キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

白い墓が意味する事柄

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Whitewashed Tomb Christians!martinmutuku.wordpress.com

福音書で、イエス様はしばしばパリサイ人を批判しています。例えば、マタイの福音書 23:16 には、

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。

とあるように、非常に痛烈です。

以下に続く箇所にも。

はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。

あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。

と、痛烈な批判がどんどん続いています。

これらの箇所を、「イエス様の時代には、様々な宗教派閥があって、それらのなかでパリサイ派と呼ばれる派閥は云々」、と説教される場合がほとんどだろうと思うのですが、このブログでいつもご説明申し上げているように、福音書は事実を叙述しているだけではなくて、例に託して本質を映し出そうとしているわけで、この箇所も、ただ情景を描写しているだけではありません。

パリサイ派とか律法学者というような存在は、保守的な立場であり、財を蓄えることを専らにし、本質をなおざりにするような者を象徴していると考えるべきです。

金が儲かる、ということに気づいた時点で本質は忘れ去られてしまいます。福音書に従いたいのであれば、一切金銭に関わらずに実行しなくてはならなかったのです。教会が献金を要求し、金銀財宝で溢れているのであれば、それはすなわち「白く塗った墓」、ただの偽善者に過ぎないのだ、というところが現実だということです。

おわかりでしょうか。福音書でイエス様がそんなことをしてはいけないよ、と釘を刺されたことを、丁寧に一つづつ行なって見せているのが「キリスト教」という文化世界なのです。世界で最も滑稽で見苦しい文化だと言えはしないでしょうか。

福音書が標榜する精神はレジスタンスに他なりません。イスラエルを侵食するローマ帝国人間性に干渉し蝕む「安定」の抽象表現なのであって、ローマ帝国(安定)に抗うことに託して本来の人間性を回復せよ、と提案することが福音書の主題だったのです。

ローマに阿ってイスラエルの本質から遠ざかり、堕落して自らの精神を危機に晒していることに気づかずにいるパリサイ派を批判する、これこそが差し伸べられた「救いの手」であることに気づくべきだということです。

その福音書を読んだ結果、什一献金を要求したり支払ったり、何が救いかもわからずに救われた救われたと喜んだり、他人を軽蔑したり、批判したり、全くどうかしてますよね(笑)。

地獄の正体

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medium.com

聖書では「地獄」を「ゲヘナ」と表現しています。ゲヘナとは何のことでしょうか。上記のサイトから引用してみましょう。

Alas, Hell is real. Yes, that’s right. Or at least, it’s based off a real place — an ancient landfill to be exact. Although there is no mention of a “hell” in the Bible, it is based on an actual place. In Jerusalem, in the Valley of Hinnom, there is a large trash dump referred to in the Book of Matthew as “Gehenna”.

「地獄とは、この地上に実在する具体的な場所、エルサレムのヒンノムの谷のことであって、マタイの福音書では「ゲヘナ」と呼ばれている、そこは大きなゴミ捨て場であった」と述べられています。

ゲヘナ」とは、ゲー(谷)ベンヒンノム、ベンヒンノムの谷、という意味です。

聖書を引用してみましょう。

列王記下 23:10

王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した。

歴代志下 28:3-4

ベンヒンノムの谷で香をたき、その子らを火に焼いて供え物とするなど、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行いにならい、また高き所の上、丘の上、すべての青木の下で犠牲をささげ、香をたいた。

歴代志下 33:6

彼はまたベンヒンノムの谷でその子供を火に焼いて供え物とし、占いをし、魔法をつかい、まじないを行い、口寄せと、占い師を任用するなど、主の前に多くの悪を行って、その怒りをひき起した。 

エレミヤ書 19:6

主は言われる、それゆえ、見よ、この所をトペテまたはベンヒンノムの谷と呼ばないで、虐殺の谷と呼ぶ日がくる。

エレミヤ書 32:35

またベンヒンノムの谷にバアルの高き所を築いて、むすこ娘をモレクにささげた。わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく、また彼らがこの憎むべきことを行って、ユダに罪を犯させようとは考えもしなかった。

冒頭で引用したサイトに「 Although there is no mention of a “hell” in the Bible, it is based on an actual place.」(聖書には地獄に関する言及は一切無く、実在する土地における出来事が記されている)と説明されている通り、「ゲヘナ」とは実在する土地の名前であるわけです。

ヒンノムの谷は、小児を焼いて異教神に捧げる、といったような不道徳なことが行われた場所であったこともあって、土地の価値が低下し、ゴミや、通常に埋葬することができない罪人の死体などを焼却処理するための場所にもなっていたようです。

常に炎が燻っていて、人や獣の遺体、遺骨、ウジや汚物が散乱し、悪臭が絶えない、凄惨な場所であったであろうと推察出来ます。旧約聖書で「地獄」と言うのは、死後の世界ではなく、エルサレムの町外れにあるゴミ捨て場のことであった。これが真実です。

では、新約聖書ではどうなのでしょうか。

ja.wikipedia.org

にある「日本語訳聖書における訳し分け対照表」

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を見てみますと、「地獄」の元となった言葉が、「ゲヘナ」あるいは「ハデス」であることがわかりますが、ゲヘナとは先に説明したとおり、実在の地名であることに変わりなく、ハデスとは、

ja.wikipedia.org

によれば、

ギリシア神話の冥界の神ハーデースからとった言葉であるとされている。旧約聖書のシェオルと共通の概念を持っている。

とあって、ヘレニズム、つまりギリシャ神話に影響されて移植された言葉だということを知ることができます。

「シェオル」については、

en.wikipedia.org

にあるように、アッカド神話における「死者の住まいを取り仕切る精霊」のようなものをヘブライ神話に取り入れた言葉であっただろうと理解するのが妥当でしょう。バビロン捕囚によって持ち帰られた概念だろうということです。

このように、旧約聖書を見る限りイスラエルには「地獄」という概念は、少なくとも死後の世界という意味では存在しなかったのであって、バビロン捕囚の名残であるアッカド神話の神の名前を利用して、また、新約聖書では、ギリシャ文化に親しんで育った人のための比喩としてギリシャ神話の神の名前を利用して、「劣悪な状態」を表現しているに過ぎない、ということになります。

ゲヘナ(ベンヒンノムの谷のゴミ捨て場)のような、あのおぞましい情景、あの吐き気をもよおす悪臭、人が、あのような心をもつとき、それがまさに地獄なんだよ、と聖書は教えているのだと思います。

死後に与えられる罰だと教えてしまっては、聖書が持つ価値のほとんどを捨ててしまっていることになるでしょう。あまつさえ逆手にとって信者から献金をむしり取る道具にするなどはもっての他、言語道断というべきです。

誤訳から生じた処女懐胎

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loohcs.jp

新約聖書とやらを読んでみようか、と聖書を開いてみますと、巻頭に「マタイの福音書」がありますが、読み始めようとすると、いきなり人名らしきものがずらずら並んでいてうんざりします。イエス様がダビデの子(子孫)であることを示すために、その系図が示されているわけです。

でも、イエス様は「神の子」なんだから、系図はどうでもいいんじゃないのだろうか、と思われたことはないでしょうか。実際、教会は、イエス様は聖霊によって処女である母マリアから生まれた、と教えているのですから、福音書にかかれている系図は、イエス様の系図ではなくて、養父ヨセフの系図でしかない、ということになりますよね。

エス様が処女から生まれた、という話は、イザヤ書の次の箇所を根拠としています。

イザヤ書 7:14

それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

中央大学の哲学の土橋茂樹先生が運営しておられるサイト

c-faculty.chuo-u.ac.jp

というページがありますので引用してみましょう。

 では、どうしてマタイは、そしてルカは、このように矛盾をきたしかねない二重の表現(つまり、<イエスダビデの子孫であるが故にキリストである>というダビデ-イエス系図という考えと、<イエスはその生まれからして「神の子」なのだ>という処女懐胎の考えの二重表現)を福音書に持ち込んだのでしょうか。その理由解明のためには、先にも見たマタイ1章23節の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。」というイザヤ7章14節からの引用に遡らねばなりません。

 イザヤがその個所で用いたヘブライ語はalmah「娘」でした。しかし、その後、エジプトのプトレマイオス王の許にいた70人の長老たちによる旧約聖書ギリシア語訳(いわゆる70人訳聖書<セプトゥアギンタ>)が、この語をparthenos「処女」と訳したのです。それが故意の歪曲なのか、単なる誤訳なのかはわかりませんが、「村の娘が身ごもって男の子を産む」というごく普通の予言(預言)が「処女が身ごもって産む」という超自然的な預言へと変貌したのですから、この翻訳の影響は甚大です。マタイもまた、70人訳聖書のこの翻訳の影響を大きく被った一人なのだと思います。

いかがでしょうか。故意であれ、単純な誤訳であっても、間違いは間違いです。キリスト教の教義は、間違いに乗り上げて座礁したままの状態でずっと知らん顔をし続けているわけです。

国会議員がこんなことをすれば、議員辞職を余儀なくするに至るまで叩き続けられてしまいますが、宗教は便利なもので、「それもまた神の御旨の現れの一つ」などと言って上手にごまかすことができてしまいます。

「うちの教会はカトリックでも正教でもないからそんな間違いとは無関係」と思っているプロテスタントの人がいるかもしれませんが、そんなことはありませんよ。プロテスタントも同じことです。

最後に日本キリスト教団の公式サイトから「信仰告白」を引用しておきましょう。

uccj.org

我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。

 

売春婦になった元修道女を保護するバチカンの施設

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www.afpbb.com

上記リンクは「売春婦になった例も…元修道女のシェルターがバチカンに存在 枢機卿明かす」というAFPの記事です。引用してみましょう。

【2月1日 AFP】カトリック教会から「見捨てられた」後、売春に従事するなどして生き延びた元修道女たちが、バチカンにある施設で1年以上にわたり保護されていることが分かった。ブラジルのジョアン・ブラス・デ・アビス(Joao Braz de Aviz)枢機卿が、バチカンの月刊誌「女性と教会と世界(Women, Church, World)」2月号に掲載されたインタビューで明らかにした。

 先月23日に公開された新刊見本誌で同枢機卿は、バチカン市内の非公開の場所に避難施設が存在することを認めた。


 同枢機卿は、教会における女性の役割について幅広く取り上げたインタビューで、この施設の存在が、女子修道院から追い出され、行く当てを失ってしまうといった教会内部での虐待を矯正しようとするフランシスコ教皇(Pope Francis)の願いを明確に示すものと指摘。

「ときに修道女たちは、完全に見捨てられる」「だが変化は起きており、最も顕著な例はまさに、われわれまたは修道院長から追い出されて路頭に迷った修道女たち、とりわけ外国人の修道女たちを迎え入れる施設を、教皇がローマに設置すると決断を下したことだ」と述べた。

 この施設を訪問した同枢機卿は、そこで「傷ついた世界」を見た一方、「希望の世界」も目にしたと明かした。

 同枢機卿は、「この人々は修道女として修道院に入り、こうした状況に陥ってしまう。中には生計を立てるために売春を始めた事例すらあった」「元修道女が、だ!」と説明した。

 あるケースでは女子修道院長が、修道院から去りたい修道女から書類を取り上げる一方、修道女が出て行くよう命じられるケースもあるという。

  イタリア紙メッサジェロ(Il Messaggero)は先月24日、施設を運営する修道女の一団の話として、1年半前に設立された同施設に、10人未満の元修道女らが現在のところ迎え入れられていると報じた。

 女性たちは状況を整え、仕事を見つけるまでに必要とする間は施設に滞在することができるという。(c)AFP

過去のことではなくて、今、現在のお話だということのようですね。しかし、そのような女性を、広い世の中からどのようにして認識選別して一箇所に集めることができたのか、ちょっと不思議な気もします。

しかし、自ら望んで修道女になったものの、その厳しさに耐えられず、断念して離脱した半端者が、結果、売春婦になろうと追い剥ぎを働こうと勝手だし、バチカンが尻拭いをせねばならないようなことではないでしょう。

安上がりでマスコミ受けの良いパフォーマンスにしか見えませんね。本当にその問題にメスを入れたいと思うなら、やめた修道女の面倒を見る前に、まず、やめさせる動機となった修道院長を矯正するべきです。

それから、そんなどうでもいいようなことよりも、神父や司教たちが少年少女たちに犯した性犯罪の後始末をきちんと行うことが最優先課題だと思いますよ。

 

能「鶴亀」と福音書

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www.the-noh.com

以前、有名な能の先生のご自宅へ伺って、謡(うたい)のお稽古を見学させていただく機会がありました。大学生の男子でしたが、まだ習い始めてまもなくだということで、「鶴亀」という曲のお稽古をしておられました。

「それせいようのはるになれば」

と、さほど抑揚のないシテのセリフから入るのですが、今まで「歌う」という習慣が無かったとのことで、どうしても「喉声」になってしまいます。先生が、「腹のそこから出して、もっと腹に力を入れて」と指導するのですが、結果、力んだ喉声にしかなりません。先生、ハタと思いついた様子で、

「あんた、『エエ声』の漫才師知ってるか、ちょっとてんごしてあれの真似してみなはれ」

とおっしゃいました。「てんご」というのは、ふざけて、とか、いたずら、という意味です。学生さん、照れながらも、

「はい、それでは、『エエ声~』」

とやりました。すると先生、

「できた。それ、それでっせ。今、腹に力入ったやろ」

ということで、ソルフェージュの先生が一年ほどかけて指導することを一瞬で伝授された、その現場を目撃させていただいたわけなのですが(笑)、

さて、これから福音書へと繋げるわけですが、勘の良い皆さんは既にお解りでしょう。福音書というものは、この方式で記されているわけです。

エス様のお話を聞いて、心底感服し、本当によく理解することが出来た人がいた、ということを伝えたい、というとき、ツバで捏ねた土を盲人の目に塗ったら、塗られた盲人の目が見えるようになった、と表現し、罵倒され、批判されても怯むことなく堂々と主張し続けた、というときには、大嵐の湖上を難なく歩まれた、と表現するわけです。

てんごで『エエ声~』と言って正しい発声を知ったからと言って、「それせいようのはるになれば」と応用できなくては意味がありません。同様に、言われた文字とおりに教会へ集まってパンを食べてぶどう酒を飲んで「ありがたいね」と言って終わりにしているようではただの迷信家の集まりでしかありませんよね(笑)。

 

「隅のかしら石]とは何のことか

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thescripturesays.org

福音書に「隅のかしら石」という表現があることをご存知でしょうか。訳によっては「隅の親石」とか「隅の要石」などとなっている場合もあります。

マタイの福音書 21:42

『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。

 イザヤ書の引用であるこの箇所にはどのような意味があるのでしょうか、たとえば、

meigata-bokushin.secret.jp

というサイトでは、

神によって選ばれた一つの石は、ある者にとっては「つまずきの石」「妨げの岩」となります。しかしそれに信頼する者は、決して失望することのない尊い礎石となるのです。石はメシアのメタファー(隠喩)ですが、その石が大きな山となって全地を支配するようになります。この「山」も「王国・支配」を意味するメタファーなのです。 

とまとめられています。ほとんどの教会は、この例のように、隅のかしら石とはキリストを意味する、と解釈していると思います。しかし、僕は、最初にこの解釈を聞いたとき、違和感がありました。イエス様が自分自身を指して「かしら石」と表現するだろうか、また直後の箇所にあるように、祭司長などパリサイ派の人々に対して皮肉のようなことを言うものなのだろうか、そのことが福音書に記録されている、と理解することが正しい解釈なのだろうか、と感じたわけです。

次のように理解すべきではないでしょうか。

上で引用した箇所の直前には「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか」とのことばがあったと記録されていますが、これは

マタイの福音書 19:30

しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

マタイの福音書 20:16

このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう

「あとの者は先になり、先の者はあとになる」の意味を理解することができないので、イザヤ書の言葉を引用して諭された、ということだったのです。

このブログでは既に説明申し上げているように、イエス様の言う「天の国・神の国」は、死後に現れる、天使や死者が戯れる夢の世界のことではなく、この世に実現されるべき、理想の状態のことです。

福音書のこの箇所は、その状態を実現するためには、すべての人が財産と欲望を捨て去って真実の価値観を得て互いに共有し、その真価を体得できなければならない、と説明しているわけです。

それで、そのためには長い年月が必要であって、何世代もかかるかもしれない。だから、それが実現された世の中の状態に生まれるものと、何も実現していない、または実現しつつある状態に生まれるものとで努力の差はあるかも知れない、ということを言っているわけです。しかしいずれにせよ、すでに彼らの心に神の国は実現されているではないか、ということです。

そしてパイオニアによってまず隅にかしら石が築かれるだろうと言っていて、その価値に気づく人は少なく、後になってから、ああ、あれがそうだったのか、と認識されるわけです。だから「わたしたちの目には不思議に見える」と記されているのです。

神の国は、死ねば生前の行いの報奨として神がくれるもの、と考えていては、結局何ひとつ捨てずに塵に戻って終わってしまうでしょう。

マタイの福音書 21:43

それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。

僕には「少なくともキリスト教徒には無理だ」と言っているように読めるのですが、手始めに「産業としての宗教」から離れた上、今一度聖書を開いてみてはいかがでしょうか。

結婚式に参列しました

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先日、親族の結婚式に参列しました。花婿が従兄の子で、花嫁も親族です。二人は、遠いとはいえ親族同士となるわけですが、まあ、余計な心配をする必要もないでしょう。

当親族には背の高い人が多いように思いますが、新郎は180センチほど、お嫁さんは165センチほどと、二人揃って背が高いので、並ぶと見栄えがしてよくお似合いのカップルでした。しかし親族同士で結婚されたら高く付きます。離婚したらお祝い二人分返してもらうからね。

そもそもプロテスタントは、教会で結婚式を行う習慣がなかったようで、カトリックのようなサクラメントとしての儀式・様式も確立されていません。ヨーロッパなどでは役場へ婚姻届を提出するついでに、その場で役人に結婚式を挙げてもらうのが習慣になっているような地域があるのだとか。質素でいいですよね。

日本の常識では、なかなかそうも行かないのでしょう。プロテスタント同士であっても教会で結婚式を挙げることが普通になっていますし、信徒でなくともキリスト教スタイルで式を挙げる人はたくさんいるようです。キリスト教の唯一の利用価値でしょう。僕は結構なことだと思っています。

新郎新婦がふたりともプロテスタントの場合は、お嫁さんが所属する教会で式を行うのだそうで、さほどは離れていないのですが、お嫁さんの教会へ伺って式に参列しました。我が親族は冠婚葬祭などにお金を掛けない、ということを旨としておりまして、貧乏人ばかりだということですが、この式も質素でした。お嫁さんは黒留袖、お婿さんは黒のスーツに白ネクタイと、親戚の結婚式に参列する夫婦のような装いで、知らない人がみたらびっくりするのではないかというようなものでした。

近くのホテルで行われた披露宴も同様にさっぱりとしたもので、親族は共通なので通常の場合の半分で、それに加えてそれぞれの友人、職場の上司や同僚などで、総勢100名ほどだったでしょうか。

会費制の立食形式で新郎新婦の席もなし、スピーチ、乾杯なども無しで、パーティの開始に際して媒酌人の挨拶が一言あっただけでした。

新郎新婦も参列者も、最初はおとなしくもじもじしていたのですが、そのうちにだんだんと打ち解けて、互いの出席者でお喋りを楽しむなど、とても良い宴会になったと思います。

身内の近況報告のような記事になってしまいましたが、こんな結婚式もあるんですよ、というご紹介ということでご寛恕ください。