。

経済観念が狂っている組織とは関わり合いにならないほうがいいと思いますよ。嫌な思いをしてからでは遅いと思います。

それでは、どうぞお大事に(笑)。

 

十人の乙女のたとえ

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mementmori-art.com

マタイ福音書に、「十人の乙女」と言われるたとえ話があります。読んで見ましょう。

マタイによる福音書 25:1-13

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 

「何事にも準備を怠るな」ということの教訓なんだろうな、ということはなんとなくわかるのですが、乙女が花婿を迎える、とはどういうことなのか、たとえそのものの意味がよくわからないですよね。子供の頃、この箇所が話に出るたびに、花嫁が十人いるのに、花婿が一人だけしかいないように読めるのは一体どういうことなのだろうか、と悩んだことを思い出します。

どうやら、そうではなくて、当時のユダヤの結婚式は、まず花婿が花嫁の実家に花嫁を迎えに行く、ということから始まったのだそうで、しかも、結婚式は日が落ちてから始めるのが普通だったのだそうです。

十人の乙女とは、花嫁を迎えに来た花婿を最初に接待する、という役割を負った、花嫁の実家の使用人だったのです。

 

賛美歌174番は、このたとえ話を元にした賛美歌です。

 【讃美歌】174番「起きよ、夜は明けぬ」

 

バッハはこの賛美歌からカンタータを作曲しました。

Bach - Cantata Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 140 - Van Veldhoven | Netherlands Bach Society

 

このカンタータの第4曲 からオルガン曲も作られています。

Bach - Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 645 - Zerer | Netherlands Bach Society

 

ただぼんやりと待っているだけでは、理想の世界(神の国)は実現されない。その到来を待ち望むのではなくて、自分たちの努力で建設しなくてはならない、そのことを、このたとえ話は教えていると思います。では、何をすればよいのか、それは簡単な話です。同じ福音書の他の箇所にいくらでも答えがあります。すなわち、財産を捨てる、という、ただそれだけのことです。

賢明な五人の乙女とは、すべての財産と持ち物を捨て去ったもの、愚かな五人の乙女は捨てることができなかったもの、であったわけです。

民族宗教との習合

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"Salita" della Madonna dei Sette Veli in Cattedrale, Ferragosto 2019

 

エス様の母であるマリヤ様の立体像や画像を聖堂に展示して祈りを捧げるなど、崇拝を行うのは、正教会カトリック教会、聖公会ルター派などの教会です。彼らは「崇拝」ではなくて「崇敬」だと主張するようですが、キリスト教的に解釈するのであれば、人の行う祈念を間接的に理解する能力があるものは神以外にはあり得ないのですから、マリヤ様に対してお願いごとをするなど、祈念を捧げるといういことは、すなわち崇拝を行っている、と理解して間違いではないと思います。

 次の動画を御覧ください。

2019年8月15日、聖母被昇天の祝日の礼拝の様子だそうです。

 

そもそも、聖母を礼拝すること自体、すでに純粋な、福音書的な実践であるとは言い難いと言えるのではないでしょうか。「アテナ神信仰」や「ガイア信仰」を捨てきれなかった初期キリスト教徒の不満に対する苦肉の策として、聖母信仰が、それにとって変わるもの、あるいは同等の価値があるものだと言って導入されたものであったわけです。

信仰なんてそんなものです。まずは自分たちの便利でなければ意味を成しません。納得できて、満足感を得られるものでなければならないのです。

モレク神などの偶像崇拝を批判するイラストで、機械仕掛けで動いたり煙を吐いたりする神像を礼拝する様子を描いたものがありますが、上記動画のマリヤ様はまさにそれですよね。

プロテスタントだって似たようなものだと思いますよ。聖書は神が人を操って、自動筆記で著した、なんてのは天理教の「お筆先」とおなじ考えかたでしょう。