キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

民族宗教との習合

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"Salita" della Madonna dei Sette Veli in Cattedrale, Ferragosto 2019

 

エス様の母であるマリヤ様の立体像や画像を聖堂に展示して祈りを捧げるなど、崇拝を行うのは、正教会カトリック教会、聖公会ルター派などの教会です。彼らは「崇拝」ではなくて「崇敬」だと主張するようですが、キリスト教的に解釈するのであれば、人の行う祈念を間接的に理解する能力があるものは神以外にはあり得ないのですから、マリヤ様に対してお願いごとをするなど、祈念を捧げるといういことは、すなわち崇拝を行っている、と理解して間違いではないと思います。

 次の動画を御覧ください。

2019年8月15日、聖母被昇天の祝日の礼拝の様子だそうです。

 

そもそも、聖母を礼拝すること自体、すでに純粋な、福音書的な実践であるとは言い難いと言えるのではないでしょうか。「アテナ神信仰」や「ガイア信仰」を捨てきれなかった初期キリスト教徒の不満に対する苦肉の策として、聖母信仰が、それにとって変わるもの、あるいは同等の価値があるものだと言って導入されたものであったわけです。

信仰なんてそんなものです。まずは自分たちの便利でなければ意味を成しません。納得できて、満足感を得られるものでなければならないのです。

モレク神などの偶像崇拝を批判するイラストで、機械仕掛けで動いたり煙を吐いたりする神像を礼拝する様子を描いたものがありますが、上記動画のマリヤ様はまさにそれですよね。

プロテスタントだって似たようなものだと思いますよ。聖書は神が人を操って、自動筆記で著した、なんてのは天理教の「お筆先」とおなじ考えかたでしょう。

ミサと聖体礼儀

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www.gerdludwig.com

カトリック教会の聖餐式はミサ、正教会聖餐式は聖体礼儀と言います。これは皆さんよくご存知かと思います。プロテスタント信徒であっても、一度はそれらの礼拝式に参加した、あるいは見学した、という方がおられるかもしれませんね。

下記の二つのYoutube動画を御覧ください。上はカトリックのミサ、下はロシア正教会の聖体礼儀を記録したものですが、いずれも司教、主教が司式する、特に大掛かりで荘厳な儀式の模様です。

 

Solemn Pontifical Mass

 

youtu.be

Divine Liturgy in St. Niholas Russian Orthodox

 

いかがでしょうか。僕には、カトリックのミサは、正教会の聖体礼儀に比べて、なにか、空々しいというか、他人事というか、心がこもっていなくて、こんなことをするのは不本意だが、仕事だから仕方なくマニュアル通りに行っているだけだ、というように見えてしまいます。

一方、正教会の聖体礼儀を見ますと、この人達は、実に神を見ているんだな、と思わせられます。精神性が深いのでしょう。また、今行っていることに対する具体的な意味、必要性を自覚できているように感じます。

常にローマ帝国とともにあった正教会は、現在でも、存在の大きな理由として、属する国家の指導者と国民の平安を神に祈念するため、があるでしょう。正教会の聖歌には、次のような祈祷文があることを確認できます。

(省略)

輔:我が国の天皇および国を司る者の為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。
輔:この都邑(まち)と凡その都邑と地方、及び信を以て此の中に居る者の為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。
輔:気候順和、五穀豊穣、天下泰平の為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。
輔:航海する者、旅行する者、病を患(うれ)うる者、艱難に遭う者、虜となりし者、及び彼等の救いの為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。

(省略)

ただひたすらに教会そのものが発展することだけを目的にして巨大化した西方の教会とは一味違うのだ、というところを感じとることができる、と言えるでしょう。

国家や帝王の安寧を願うことはキリスト教として本質的といえるのかどうか、という問題はあるのかもしれませんが、魔女裁判を行って、自らの信徒輩を侮辱したり殺したりするような教会よりは、少しマシと言えるのかもしれません。

神の兄弟

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isjesusalive.com

聖書には、イエス様に兄弟がいたことを伺わせる記述があります。Wikiから引用してみましょう。

ja.wikipedia.org

マタイ福音書』及び『マルコ福音書』から、イエスにはヤコブ、ヨセフ、シモン(シメオン)、ユダ及び妹2人がいたことが分かる。彼等の位置づけについては、キリスト教会間では意見が分かれる。プロテスタント教会では文字通りに、ヨセフマリアとの間の子供と見做しているが、マリアの処女性を認める正教会及びカトリック教会はこれを認めず、独自の解釈を出している。 

このことについて、プロテスタント教会は、マリヤとヨセフの間にうまれたイエス様の異父兄弟である、と理解しているのですが、

正教会は、Wikiによれば、

正教会はヨセフが先妻との間にもうけた子供たちであると見做している。新約聖書外典である『ヤコブ原福音書』にその要素が見出される(但し、正教会は自らの解釈を伝承に由来するものであるとし、外典を根拠としている訳ではない)。 

 と考えていて、カトリックは、

カトリック教会では、古代ユダヤ社会では“兄弟”と言う言葉は同時に“従兄弟”も意味すると解釈し、更にエウセビオスが『教会史』に引用する、ヤコブ殉教後にヨセフの兄弟クロパ英語版の息子であるシメオンがその後を継いだとするヘゲシップスの記事に注目し、イエスの叔父クロパの息子と見做している。

と考えている、とあるのですが、ヨセフの先妻の生んだ子である、とするのであれば、マルコによる福音書 6:3 に登場する四人の兄弟と二人(以上)の姉妹は、全て年上の兄、姉ばかりであったことになるはずです。見てみましょう。

マルコによる福音書 6:3

この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか

このとき、イエス様が三十歳ぐらいだとすると、兄や姉達はそれ以上でしょうから、立派なオトナもいいところです。そうだとすると、なぜ兄たちは揃って実家で生活を続けていたのか、姉達も嫁がずに実家にいたのでしょうか。また、東方の博士が帰ったあと、天使がヨセフにエジプトに逃げるように指示しましたが、上の兄、姉達については言及していません。

マタイによる福音書 2:13

彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」 

これも不思議、というか、ちょっと話が通らないでしょう。

また、従兄弟姉妹という意味だった、という考え方については、コロサイ人への手紙で、

コロサイ人への手紙 4:10

わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。

Colossians KJV 4:10

Aristarchus my fellowprisoner saluteth you, and Marcus, sister's son to Barnabas,

とあるように、従兄弟であればそう明らかに表現されているわけですから、これも疑わしい話です。

また、マリアとヨゼフの間にできたイエス様の兄弟だとしても、

ja.wikipedia.org

によれば、

4世紀の歴史家エピファニウスによれば、イエス昇天後にエルサレムで活動した弟子たちの教団であるエルサレム教会の初代教会長を、紀元38年から、石打ちの刑で殺された紀元62年まで、24年間つとめたとされる。

とあって、イエス様の兄弟の一人であるヤコブという人物が、初期教団の重鎮であった、ということになっているのですから、イエス様の誕生日や処刑された日、復活した日、昇天した日、それぞれの具体的な日付年月日が一切伝えられていない、という現実は全く腑に落ちないことだと思います。

実際、聖書に記されていることの殆どは、理性的に考えて歴史上の事実ではないでしょう。しかし、キリスト教という宗教は現実に存在しますし、西洋史のほとんどと、世界史においても重要な局面において、キリスト教は小さくない影響を及ぼしてきました。

僕としましては、一体どこからが現実のキリスト教なのか、実在した人物はキリスト教史上何年の誰からなのか、ということに興味があります。そういうことが明らかになれば、今までうまくいかなかった色々なことが、うまく行きだすのではないか、というような気がするのですけど、それは楽観というヤツでしょうか(笑)。

聖書が同性愛を禁じる理由

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baptistnews.com

聖書には、同性愛を禁じているように読める箇所がいくつかあります。見てみましょう。

ローマ人への手紙 1:26-27

それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

コリント人への手紙 6:9-10

それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 

 旧約にもあります

レビ記 18:22

あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。

おわかりいただけるでしょうか。これらの引用はどれも、同性を愛することではなくて、同性愛行為を行うことを禁じています。コリント前書が特にわかりやすくて、してはいけないことは、男娼となること、男色をすること、とあります。

この理由は、記述した人、聖書の著者ですが、その人が異性愛者だったからでしょう。人間は誰であっても、男でも女でも、少しは同性に対する性的興味があります。純粋に異性だけ、同性だけが性的対象である、という人はいないと思います。人間は皆バイセクシャルなのです。その中で、性的、かつ人間的に愛することができる対象はどちらなのか、ということが、異性愛者であるか、同性愛者であるかの区別になるのですが、異性愛者の数が同性愛者の数を上回っていることはご承知の通りで、同性愛者は圧倒的マイノリティであるわけです。

ですから、多数派である異性愛者の男性も、男性に性的魅力を感じる、ということを理解することができるのですが、精神的に愛する、ということまでは考えが及びません。異性愛者も同性に性的魅力を感じる場合があるけれども、それを実行に移すことはあまりないでしょう。それは「良くない火遊びだから」と理解しているからです。

つまり、異性愛者にとって同性愛者とは、摘めば枯れてしまう悪い芽を、わざわざ育てて悪ぶっている人、というようにしか理解できないのです。自然に従えば異性を求めるのだが、故意に倫理に反して同性との情欲に溺れることを欲しているのだ、と理解するのですから、それはダメ。犯罪だよ、となってしまうことは無理もないことです。中途半端に、同性に性的魅力を感じる場合もある、ということを知っているが故に、かえってそのような考えになってしまうわけです。聖書が著された時代は、同性愛に関する、それ以上の理解を促す、あるいは理解を行うための社会的インフラが存在しなかったでしょう。理解が深まってきたといえるのは、ほんの、この十年ほどのことなのではないでしょうか。

実際には、LGBTとは、病気でも、趣味でも、嗜好でもなく、その人が生まれ持った自然の状態である、ということです。そのような現実に、きちんと向き合うことができず、建前でしか理解することができないのであれば、キリスト教はもう不必要、という時代に成長してきている、ということなのではないでしょうか。同性愛は聖書で禁止されているから犯罪だ、というのなら、もう聖書ごと捨てましょう、ということです。聖書の記述に振り回されて、魔女裁判で6万人が処刑され、地動説が否定され、ハンセン氏病患者が清くないと蔑まれてきたのではなかたのでしょうか。もうこれ以上同じ過ちを繰り返すべきではありません。

ただ、一つ、ゲイの皆さんに申し上げておきたいことがあります。異性愛であれ、同性愛であれ、誰彼かまわず不特定多数の相手とセックスを楽しむことは良くないことだと思います。全員がそうだということでもないのでしょうが、SNSなどでつたわってくる内容によれば、そういう傾向が強いようにも感じます。

大審問官

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epicworldhistory.blogspot.com

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」という作品に「大審問官」というサブタイトルのある一節があります。

主人公アレクセイの兄、イワンが、自作の劇詩をアレクセイに読み聞かせる場面です。大変に長い劇詩なのですが、冒頭と最後の部分を引用してみましょう。

それにしても、なぜおまえはわしらの邪魔をしに来たのだ? おまえはわしらの邪魔をしに来たのだ。それはおまえにもわかっておるはずだ。しかし、おまえが明日どんなことが起こるか知っておるかな? わしはおまえが何者かは知らぬ、また知りたくもない。おまえは本当のキリストか、それとも贋物(にせもの)か、そんなことはどうでもよい、とにかく、明日はおまえを裁判して、邪教徒の極悪人として火烙(ひあぶ)りにしてしまうのだ。すると今日おまえの足を接吻した民衆が、明日は、わしがちょっと合い図をしさえすれば、おまえを焼く火の中へ、われ勝ちに炭を掻(か)きこむことだろう、おまえはそれを知っておるのか? おそらく知っていられるであろうな』と彼は片時も囚人(めしうど)から眼を離そうとしないで、考えこむような風に、こう言い足したのだ

<中略>

くり返して言うが、明日はおまえもその従順な羊の群れを見るだろう。彼らは、わしがちょっと手で合い図をすれば、われがちにおまえを焼く炬火へ炭を掻(か)きこむことだろうよ。それはつまり、おまえがわれわれの邪魔をしに来たからだ。実際、もし誰か、最もわれわれの炬火に焼かれるにふさわしい者があるとすれば、それはまさしくおまえだ。明日はおまえを焼き殺してくれるぞ。Dixi(これでおしまいだ)

カトリック教会の異端審問官」なる人物をして語らしめてはいるものの、これはお察しの通り、すべてのキリスト教徒の内心の暴露に他なりません。

福音書には、ついて来たければ、今すぐすべての持ち物を捨てなさい、と書いてあることも、教えを述べ伝えるものは無一文で着替えも持たず、物乞いをしながら行きなさい、と書いてあることもよく知ってはいるものの、実際には誰一人そうしようとはしません。そんなことはしたくないからです。

信仰とは、カトリックプロテスタントが、あるいは旧式ミサ派と新式ミサ派が、または創造論派と進化論派が、社会派と教会派が、中絶反対派と賛成派が対立して勝敗を極めることである、と思い込んでいる者たちにとって、突然キリストが目の前に現れて、

「私が言ったことはそんなことでは無いよ。そんなことはどうでもいいんだよ」

と言われてしまうことは都合の悪いことです。だから、そう口走ろうとするキリストが現れるたびに、彼を捉えては、この大審問官のように、燃え盛る炭火に投げ込んで焼き殺しているのです。

ガダラ人と悪霊と豚

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htrinityportland.org

マタイによる福音書の八章に、ガリラヤ湖の向こう(東)側、ガダラ人の地におけるエピソードが記されています。過去記事「ガダラ人の地」では、このエピソードについて、後にイエス様が捕らえられる原因の一つとなった、イエス様自身の短絡的な動機による無分別な行動だったのではないか、と書いたのですが、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

それでは、この箇所の福音メッセージとしての意味としてはどのようなものがあるのでしょうか。再度記事を読んでみましょう。三つの共観福音書すべてに同じエピソードが記されていますが、マタイから引用します。

マタイによる福音書 8:28-34

それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。

 「おびただしい豚の群れが飼ってあった」という説明から、この「ガダラ人の地」は異教徒の居住区域であったことがわかります。また、この少し前、マタイ 8:22 のイエス様の発言

エスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。

から、この悪霊につかれたふたりの者とは、神がかりになって、神や死者の霊を装い、礼金をだまし取っていた詐欺師だったのだろうと想像することができます。おそらくそのようなことはこれらの地方の宗教的慣習であって、二人の男は宗教祭司だったのでしょう。

豚が水の中で死んでしまった、という記述からは、イエス様の指摘によって、ふたりの神がかりの嘘が顕になり、その地方の民衆が長年にわたってそれらの嘘に振り回され続けていたのだ、という事実が明らかになった、という意味を読み取ることができるでしょう。

そして、町中の人々がイエスに会って、この地方から出ていってくれと頼んだ、ということの理由は、我々は、彼らの宗教的行為が真実では無いことも、欺瞞に満ちていることも承知しているが、それでいいと思っている。たしかに、あなたの言っていることは正しいと思うし、そのようにすべきだろうとも理解できるのだが、少なくとも、我々は変化を求めていない。大きな問題がないのであれば、現状を維持できればそれで十分だと考えている。今はこの地方にあなたは必要ない。ということだったのではないでしょうか。

つまり、この「イエス様を拒否する町中のもの」は、現代のキリスト教徒の、「墓場から出てきた乱暴者の詐欺師」は神父や牧師の予型として福音書に記されているのだ、ということなのです。

 

バイデン大統領に「破門状」

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jbpress.ismedia.jp

「バイデン大統領に「破門状」突きつけた全米カトリック教団」という記事がありました。少し見てみましょう。

 米国はキリスト教プロテスタントの国と思われがちだが、全人口の22%(7041万人)はカトリック教徒が占めている。

 その10人に1人は共和党員。キリスト教プロテスタント原理主義者(エバンジェリカルズ)とともに2020年の大統領選挙ではドナルド・トランプ氏を当選させた原動力だった。

 そのカトリック教団全米司教会議が6月16日、カトリック教徒としては史上2番目のジョー・バイデン大統領に事実上の「破門状」を突き付けた。

カトリック教徒の初代大統領はジョン・F・ケネディ

 

 同会議はカトリック教徒にとっては最重要の「聖体の秘跡」(Communion)を施さない、との決議草案を賛成多数で採択したのだ。

 正式の決定は11月に行われる会議で決まるが、「今回の決定が覆される可能性は小さい」(カトリック教会関係者)。

 理由はバイデン氏が、カトリック教徒しては越えてはならない人工妊娠中絶問題に寛大なスタンスをとり続けてきたことだ。

 これは「戒律に反する」もので、日曜礼拝をするのはいいが、「聖体の秘跡」には参加させないというのである。

日本の宗教団体が、これほど政治問題に介入したら大変なことになると思います。仮に、カトリック信徒である麻生さんが、教会の方針に反するような発言をしたからといって、その理由で、日本のカトリック教会が麻生さんを破門にする、というようなことはおそらく無いのではないかと思います。アメリカという国は、政教分離といいながら宗教に政治が振り回されているようで、ちょっと変な国ですよね。

死刑の問題についてもそうなのですが、この中絶の問題も、それを行う必要がある、という認識が社会には存在する、という現実をどのようにすればいいのか、という視点が失われているのではないかと思います。

実の父親に、あるいは薬物中毒者によって強姦されて妊娠してしまったような場合、そのような子であっても、生んで育てよ、と命じるのは社会として正しいのでしょうか、しかしこの場合はそうしろと言っていることになります。

しかし、何が何でも絶対に中絶してはならない、というのであれば、そのような子を引き取って養育するような行政システムについて考えるべきなのではないでしょうか。

そもそも、中絶を禁止する宗教的理由とは何なのでしょうか。胎児が地獄に堕ちるからでしょうか、神が実在するのであれば、生まれずして摘み取られてしまった胎児を憐れまないはずはないでしょう。もし生まれたなら受けたであろう数々の苦難を免れて、神の懐に抱かれて楽園に安らいでいるはずだと言えるでしょう。

では、医師か妊婦が殺人犯になってしまうことを防ぐためにでしょうか。ちょっとそうとは思えませんよね。結局は、教会の意向に逆らうような真似をするな、と言っているだけのことなのでしょう。しかし、カトリック信徒にとって聖体を拝領することは、生きていくために必要不可欠なことであるはずです。ですので、それを禁ずるということは、その人が死んでも別に構わない、と判断した、ということになると思うのですが、その点はどうなのでしょうかね。

もう少し引用してみましょう。

 カトリック教会と言えば、司祭たちによる少年に対する性的暴行が絶えない。

 礼拝をはじめ教会の儀式には神父をアシストをする少年たちも欠かせない。そこで神父の地位を利用したセクハラ行為が横行している。

 米主要メディアのある宗教担当記者はこうコメントする。

カトリック教会の最高機関が自分たちのことは棚に上げて、と世俗的には考えられるのだが、人工妊娠中絶問題はカトリックの信仰ドクトリンだ」

信仰ドクトリンというのであれば、強姦は十戒に反する行為です。その結果生じる生命を、教会はどのように宗教的な意味づけをするつもりなのでしょうか。洗礼台帳の父親の欄には何と記入させるのでしょうか。