キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「隅のかしら石]とは何のことか

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thescripturesays.org

福音書に「隅のかしら石」という表現があることをご存知でしょうか。訳によっては「隅の親石」とか「隅の要石」などとなっている場合もあります。

マタイの福音書 21:42

『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。

 イザヤ書の引用であるこの箇所にはどのような意味があるのでしょうか、たとえば、

meigata-bokushin.secret.jp

というサイトでは、

神によって選ばれた一つの石は、ある者にとっては「つまずきの石」「妨げの岩」となります。しかしそれに信頼する者は、決して失望することのない尊い礎石となるのです。石はメシアのメタファー(隠喩)ですが、その石が大きな山となって全地を支配するようになります。この「山」も「王国・支配」を意味するメタファーなのです。 

とまとめられています。ほとんどの教会は、この例のように、隅のかしら石とはキリストを意味する、と解釈していると思います。しかし、僕は、最初にこの解釈を聞いたとき、違和感がありました。イエス様が自分自身を指して「かしら石」と表現するだろうか、また直後の箇所にあるように、祭司長などパリサイ派の人々に対して皮肉のようなことを言うものなのだろうか、そのことが福音書に記録されている、と理解することが正しい解釈なのだろうか、と感じたわけです。

次のように理解すべきではないでしょうか。

上で引用した箇所の直前には「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか」とのことばがあったと記録されていますが、これは

マタイの福音書 19:30

しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

マタイの福音書 20:16

このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう

「あとの者は先になり、先の者はあとになる」の意味を理解することができないので、イザヤ書の言葉を引用して諭された、ということだったのです。

このブログでは既に説明申し上げているように、イエス様の言う「天の国・神の国」は、死後に現れる、天使や死者が戯れる夢の世界のことではなく、この世に実現されるべき、理想の状態のことです。

福音書のこの箇所は、その状態を実現するためには、すべての人が財産と欲望を捨て去って真実の価値観を得て互いに共有し、その真価を体得できなければならない、と説明しているわけです。

それで、そのためには長い年月が必要であって、何世代もかかるかもしれない。だから、それが実現された世の中の状態に生まれるものと、何も実現していない、または実現しつつある状態に生まれるものとで努力の差はあるかも知れない、ということを言っているわけです。しかしいずれにせよ、すでに彼らの心に神の国は実現されているではないか、ということです。

そしてパイオニアによってまず隅にかしら石が築かれるだろうと言っていて、その価値に気づく人は少なく、後になってから、ああ、あれがそうだったのか、と認識されるわけです。だから「わたしたちの目には不思議に見える」と記されているのです。

神の国は、死ねば生前の行いの報奨として神がくれるもの、と考えていては、結局何ひとつ捨てずに塵に戻って終わってしまうでしょう。

マタイの福音書 21:43

それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。

僕には「少なくともキリスト教徒には無理だ」と言っているように読めるのですが、手始めに「産業としての宗教」から離れた上、今一度聖書を開いてみてはいかがでしょうか。